紅の女
祖母が遺した白い布を、紗代は七年も染められずにいた。
工房には完成した紅型の着物が何枚も掛かっている。注文主は喜び、展示会では賞も取った。それでも紗代には、どれも未完成に思えた。
欲しいのは赤ではなかった。
夕焼けでも、熟れた果実でも、花弁でもない。目にした瞬間、ほかの色を忘れてしまうような紅だった。
祖母は生前、同じ紅など一つもないと言っていた。
「同じ染料を使っても、布が違えば色も変わる。日の当たり方でも違って見える。だから、よく見なさい」
紗代はその言葉を守り、幾度も色を作り直した。
朱には、目を覚ますような鮮やかさがあった。弁柄には土の温もりがあり、蘇芳には夕暮れに似た深みがあった。
紗代はどの色も愛していた。
けれど、どれほど美しい紅を作っても、何かが足りなかった。色を重ねれば重ねるほど、初めに求めていたものから遠ざかっていく気がした。
祖母の白い布だけは、どうしても染められなかった。
ある午後、染料を調合しているとき、紗代は小刀で指先を切った。
血が一滴、作業台に広げていた試し染め用の白い布に落ちた。
慌てて布を持ち上げた紗代は、そのまま動けなくなった。
白い繊維の間に、紅が咲いていた。
朱のように鮮やかなのに、朱ほど軽くない。蘇芳のように深いのに、暗く沈まない。
紗代は顔を近づけた。
小さな染みの縁には、透き通るような明るさがあった。中心には濃い紅が溜まり、光の加減で、その奥から別の色が浮かび上がる。
紗代は笑いそうになった。
指先から血が流れていることも忘れ、布を見つめ続けた。
――これだ。
しかし、しばらくすると紅は鈍くなり、やがて褐色へと変わった。
紗代は指先を見た。傷口はもう閉じかけていた。
なぜか、それが惜しかった。
*
翌日から、紗代は染料の研究を変えた。
自分の血を布に落とし、乾いたあとの変化を確かめた。思い描いた紅は、現れても長く留まらない。布を変えても、染料と混ぜても、あの一滴とは違っていた。
やがて豚の血も試した。
初めて手に入れた日、紗代は染料皿にそれを注いだ。
思っていたよりも暗い赤だった。皿を傾けると、表面に窓の光が細く走った。紗代は筆を取ったが、すぐに置いた。
指先を浸してみたかった。
冷たい液体が爪の間に入り、手のひらの皺を埋めた。指を持ち上げると、血は細い筋になって垂れ、やがて丸い滴となって落ちた。
その一瞬、紗代は息を止めた。
美しかった。
血が皮膚の上で薄く広がると、皿の中とはまるで違う紅になる。指を曲げれば色が濃くなり、伸ばせば淡くなる。紗代は何度も手を開き、閉じた。これまで筆先で作ろうとしていた紅が、いまは自分の手の上で勝手に形を変えていた。
気づけば、皿の血は冷え、表面の光沢も失われていた。
紗代は洗面台へ向かった。
蛇口に手をかけたまま、しばらく動けなかった。
せっかくの紅を、流してしまうのが惜しかった。
それからも幾枚もの布を染めたが、豚の血では理想の紅に届かなかった。工房には赤黒い布が積み上がっていった。
*
ある日、工房に近所の女が訪ねてきた。
注文した帯を受け取りに来た女は、紗代の手を見て顔をしかめた。
「どうしたの、その指」
紗代の指先には、絆創膏がいくつも貼られていた。
「仕事で、ちょっと」
「手は商売道具でしょう。大事にしなさいよ」
女はそう言って笑い、財布から代金を取り出した。
その手は紗代のものより白く、爪の根元に淡い桃色が透けていた。
紗代は代金を受け取るのを忘れた。
「どうしたの?」
「きれいな手……」
女は照れたように笑った。
帰ったあとも、紗代はその手を思い出していた。
自分の血と、豚の血は違った。
ならば、人によっても違うのではないか。
年齢や体調によって、肌の色が変わるように。
あの女の血は、どんな紅だろう。
考えた途端、紗代は自分の指先を握りしめた。
そんなことを考えてはいけない。
あの女には暮らしがある。家族もいるだろう。つい先ほどまで、自分の目の前で笑っていたのだ。
紗代は作業台に目を落とした。
豚の血で染めた布が、黒ずんでいる。
工房の隅には、祖母の白い布が掛かっていた。
紗代は立ち上がり、祖母の布を作業台に広げた。
まだ何も染めていない白い布だった。そこに、先ほどの女の手が浮かんだ。白い指と、爪の根元に透けていた淡い桃色。
……あの人の血なら。
紗代は祖母の布を畳みかけた。
だが、折り目を伸ばして、再び作業台に広げた。染料皿を脇へ退ける。
夜が明けても、布はそこにあった。
*
その年の秋、祖母の布は一枚の白い着物に仕立てられていた。
紗代はそれを染めないまま、工房の奥に掛けていた。
そして今日、初めてその着物に紅を差した。
白かった袖に、見たこともない色が広がっている。布の折り目には暗い紅が沈み、光を受けたところには、濡れた花弁のような艶があった。
紗代は着物を持ち上げ、頬を寄せた。冷たかった。
その冷たさが、たまらなく愛おしかった。
どうして今まで、この紅を知らずに生きてきたのだろう。
紗代は着物に袖を通した。
鏡の前に立つと、思わず口元が緩んだ。
美しかった。
紗代はゆっくりと身を回した。
袖が膨らみ、紅が揺れた。
腕を伸ばすと、脇に隠れていた色が現れた。胸元の布を寄せれば、その重なりに別の紅が生まれる。紗代は腕を上げ、腰をひねり、裾を広げた。
探し求めていたものが、いま自分の動きに応じて姿を変えている。
笑い声が漏れた。
鏡に映る女も笑っていた。
その顔が、ふと邪魔になった。
紗代は顎を引き、鏡の中から自分の顔を追い出した。すると、視界いっぱいに紅が広がった。
もう、何も足さなくていい。
袖を頬に寄せると、近所の女が代金を差し出したときの手が浮かんだ。
白い指。爪の根元の淡い桃色。
あのとき、女は笑っていた。
紗代は袖を広げた。
その色を見ているうちに、女の笑顔は思い出せなくなった。
代わりに、指先の色だけが鮮明になっていく。
紗代は目を閉じた。頬に冷たい布が触れている。胸がいっぱいになり、涙がこぼれた。
どれほど眺めていただろう。
袖の端が、少し暗くなっていた。
紗代は顔を近づけた。さっきまで透き通っていた紅が鈍くなり、布の折り目に褐色が滲み始めている。
慌てて腕を持ち上げた。
光の当たる場所へ移り、何度も身体を回した。さっきと同じように袖を膨らませ、裾を翻した。
それでも、あの紅は戻らなかった。
夜が明ける頃、鏡の中には茶褐色の着物をまとった女が立っていた。
紗代はしばらく、その姿を見つめていた。
やがて帯を解いた。
長い間、染めることさえできなかった祖母の布だった。以前なら小さな染み一つつけることも恐れていた。
紗代は脱いだ着物を床に置いた。
鏡には、白い肌着姿の女が残った。
紗代は自分の顔を見た。
目も鼻も、昨日と変わらない。
それなのに、ひどく色褪せて見えた。
あの紅を、もう一度まといたい。
そう思うと、胸が高鳴った。
*
数日後、紗代は町へ出た。
市場には観光客があふれ、店先では女たちが笑っていた。
若い娘の頬。
日に焼けた男の首筋。
買い物袋を抱えた老婆の、薄い皮膚に浮き出た血管。
同じ紅など、一つもないように思えた。
紗代は鞄から手帳を取り出した。
最初の頁には、染料の名前が並んでいた。
次の頁には、豚、自分、と書かれている。
紗代は新しい頁を開き、老婆の特徴を書き留めた。
顔を上げると、向こうから制服姿の少女が歩いてきた。
まだ、あんな紅もある。




