燃え残った闇
火葬を終えた遺骨の中に、黒い金属が混じっていた。
下顎の骨に食い込むように収まった、親指の先ほどの塊だった。人工関節でも歯の詰め物でもない。奇妙に湾曲した表面には、磨かれた石のような艶がある。火葬炉から出されたばかりなのに、指でつまむとひどく冷たかった。
宮原は火葬場で働いて五年になる。
死者は誰も責めず、傷つけもしない。宮原はその静けさが好きで、遺骨の小片まで丁寧に拾い、遺族の前では決して急がなかった。
だが、黒い金属を見つけた途端、骨のことなどどうでもよくなった。
光にかざしても、金属には自分の顔が映らなかった。どれほど眺めても底が見えない黒さに、胸が満たされた。
宮原は周囲を確かめ、金属をポケットに滑り込ませた。袖に触れた骨の欠片が床に落ちたが、拾わなかった。
帰宅すると、金属を洗い、柔らかな布で磨いた。小さな木箱を買って白い布を敷き、中央に置いた。
以来、毎晩それを眺めるようになった。
ただ見つめているだけで幸せな気持ちになった。
*
骨壺の蓋が床に落ち、乾いた音が響いた。島田が慌てて拾おうとした。
幸い割れなかったが、上司にひどく叱られた。島田は耳まで赤くし、何度も頭を下げていた。
宮原は駆け寄って蓋を拾った。
「大丈夫ですよ。誰にでも失敗はありますから」
島田は申し訳なさそうに笑った。
宮原も笑い返した。
もっと叱られればいいのに。
そんな考えが浮かんで、慌てて打ち消した。
昔からそうだった。誰かが失敗したり、不当に責められたりすると、胸の奥がすっとする。もちろん困っている人間を助けたい気持ちも本物だった。だからこそ、そんな自分が嫌だった。
その夜、金属を撫でながら島田の顔を思い出した。
赤い耳。垂れた眉。震えた声。
思わず笑った途端、掌の金属が温かくなった。
宮原はもう一度、島田の情けない顔を思い浮かべた。
金属はさらに温かくなった。
それから宮原は、仕事中に誰かの不幸を見ると、その様子を細かく覚えておくようになった。
帰宅してから、金属を磨きながら思い出すためだった。
やがて、何も起こらない日が物足りなくなった。
*
火葬場の廊下を、島田が重い台車を押して歩いていた。
宮原は取っ手の留め具が外れかけていることに気づいた。
声をかけようとしたが、島田が転んだらどんな顔をするだろう、と考えてしまった。
宮原は黙っていた。
ほどなく取っ手が外れ、島田は倒れた台車に右腕を挟まれた。
悲鳴が響いた。
宮原は誰よりも早く駆け寄り、ほかの職員と協力して台車を起こした。島田の腕は不自然な方向に曲がっていた。
「動かないでください。救急車を呼びますから」
島田は泣きながら宮原の手を握った。宮原も握り返した。
痛みを代わってやりたいのに、その泣き顔が消えるのは惜しかった。
その晩、金属は握っていられないほど熱かった。
宮原は木箱の前に座り、島田の悲鳴を何度も思い出した。
声をかけていれば、事故は防げたかもしれない。
それなのに笑みがこぼれる。
「俺、気づいてたのに……」
宮原は木箱の中の金属に話しかけた。
「最低だ」
金属は黒く光っていた。
「……なのに、どうしてこんなに嬉しいんだろう」
宮原は指先で金属を撫でた。
「お前のせいだよな」
口にすると、少し安心した。火葬された人間の、焼いても消えなかった悪意が宿っているのかもしれない。
宮原は金属を木箱に戻し、蓋を閉じた。
それでも島田の悲鳴を思い出すと、笑みが浮かんだ。
*
島田が職場に戻ってきたとき、右腕にはまだ固定具がついていた。それでも表情は明るかった。
「宮原さんがすぐ助けてくれたおかげです」
島田は何度も礼を言った。
宮原は本当に嬉しかった。元気になってよかったと思った。
だが、島田が笑うたび、あの悲鳴が遠ざかっていくような気がした。
その日の仕事が終わっても、宮原は帰らなかった。
島田も残っていた。宮原が片付けを手伝うと申し出たためだ。
二人きりになると、宮原は尋ねた。
「島田さん、腕はもう痛みませんか」
「ええ。だいぶよくなりました」
「そうですか。よかった」
宮原は微笑んだ。
「でも、あの日は本当に大変でしたね」
「いやあ、もう二度とごめんですよ」
「そうでしょうね」
宮原は少し考えた。
「……また痛くなったら、どうします?」
「え?」
「いえ。何でもありません」
もう一度、あの顔が見たかった。
宮原は島田の腕をつかんだ。
「宮原さん? どうしたんですか」
島田は笑いながら腕を引いた。宮原は離さなかった。
「もう一度、あの顔を見せてください」
「……何を言ってるんですか」
島田の笑顔が消えた。
「ああ。それです」
島田が逃れようとしたとき、宮原は空いた手をその首に伸ばした。
悲鳴が上がった。
宮原は手を離しかけた。今なら謝れる。まだ間に合うかもしれない。
だが、離さなかった。
島田の顔が恐怖に歪むほど、胸の奥が満たされていった。
やがて島田の抵抗がなくなった。
宮原はようやく手を離した。島田は床に崩れ、動かなくなった。
「島田さん」
返事はなかった。
宮原は涙を拭い、島田の乱れた襟を直した。
ボタンを留めるあいだ、口元が緩むのを何度も噛み殺した。
島田は親切な男だった。仕事で失敗しても、腕を折っても、誰かを恨んだりしなかった。
死なせる必要などなかった。
宮原はハンカチの面を替えながら、島田の頬の汚れを丁寧に拭った。それから自分の上着を丸め、頭の下に敷いた。
生きている間も嫌いではなかった。なのに、死んでしまった今の方が、ずっと大切にしてやりたかった。
宮原はポケットから黒い金属を取り出した。
いつから持ち歩くようになったのか、自分でも覚えていなかった。
掌の金属は熱かった。
死者から盗んだものだ。
いつか誰かに取り上げられるかもしれない。警察が来れば、木箱も、あの幸福な夜も、すべて失うだろう。
宮原は金属を握り締めた。
誰にも渡したくなかった。
ふと、島田の口が少し開いていることに気づいた。
宮原はその唇をそっと閉じてやった。
冷たくなり始めた頬を撫でながら、あの火葬された遺体を思い出した。下顎の骨に収まっていた黒い塊。肉も皮膚もなくなったあと、ただ一つ残っていたもの。
宮原は金属を見つめた。
そして、自分の口を開いた。
舌の上に載せると、金属は思いのほか柔らかく感じられた。奥歯の裏に押し当てる。奇妙な湾曲が、そこに以前からあったもののようにぴたりと収まった。
「――っ」
宮原は慌てて舌で金属を押し戻した。動かない。さらに力を込めると、歯茎の奥に痛みが走った。
宮原は洗面所へ駆け込み、鏡の前で口を開けた。
奥歯の内側から、黒い金属が覗いている。歯茎がその縁を覆い始めていた。
指を差し入れ、金属の縁に爪をかけて引いた。
金属がわずかに浮き、歯茎から血が滲んだ。
取り出せる。
宮原は爪に力を込めた。
気づくと、舌はもう金属を押し返していなかった。
さっきまで耐えがたかった異物感と歯茎の痛みが急速に薄れていく。
宮原は鏡の中の自分を見つめた。
爪に込めた力が緩んだ。
指が口から抜け、手がだらりと垂れた。
舌先が、金属の丸みにそっと沿った。
宮原はゆっくりと口を閉じた。
血の味がした。
試しに笑ってみた。鏡の中には、いつもと変わらない、物静かな男が映っていた。
宮原は安心した。
もう、誰にも盗まれない。




