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死蔵書庫  作者: 大窟凱人


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11/13

鍵だらけの部屋

 外から来るものは、嫌いだ。


 廊下を歩く足音も、窓の向こうから上がる笑い声も、学校から届くメールも、母からの電話も、閉めたはずの場所をどこかから見つけて入り込んでくる。


 裕太の部屋には、何十もの鍵があった。

 だが、別に閉じ込められているわけではない。

 トイレに行きたければ鍵を外して廊下へ出る。風呂にも入るし、腹が減れば食事を買いに行く。人の少ない時間を選ぶことはあっても、外出できないわけではなかった。


 鍵は、裕太を一人にしてくれた。

 その夜も、机の上でスマホが震えた。


『裕太、最近どうしてる? 返事だけでも』


 担任だった。

 裕太は画面を伏せた。すぐに母から着信が入り、それが切れると、今度はSNSの通知が三件続いた。

 教室の写真だった。

 肩を寄せた同級生たちが笑っている。

 それなのに胸の奥を覗かれたような気がした。


「……クソどもが」


 スマホを壁へ投げた。まだ画面が光っていたので、拾ってもう一度叩きつけると、黒いガラスに亀裂が走り、笑っていた顔が何人にも割れた。

 パソコンを閉じても、棚のルーターだけは緑色に瞬いていた。

 外はまだ生きている。

 コードを抜き、床へ落として踏むと、その小さな灯りも消えた。


 机には夕食が置いてあった。

 いつもの店の袋に入った、いつもの弁当だった。

 裕太はそれを食べた。誰にも会わずに済んだ一日の終わりとしては、悪くなかった。

 壁に打った釘には、銀色の鍵が何十本も吊るされていた。古い南京錠や、何を開けるのか分からなくなった鍵も混じっている。


 分からなくても困らない。

 使っている鍵は全部覚えているのだから。

 エアコンの冷たい風が壁際を通ると、鍵同士が触れ合った。

 カチャ、カチャ、と小さく鳴る。

 裕太はその音が好きだった。

 誰も入ってこない音だった。

 その夜は、久しぶりによく眠れた。


         *


「はぁっ……! はぁっ……! い……っいてぇ!」


 腹の痛みで目が覚めた。

 身体の奥に細い棒を一本差し込まれ、それをゆっくり捻られているような痛みだった。

 寝返りを打つと下腹から背中へ一気に突き抜け、裕太は息を止めた。起き上がろうとした途端に吐き気が込み上げ、ベッドの脇へ吐いた。


 胃には何も残っていない。

 それでも腹だけは、何かを外へ押し出そうとして何度も収縮した。

 床に頬をつけたまま、しばらく動けなかった。


 ヤ……ヤバいかも。


 スマホへ手を伸ばした。

 画面は黒かった。

 昨夜、自分で壊したからだ。

 パソコンを開いても、踏み割ったルーターが机の下に転がっている。

 昨日の自分は、よく働いていた。


「……病院」


 声にした瞬間、その二文字が部屋の外にあるものだと分かった。

 裕太は壁に掌をつき、吐き気の波が引くたびに少しずつ進んだ。

 扉までは十歩もない。

 補助錠を外し、チェーンを落とし、南京錠も開けた。

 毎日のことだった。

 全部覚えている。

 ドアノブを回した。

 扉は数センチ動いて止まった。

 下の方で、硬い金属音がした。

 見下ろすと、扉と床を直接つなぐ黒い金具があった。太い。中央に鍵穴が一つある。取り付けた螺子の頭は金具の下に隠れていた。


「は? なにこれ?」


 見覚えがなかった。

 しゃがみ込んで触れると、鍵穴の周囲には細かな傷が幾重にもついていた。

 壁から鍵束を外し、合いそうなものから試した。

 どれも回らない。


 手の震えがひどくなってきた。

 腹が強く縮んだ。


「う、ぐっ……! おえっ」


 裕太はその場で吐き、鍵束を取り落とした。

 何十本もの鍵が吐瀉物の上へ散り、乾いた金属音が途中で鈍くなった。

 昨夜まで、あんなに好きだった音だ。


 ひどい匂いがした。

 裕太は壁へ背を預けた。


 そのとき、右手の親指が痛んだ。

 見れば、付け根の皮が薄く剥け、赤くなっている。

 こんな傷はなかったはずだ。


 いつも間に……?


 擦り傷にしては大きすぎる。

 違和感――何か変だ。

 裕太は部屋を見渡した。


 ふと、棚の上に大学ノートがあるのに気づいた。

 見覚えがない。

 だが、これ見よがしに置かれている。まるで読んでくれと言っているようだ。

 表紙をめくると、日付の横に短い文章が並んでいた。

 自分の筆跡だった。


『担任から電話。また出なかった。切ったあとも、しばらく画面を見ていた』

『母親から連絡が来ると怒る。来なくなると、今度は見捨てられたと思う。面倒な男だ』


 裕太はページをめくった。


『鍵を増やしたらしい。玄関の前で何度も開け閉めしていた。最後には笑っていた』

『あいつが安心して眠るところが嫌いだ。誰も自分に触れられないと思っている顔をしている』


 日付は数週間前だった。

 そのころの自分を思い出そうとした。確かに、新しい南京錠を買った覚えがある。電話を切ったことも、鍵を掛けて安心したことも覚えている。

 ただ、こんな文章を書いた記憶はなかった。


『あいつは俺が何もしなくても、人を遠ざけてくれる。母親も教師も友人も、全部あいつ自身が追い払う』

『いずれ誰かに助けてほしくなる日が来る。その日のために、邪魔はしないことにした』


 裕太は指を止めた。

 次のページには、鍵の配置が描かれていた。

 玄関、窓、壁に吊るした鍵束。

 自分で書いたとは思えないほど、細かかった。


『計画を実行するまで鍵は開けられるままにしておく。あいつが疑い始めたら困る。トイレにも風呂にも行かせる。買い物だって好きにさせる』

『外へ出られると思っている人間ほど、出口がなくなったときの顔は面白いだろう』


 裕太はノートを閉じようとした。

 しかし、最後のページに昨夜の日付が見えた。


『スマホを壊した。ルーターまで踏み割った。あいつが自分でやった。あんなに都合のいいことはない』

『夕食には毒を混ぜた。あいつは何も知らずに食べた』


 裕太の腹が縮んだ。

 指が紙を掴んだまま動かなかった。


『最後の錠も取り付けた。いつもの鍵は全部開けられるようにしてある』

『あいつはまず、それを外すだろう。知らない金具を見つけると、壁の鍵を持ってくる。あいつは昔から、困ると手当たり次第に試す。考えるより先に手を動かす』


 裕太は床を見た。

 足元には、自分が落とした鍵が散らばっていた。


『それでも開かなければ、次は窓だ。まずは椅子を持ち上げる。外に人がいるのを見つけたら、助けを呼ぶことだって考えるだろう』

『考えるだけだ』

『誰かが振り向いて、自分のために立ち止まる。事情を聞かれる。部屋に入られる。あいつはそういうことに耐えられない』

『だから、あいつは一人で何とかしようとする』


 裕太はページをめくろうとした。

 もう紙がなかった。

 最後の文章だけ、ひどく丁寧な字で書かれていた。


『俺も死ぬ。それは分かっている』

『でも、あいつが苦しんで、誰かを呼ぼうか迷って、最後まで呼べずに死ぬなら、それでいい』

『この計画でいちばん信用できるのは、裕太の性格だ』


 その下には一行だけ残っていた。


『おはよう。今日こそ誰かに助けてもらえるといいな』


 裕太はノートを閉じた。

 床には、日記のとおり鍵が散らばっていた。


 裕太は窓を見た。

 その下には椅子がある。持ち上げようとして、手が止まった。

 日記に書いてあった。次は椅子を持ち上げる、と。


 椅子から手を離し、カーテンを引いた。

 窓を開けようとしたが、サッシは動かなかった。窓枠にも、見覚えのない金具が渡されていた。

 ガラスの向こうでは、制服姿の生徒たちが何事もないように歩いていた。

 

 助けを呼べばいい。外へ出るんだ。

 外……?


「――っ」


 そう思った途端、胸が苦しくなった。


 誰かが振り向く。立ち止まる。窓越しに自分の顔を覗き込む。どうしたのかと聞かれ、部屋に入ってくる。床の吐瀉物も、壁に吊るした鍵も、何もかも見られてしまう。

 きっと気味悪がられる。

 学校にも知れ渡るだろう。あいつ、鍵をかけすぎて出られなくなったらしいぜ。そんな声まで聞こえてきた。


 誰が助けなんか求めるか。

 あいつらの世話になるくらいなら。

 腹の奥が引き絞られた。


「ぐっ……!」


 窓枠にしがみついた。膝が折れ、額がガラスにぶつかる。冷たい汗が顎から滴った。もう何も吐くものがないのに、喉だけが何度もせり上がってきた。


 死ぬ。


 このままでは、本当に死ぬ。

 裕太は窓の向こうを見た。


 買い物袋を提げた女が、荷物を持ち直して通り過ぎた。向かいの軒先では、干されたシャツの袖が風に揺れている。

 裕太は冷たいガラスに額を押しつけたが、女は一度も顔を上げなかった。

 自分が死にかけていることなど、誰も知らない。

 当然だ。自分で遠ざけたのだから。

 

 どうして誰も気づかない。

 どうして誰も来てくれない。


 そこまで考えて、裕太は唇を噛んだ。

 なんて身勝手な人間だろう。人を嫌い、蔑み、近づくなと願いながら、いざ死にそうになると、誰かが助けに来ることを期待している。


 腹を押さえた手が震えている。親指の付け根には、覚えのない傷がある。

 昨夜、この手で扉を塞いだのだ。


 日記を書いた奴の気持ちがわかってきた。奴は今の俺をみて笑うだろうか、それともさらなる軽蔑の眼差しを向けるのだろうか。


 日記の文字が浮かんだ。


『この計画でいちばん信用できるのは、裕太の性格だ』


 決めつけるな。

 そう言い返したかった。

 だが、窓の外にいる人間を呼び止めることすらできない。

 また腹が痛んだ。息を吸おうとしても、途中で止まる。指先から感覚が失われていく。


 誰かに見られる。

 笑われるかもしれない。

 軽蔑されるかもしれない。


 それでも。

 死にたくない。

 裕太は窓に顔を寄せた。

 外を歩く男の背中が見える。

 声を出そうとすると、喉が塞がった。情けない。こんなことさえできない自分が、たまらなく恥ずかしかった。

 もう一度――息を吸った。


「た……助けて」


 かすれた声だった。

 誰も振り向かない。

 恥ずかしかった。消えてしまいたかった。

 それでも、消えたくなかった。


「助けて!」


 裕太はもう一度叫んだ。


 道路の向こうで、犬を連れた老人が足を止めた。

 こちらを見ている。

 裕太は窓に手を振った。だが老人は動かない。声が届いているのかも分からなかった。


 裕太は椅子を掴んだ。

 今度は脱出するためではなかった。

 窓へ叩きつける。


 鈍い衝撃が腕を伝い、ガラスに細い亀裂が走った。

 老人が何か叫んだ。

 ポケットから携帯を取り出している。


 助かる。

 そう思った途端、膝から力が抜けた。椅子が滑り落ち、裕太もその隣へ崩れた。

 床に投げ出した右手には、親指の付け根に赤い傷があった。

 昨夜、あの金具を取り付けた手だった。


 裕太は窓へ顔を向けた。

 老人の姿は、床からはもう見えなかった。

 エアコンの風が壁際を通り、鍵が揺れた。


 カチャ、カチャ。


 鍵の音が、少しずつ遠くなっていく。

 外から、足音が近づいてきた。 

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