女神生まれ変わる 2
五歳の誕生日を迎えた春のことだった。
いつものように父が朝の準備をしている。動きやすいように、革製の鎧を急所になる部分にはめて行き、得物の様子を確認する。
リリシアは彼に、毎日のように問いかけていた。
「今日も森の巡回?」
「ああ。」
父の短い返事に、リリシアはもう一歩踏み込む。
「連れてってほしいわ。」
「……ダメだ。」
これもまた、彼らの間で繰り返される、いつもの問答だった。しかし、この日、リリシアは簡単に引き下がるつもりはなかった。彼女の中には、何かを証明したいという、明確な意志が芽生えていたのだ。
「どうしてダメなの? ワタシ、動ける。」
「子供が来るような場所じゃない。」
父は、表情を変えずにきっぱりと言い放つ。だが、リリシアはそこで諦めるような子ではなかった。
「じゃあ、見てて。」
父が驚いて振り返るよりも早く、リリシアは庭へと飛び出していた。裏手にある木柵に向かって、彼女は助走もつけずに、軽々とそれを飛び越える。それは、父の背丈よりもはるかに高い柵だった。
一瞬の、短い沈黙が訪れた。父の目が、信じられないものを見たかのように見開かれる。
「……お前、それは……」
「どう? すごいでしょ。」
得意げに言い切ったリリシアに、父は何とも言えない複雑な顔をした。
眉根を深く寄せ、顎に手を当てて、深く、しかし静かに息を吐き出す。その表情には、驚きと、困惑と、そしてかすかな期待のようなものが入り混じっていた。
「……母さんに訊いてこい。」
その言葉が、父なりの許可の合図だと、リリシアは瞬時に理解した。父の硬い表情の裏に、わずかながらも譲歩が見えた気がした。
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母の返事は、予想に反して断言するような、しかしどこか穏やかな声で、「まあ、いいんじゃないかしら」というものだった。
ただし、そこにはいくつかの条件が付随していた。
「父さんの言うことは、しっかり聞くこと。勝手に一人で動いてはいけないわ。それと……」
母は、ゆっくりと両手を軽く合わせた。その指先から、淡い緑色の光がじわりと滲み出てくる。その温かな光がリリシアの額に触れた瞬間、体の奥底からじんわりと、かすかな温かさが全身に広がっていくのを感じた。それは、まるで優しい毛布に包まれたような心地よさだった。
「……魔法、使えるの?」
五年間、一度として母が魔法を使う場面を見たことがなかったリリシアは、驚きに目を丸くした。その反応を見て、母は少し可笑しそうに、ふわりと笑う。
「使えるわよ。普段は、特別な事情がない限り、使う場面歯ないけどね。」
「どんな魔法なの?」
リリシアは、興味津々といった様子で問いかけた。
「シアを守ってくださいの、御呪い。」
魔法の説明は一切ない。原理も理屈もわからないが、母の魔法はそれ以上の安心感をリリシアに与えてくれた。
五歳児のあどけない顔のまま、リリシアは内心で理解する。目の前の母が、ただの村の女性ではないことを、彼女は理解したのだ。
「もし父さんがひどい怪我を負ってしまったら、すぐに私を呼びなさい。どんなに遠く離れていても、この光を空に向けて放てば、きっと届くから。」
そう言って、母は再び指先に光を灯して見せた。先ほどよりも鮮やかな緑がかった白い光が、朝の澄んだ空気の中にほんの一瞬、まるで花が咲くかのように開いて、そして静かに消えた。それは、緊急時における、母の存在を示す確かな証だった。
「……分かった。」
リリシアは神妙な面持ちでうなずいた。母の言葉の重さを、その光の持つ意味を、幼いながらも深く理解した瞬間だった。
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北の森は、集落の北側の境界線を兼ねていた。
辺境と呼ばれる森というのは、ただの自然林ではない。
それは、一歩足を踏み入れれば魔物が出没し、もし主要な街道が封鎖されれば、村への物流が滞りかねない、まさにそういう種類の危険を孕んだ場所だった。父の仕事は、その重要な境界線を、日々の巡回によって守り続けることなのだ。
彼は定期的に森を巡り、獣道の状態を確認し、仕掛けた罠に異常がないかを点検する。そして、魔物の痕跡を見つければ、すぐに村へと報告する。それは、決して華々しい仕事ではない。
地味で地道な作業の連続だが、村の安全と生活を守るためには、決して欠かすことのできない、極めて重要な役割だった。
「父さんって、毎日これをやっているの。」
リリシアは、父の大きな歩幅に遅れないよう、小走りでその隣を追いかけながら言った。父の歩く速度は、通常の五歳児であればすぐに息が上がり、半泣きになるほどの速さだったが、リリシアにはまだ余裕があった。
「ああ。」
父は短く答える。
「魔物が出たら、どうするの?」
「剣で仕留める。」
「魔法は使わないの?」
父は、ちらりとリリシアを見下ろした。その表情には、特に感情の揺れは見られない。
「使えん。」
短く、しかし何の気負いもなく言い切る父の言葉に、リリシアは少し考え込んだ。魔法を使えない、という事実と、これだけ頼もしい父の姿が、彼女の中でうまく結びつかなかったのだ。
「……でも、強いよね。さっきから、父さんの足音が全然聞こえないもの。」
「慣れだ。」
それ以上の多くを語ろうとしない父の横顔を、リリシアは少し見上げた。大きな傷跡のある頬が、木漏れ日の光を受けて、静かに輝いているように見えた。
魔法を持たない人間が、この危険な辺境の森を守り続けている。彼女が知る『強さ』とは、少し違う種類の強さだった。
ふと、リリシアは『嫌な感覚』を覚える。その出所の説明は、彼女自身にもすることができない。
「……父さん。右の方に、何かいる。」
突然、リリシアが立ち止まってそう言うと、父は一瞬、ぴたりと動きを止めた。それから無言で、リリシアの前に出流。腰に帯びた剣の柄に手をかけ、右手側の茂みを静かに見つめる。その瞳には、すでに警戒の色が宿っていた。
リリシアには分かった。父の目が、先ほどまでとは別人のように変わっていた。それは、研ぎ澄まされた、獲物を狙う狩人の目だった。魔力とは無縁の、純粋な経験と、磨き抜かれた勘が作り上げた、確かな目。
しばらくして、茂みの奥から、ゆっくりと大きな影が二つ現れた。灰色の毛並みに、わずかに濁った目を光らせた山犬が二頭。それは、魔力の影響を受けて凶暴化した、魔獣の類だった。彼らの存在が、森の空気を一層張り詰めさせる。
「下がってろ。」
父が低く、しかし断固とした声で言った瞬間、リリシアはすでに二歩、後ろに退いていた。
父の広い背中越しに、その後の動きを見た。大柄な体が、まるで迷いなく動く。剣を抜くと同時に大地を踏み込み、その気迫で、先頭の一頭を威圧するように制した。もう一頭が迂回して背後を狙おうとしたその瞬間、父の体は既にそちらへと向いていた。
そこには、魔法も、特別な魔力も、何一つない。あるのは、数々の修羅場を潜り抜けてきた、父の肉体と精神に刻み込まれた、純粋な経験に基づいた体の判断と、研ぎ澄まされた技だけだった。
山犬たちは、一瞬ひるんだ後、唸るような声を上げると、踵を返して森の奥へとあっという間に消えていった。まるで、最初からそこにいなかったかのように。
「……すごい。」
思わず口から漏れた言葉に、父は振り返ることなく、静かに剣を鞘に収めた。その背中は、依然として頼もしく、揺るぎない。
「怪我はないか。」
「ない。」
「そうか。」
また歩き始めた父の広い背中を追いかけながら、リリシアは自分の中で何かがゆっくりと整理されていくのを感じた。魔法を持たない人間が、これほどまでのことができる。数百年の記憶の中にも、確かにそういう人間はいた。しかし、こうして隣で、その生身の強さを間近で見るのは、生まれて初めての経験だった。
山犬が退いた際に、慌てて後ずさった拍子に、木の根に足を取られていたことに気が付いた。膝の下が、じんわりと赤く滲んでいる。転んだ際に擦りむいた程度の大したことのない怪我だ。しかし、父が責められるのに十分なケガ。
リリシアは立ち止まって、その傷口をじっと見つめた。
母が魔法を使う様子を、今朝、確かに見ていた。指先から淡い光が滲み出て、触れた場所が温かくなったのを肌で感じた。
見よう見まねで、リリシアは自分の指先をそっと、傷口に当ててみた。
しかし、何も、起きなかった。
当然だと思いながらも、もう少しだけ、意識を指先に集中させてみる。体の奥の、どこか遠い場所に、まだうまく掴めない、しかし確かに存在する何かがあるような気がした。
ほんの少しだけ、指先が温かくなったような、そんな気がした。もしかしたら、それはただの「気のせい」だったのかもしれない。
傷は塞がらず、じくじくとした痛みもそのまま残っていた。ただ、ほんのわずかだけ、微かな熱を帯びた感覚が、確かに指先に宿っていたような気がしたのだ。
(……まだ、ちゃんと使えないのね。)
当たり前だ、とリリシアは思った。この体はまだ小さく、魔法を使うための経験も全くない。女神の眷属として培った、膨大な記憶があったとしても、この肉体はまだ、たった五年しか生きていないのだから。
リリシアは再び立ち上がり、歩き始めた父の背中を、静かに追った。




