静かな町
静穏化工事の翌朝、隣室の表札がなくなっていた。
毎晩、壁越しに響いていた足音も止んでいる。
片桐は管理会社に問い合わせようとして、やめた。昨夜、久しぶりに朝まで眠れたからだ。
「はぁ……最高じゃん……」
隣人は夜中の二時でも平気で洗濯機を回す男だった。何度注意しても改まらず、最後には壁を蹴りながら「うるさい!」と怒鳴り返してきた。片桐も負けじと壁を叩いた。そんな生活が半年続き、眠れない苛立ちから、仕事で些細なミスをするようになっていた。
だから、町内一斉の静穏化工事が決まったときは、本当に嬉しかった。
掲示板には、まだ工事の通知が貼られている。
『騒音源を順次除去し、完全な静穏環境を実現します』
ずいぶん大げさな宣伝文句だと思ったが、効果は確かだった。隣室だけではない。廊下を歩く足音も、階下のテレビも聞こえなくなった。窓の外でいつも吠えていた犬まで静かになっている。
片桐は幸福だった。
しかし三日目の朝、冷蔵庫がなくなっていた。
台所の床に牛乳や卵が散らばり、冷凍食品は溶けて水浸しになっていた。玄関の鍵はかかっている。窓も閉まっている。泥棒が入った形跡はなかった。
床に、一枚の紙が落ちていた。
『騒音対象:冷蔵庫稼働音』
『騒音源の除去が完了しました』
片桐は紙を読み返した。まさか。
隣人の足音に苛立つ夜は、冷蔵庫の唸りまで耳障りだった。
だが、だからといって冷蔵庫そのものを持ち去る必要があるのか。
片桐は管理会社に電話した。何度かけても誰も出ない。仕方なく直接出向こうとしたが、玄関を開けて足が止まった。
廊下には誰もいなかった。
隣室だけではない。向かいの部屋も、その隣も、表札が取り外されていた。共用廊下には、いつも置かれていた傘立てや子供用の三輪車すら見当たらない。
片桐が廊下へ一歩踏み出すと、足音が向かいの壁に跳ね返った。
慌てて足を引っ込める。
隣人も、こうして廊下を歩いていたはずだ。
片桐はドアを閉め、鍵をかけた。
その夜から、片桐は音を立てないように暮らした。スリッパを脱ぎ、食器はタオルの上に置き、咳が出そうになると口を押さえた。
部屋が静まるほど、鼻の奥で鳴る自分の息が耳についた。あれほど望んでいた静けさのなかで、片桐は眠れなくなった。
翌朝、玄関の下に新しい紙が差し込まれていた。
『騒音対象:呼吸音』
片桐は鼻をつまみ、口を閉じた。肺に空気が残っているうちはよかった。しかし、しばらくすると胸が苦しくなり、我慢できずに息を吸い込んだ。
紙の文字が変わった。
『騒音が継続しています』
慌てて息を止める。
『騒音が停止しました』
また息を吸う。
『騒音が継続しています』
冗談じゃない。
呼吸まで騒音だというのか。
片桐は紙を握り潰し、床に投げ捨てた。
こんなところにはいられない。町内一斉の工事なら、町を出ればいい。ここから町境までは、走ればそう遠くない。
財布と鍵をつかみ、玄関を開けた。
廊下の突き当たりに階段が見えた。
片桐は走った。
足音が廊下に響いた。片桐は歩幅を縮め、音を殺そうとした。しかし、これでは階段までなかなかたどり着けない。
片桐は再び走り出した。
階段が近づくにつれ、呼吸が荒くなった。吸うたびに喉の奥が鳴り、吐く息まで耳につく。足を止めれば少しは静まるかもしれない。だが、息を整えている時間さえ惜しかった。
階段を駆け下りた。心臓が激しく脈打っている。自分の身体が、こんなにも騒がしいものだとは思わなかった。
階段を下りきると、外の道路が見えた。
あと少しなのに、片桐は息を整えるために立ち止まった。
しかし、どうしても呼吸が止まらない。鼻をつまんでも、口を閉じても、身体が勝手に空気を求めてしまう。
もう無理――
片桐は口を開け、大きく息を吸った。
その瞬間、廊下に小さな金属音が響いた。
床に鍵が落ちていた。
すぐそばに財布も転がっていた。
片桐の部屋では、床に捨てられた紙の文字が変わっていた。
『騒音源の除去が完了しました』
住宅地には、完全な静寂が戻った。




