形見分け
夫の腕時計を譲った翌日、向かいの部屋の男が、死んだ夫と同じ言葉で妻を叱っていた。
「説明しろとは言ってない。許可を取れと言ってるんだ」
冷たく怒気を孕んだ声だった。扉の奥で、食器がぶつかる音がし、アパートの廊下にこだました。
夫が死んで二か月になる。美佐はようやく、玄関の靴を外向きに揃えられるようになった。夫は爪先が外を向いているだけで行き先を問い、出かける予定がないと答えても、壁へ向け直させた。
お向かいさんの小野は温厚な男だった。葬儀では美佐のために買い物までしてくれた。その礼に、ほとんど使っていない夫の腕時計を渡したのだ。
翌朝、ゴミ捨て場で小野の妻に会った。頬が腫れていた。
「ご主人、最近お仕事が大変なの?」
妻は首を横に振った。
「昨日から、何をするにも先に聞けって。あんな人じゃなかったのに」
美佐は帰宅して、押し入れの段ボールを開いた。夫のベルト、万年筆、冬物の上着。捨てるには惜しいと言われ、葬儀のあとも手をつけられなかったものだ。
腕時計を渡したとき、小野は「大事にします」と笑っていた。
美佐はベルトを階下の青年に、上着を隣室の老人に譲った。万年筆は町内会長が喜んで持ち帰った。
その夜から、建物のあちこちで怒鳴り声がした。階下の青年は恋人の帰宅時間を問い詰め、隣室の老人は妻の料理を床に落とした。町内会長まで、回覧板の書き方を理由に住人を玄関先で叱りつけた。
向かいで小野が怒鳴ると、美佐は箸を止めた。妻の返事を聞いて、また食べ始めた。
美佐の部屋だけが静かだった。
久しぶりに湯船につかり、髪を乾かした。誰にも呼ばれず、そのまま朝まで眠った。
昼過ぎ、玄関のチャイムが鳴った。
扉を開けると、小野の妻が廊下に立っていた。腫れた頬は、昨日よりも青黒くなっている。
「時計、返したら元に戻るでしょうか」
美佐はその顔を見ていた。何年も前、自分も同じ顔で誰かの家を訪ねたかった。
「さあ。もう、うちの物じゃありませんから」
小野の妻はうつむき、廊下を渡って向かいの部屋へ戻った。
美佐が扉を閉めかけたとき、正面で鍵が回り、向かいの玄関が開いた。室内に明かりがつくと、狭い土間まで見えた。
小野の妻は上がり框に腰を下ろして靴を脱いだ。立ち上がりかけて、もう一度しゃがみ、靴の爪先を壁へ向け直した。
その隣には、子供の小さな靴も並んでいた。
小野の妻はそれにも手を伸ばし、同じ向きに直した。
美佐は扉を閉め、鍵をかけた。
今夜も、よく眠れそうだった。




