鍵だらけの部屋
外から来るものは、嫌いだ。
廊下を歩く足音も、窓の向こうから上がる笑い声も、学校から届くメールも、母からの電話も、閉めたはずの場所をどこかから見つけて入り込んでくる。
裕太の部屋には、何十もの鍵があった。
だが、別に閉じ込められているわけではない。
トイレに行きたければ鍵を外して廊下へ出る。風呂にも入るし、腹が減れば食事を買いに行く。人の少ない時間を選ぶことはあっても、外出できないわけではなかった。
鍵は、裕太を一人にしてくれた。
その夜も、机の上でスマホが震えた。
『裕太、最近どうしてる? 返事だけでも』
担任だった。
裕太は画面を伏せた。すぐに母から着信が入り、それが切れると、今度はSNSの通知が三件続いた。
教室の写真だった。
肩を寄せた同級生たちが笑っている。
それなのに胸の奥を覗かれたような気がした。
「……クソどもが」
スマホを壁へ投げた。まだ画面が光っていたので、拾ってもう一度叩きつけると、黒いガラスに亀裂が走り、笑っていた顔が何人にも割れた。
パソコンを閉じても、棚のルーターだけは緑色に瞬いていた。
外はまだ生きている。
コードを抜き、床へ落として踏むと、その小さな灯りも消えた。
机には夕食が置いてあった。
いつもの店の袋に入った、いつもの弁当だった。
裕太はそれを食べた。誰にも会わずに済んだ一日の終わりとしては、悪くなかった。
壁に打った釘には、銀色の鍵が何十本も吊るされていた。古い南京錠や、何を開けるのか分からなくなった鍵も混じっている。
分からなくても困らない。
使っている鍵は全部覚えているのだから。
エアコンの冷たい風が壁際を通ると、鍵同士が触れ合った。
カチャ、カチャ、と小さく鳴る。
裕太はその音が好きだった。
誰も入ってこない音だった。
その夜は、久しぶりによく眠れた。
*
「はぁっ……! はぁっ……! い……っいてぇ!」
腹の痛みで目が覚めた。
身体の奥に細い棒を一本差し込まれ、それをゆっくり捻られているような痛みだった。
寝返りを打つと下腹から背中へ一気に突き抜け、裕太は息を止めた。起き上がろうとした途端に吐き気が込み上げ、ベッドの脇へ吐いた。
胃には何も残っていない。
それでも腹だけは、何かを外へ押し出そうとして何度も収縮した。
床に頬をつけたまま、しばらく動けなかった。
ヤ……ヤバいかも。
スマホへ手を伸ばした。
画面は黒かった。
昨夜、自分で壊したからだ。
パソコンを開いても、踏み割ったルーターが机の下に転がっている。
昨日の自分は、よく働いていた。
「……病院」
声にした瞬間、その二文字が部屋の外にあるものだと分かった。
裕太は壁に掌をつき、吐き気の波が引くたびに少しずつ進んだ。
扉までは十歩もない。
補助錠を外し、チェーンを落とし、南京錠も開けた。
毎日のことだった。
全部覚えている。
ドアノブを回した。
扉は数センチ動いて止まった。
下の方で、硬い金属音がした。
見下ろすと、扉と床を直接つなぐ黒い金具があった。太い。中央に鍵穴が一つある。取り付けた螺子の頭は金具の下に隠れていた。
「は? なにこれ?」
見覚えがなかった。
しゃがみ込んで触れると、鍵穴の周囲には細かな傷が幾重にもついていた。
壁から鍵束を外し、合いそうなものから試した。
どれも回らない。
手の震えがひどくなってきた。
腹が強く縮んだ。
「う、ぐっ……! おえっ」
裕太はその場で吐き、鍵束を取り落とした。
何十本もの鍵が吐瀉物の上へ散り、乾いた金属音が途中で鈍くなった。
昨夜まで、あんなに好きだった音だ。
ひどい匂いがした。
裕太は壁へ背を預けた。
そのとき、右手の親指が痛んだ。
見れば、付け根の皮が薄く剥け、赤くなっている。
こんな傷はなかったはずだ。
いつも間に……?
擦り傷にしては大きすぎる。
違和感――何か変だ。
裕太は部屋を見渡した。
ふと、棚の上に大学ノートがあるのに気づいた。
見覚えがない。
だが、これ見よがしに置かれている。まるで読んでくれと言っているようだ。
表紙をめくると、日付の横に短い文章が並んでいた。
自分の筆跡だった。
『担任から電話。また出なかった。切ったあとも、しばらく画面を見ていた』
『母親から連絡が来ると怒る。来なくなると、今度は見捨てられたと思う。面倒な男だ』
裕太はページをめくった。
『鍵を増やしたらしい。玄関の前で何度も開け閉めしていた。最後には笑っていた』
『あいつが安心して眠るところが嫌いだ。誰も自分に触れられないと思っている顔をしている』
日付は数週間前だった。
そのころの自分を思い出そうとした。確かに、新しい南京錠を買った覚えがある。電話を切ったことも、鍵を掛けて安心したことも覚えている。
ただ、こんな文章を書いた記憶はなかった。
『あいつは俺が何もしなくても、人を遠ざけてくれる。母親も教師も友人も、全部あいつ自身が追い払う』
『いずれ誰かに助けてほしくなる日が来る。その日のために、邪魔はしないことにした』
裕太は指を止めた。
次のページには、鍵の配置が描かれていた。
玄関、窓、壁に吊るした鍵束。
自分で書いたとは思えないほど、細かかった。
『計画を実行するまで鍵は開けられるままにしておく。あいつが疑い始めたら困る。トイレにも風呂にも行かせる。買い物だって好きにさせる』
『外へ出られると思っている人間ほど、出口がなくなったときの顔は面白いだろう』
裕太はノートを閉じようとした。
しかし、最後のページに昨夜の日付が見えた。
『スマホを壊した。ルーターまで踏み割った。あいつが自分でやった。あんなに都合のいいことはない』
『夕食には毒を混ぜた。あいつは何も知らずに食べた』
裕太の腹が縮んだ。
指が紙を掴んだまま動かなかった。
『最後の錠も取り付けた。いつもの鍵は全部開けられるようにしてある』
『あいつはまず、それを外すだろう。知らない金具を見つけると、壁の鍵を持ってくる。あいつは昔から、困ると手当たり次第に試す。考えるより先に手を動かす』
裕太は床を見た。
足元には、自分が落とした鍵が散らばっていた。
『それでも開かなければ、次は窓だ。まずは椅子を持ち上げる。外に人がいるのを見つけたら、助けを呼ぶことだって考えるだろう』
『考えるだけだ』
『誰かが振り向いて、自分のために立ち止まる。事情を聞かれる。部屋に入られる。あいつはそういうことに耐えられない』
『だから、あいつは一人で何とかしようとする』
裕太はページをめくろうとした。
もう紙がなかった。
最後の文章だけ、ひどく丁寧な字で書かれていた。
『俺も死ぬ。それは分かっている』
『でも、あいつが苦しんで、誰かを呼ぼうか迷って、最後まで呼べずに死ぬなら、それでいい』
『この計画でいちばん信用できるのは、裕太の性格だ』
その下には一行だけ残っていた。
『おはよう。今日こそ誰かに助けてもらえるといいな』
裕太はノートを閉じた。
床には、日記のとおり鍵が散らばっていた。
裕太は窓を見た。
その下には椅子がある。持ち上げようとして、手が止まった。
日記に書いてあった。次は椅子を持ち上げる、と。
椅子から手を離し、カーテンを引いた。
窓を開けようとしたが、サッシは動かなかった。窓枠にも、見覚えのない金具が渡されていた。
ガラスの向こうでは、制服姿の生徒たちが何事もないように歩いていた。
助けを呼べばいい。外へ出るんだ。
外……?
「――っ」
そう思った途端、胸が苦しくなった。
誰かが振り向く。立ち止まる。窓越しに自分の顔を覗き込む。どうしたのかと聞かれ、部屋に入ってくる。床の吐瀉物も、壁に吊るした鍵も、何もかも見られてしまう。
きっと気味悪がられる。
学校にも知れ渡るだろう。あいつ、鍵をかけすぎて出られなくなったらしいぜ。そんな声まで聞こえてきた。
誰が助けなんか求めるか。
あいつらの世話になるくらいなら。
腹の奥が引き絞られた。
「ぐっ……!」
窓枠にしがみついた。膝が折れ、額がガラスにぶつかる。冷たい汗が顎から滴った。もう何も吐くものがないのに、喉だけが何度もせり上がってきた。
死ぬ。
このままでは、本当に死ぬ。
裕太は窓の向こうを見た。
買い物袋を提げた女が、荷物を持ち直して通り過ぎた。向かいの軒先では、干されたシャツの袖が風に揺れている。
裕太は冷たいガラスに額を押しつけたが、女は一度も顔を上げなかった。
自分が死にかけていることなど、誰も知らない。
当然だ。自分で遠ざけたのだから。
どうして誰も気づかない。
どうして誰も来てくれない。
そこまで考えて、裕太は唇を噛んだ。
なんて身勝手な人間だろう。人を嫌い、蔑み、近づくなと願いながら、いざ死にそうになると、誰かが助けに来ることを期待している。
腹を押さえた手が震えている。親指の付け根には、覚えのない傷がある。
昨夜、この手で扉を塞いだのだ。
日記を書いた奴の気持ちがわかってきた。奴は今の俺をみて笑うだろうか、それともさらなる軽蔑の眼差しを向けるのだろうか。
日記の文字が浮かんだ。
『この計画でいちばん信用できるのは、裕太の性格だ』
決めつけるな。
そう言い返したかった。
だが、窓の外にいる人間を呼び止めることすらできない。
また腹が痛んだ。息を吸おうとしても、途中で止まる。指先から感覚が失われていく。
誰かに見られる。
笑われるかもしれない。
軽蔑されるかもしれない。
それでも。
死にたくない。
裕太は窓に顔を寄せた。
外を歩く男の背中が見える。
声を出そうとすると、喉が塞がった。情けない。こんなことさえできない自分が、たまらなく恥ずかしかった。
もう一度――息を吸った。
「た……助けて」
かすれた声だった。
誰も振り向かない。
恥ずかしかった。消えてしまいたかった。
それでも、消えたくなかった。
「助けて!」
裕太はもう一度叫んだ。
道路の向こうで、犬を連れた老人が足を止めた。
こちらを見ている。
裕太は窓に手を振った。だが老人は動かない。声が届いているのかも分からなかった。
裕太は椅子を掴んだ。
今度は脱出するためではなかった。
窓へ叩きつける。
鈍い衝撃が腕を伝い、ガラスに細い亀裂が走った。
老人が何か叫んだ。
ポケットから携帯を取り出している。
助かる。
そう思った途端、膝から力が抜けた。椅子が滑り落ち、裕太もその隣へ崩れた。
床に投げ出した右手には、親指の付け根に赤い傷があった。
昨夜、あの金具を取り付けた手だった。
裕太は窓へ顔を向けた。
老人の姿は、床からはもう見えなかった。
エアコンの風が壁際を通り、鍵が揺れた。
カチャ、カチャ。
鍵の音が、少しずつ遠くなっていく。
外から、足音が近づいてきた。




