寝言
「私が寝言で何か聞いても、答えないでね」
夜、寝室のベッドのうえで、奈緒は枕元にスマートフォンを置きながら言った。
「なんで?」
「おばあちゃんが言ってたの。眠ってる人が問いかけてきても、答えちゃ駄目なんだって。答えると、その人が夢から帰ってこられなくなることがあるって」
「死ぬってこと?」
「知らない。起こしても起きなくなるとか」
奈緒は笑った。
「航平、よく私がどんな寝言を言ってたか教えてくるから。呼ばれたら返事もするんでしょう?」
「まあ、ね。でも、これまで何ともなってないよ?」
「それでも絶対やめて。おばあちゃんの話聞いてたら怖くなってきたの」
付き合い始めた頃は、むしろ奈緒が喜んでいた。
眠ったまま「航平」と呼ばれ、「いるよ」と返した翌朝、
寝てても返事してくれるんだね。
そう言って笑った。
航平は今でも覚えている。
「分かった。今日は無視する」
「ほんとに?」
「するって」
「うん」
奈緒はスマホを伏せたが、照明を消さなかった。何度か口を開きかけ、そのたびにやめた。
「何?」
「……私たち、少し距離置いたほうがいいと思う」
航平は奈緒を見た。
何を言われたのか、一瞬意味がわからなかった。
「……あ、え? い、いきなりどうしたの?」
「最近、ちょっとしんどい」
「俺が?」
奈緒は答えなかった。
「何かした?」
「そういうところ」
「何が」
「私が黙ってたら、怒ってる? 何かした? 嫌いになった?って。ずっと確認するでしょう。なんかそれって……」
「心配してるだけだろ」
「分かってるよ」
「だったら」
「分かってるから疲れるの」
奈緒は掛け布団を肩まで引き上げた。
いつもなら二つの枕は触れそうなほど近い。今夜は奈緒の枕だけ、壁際へ寄っていた。
「……他に男でもいる?」
奈緒の背中が止まった。
ほんの一瞬だった。
「いるの?」
「今日は寝よう」
「誰?」
「明日話すから」
「何で今言えないんだよ」
奈緒が振り返った。
「航平。そういうのが、しんどいの」
照明が消えた。
カーテンの隙間から街灯の光が差し込み、ベッドの足元だけが白く浮いていた。
壁際へ寄った奈緒の背中を見ながら、航平は眠れなかった。エアコンの冷気だけが、二人の枕のあいだに空いたシーツを撫でていた。
男でもいる?
あの一秒。
聞けば聞くほど嫌われる。分かっている。それでも、知らないまま隣に寝ている方が耐えられなかった。
誰だ。
いつからだ。
何をした。
やがて奈緒の呼吸が深くなった。
エアコンが止まり、部屋が急に静かになる。
「……ごめん」
航平は目を開けた。
奈緒は壁を向いたまま眠っている。
「……違うの」
寝言だ。
しかし、何が違うんだ?
誰に謝っている?
「奈――」
呼びかけそうになって、口を閉じた。
返事しないでね。
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、黙った。
奈緒は一定の寝息を立てたまま壁を向いていた。その呼吸とは重ならない場所から、奈緒の声だけが航平の耳元へ落ちた。
「知りたくないのですか?」
航平の指が布団の中で止まった。
奈緒の声だった。
だが奈緒の言い方ではない。
しかも、寝息は止まっていなかった。
航平の腕に鳥肌が立った。
「この女が、誰に謝っているのか」
寝息は続いている。
声とは別に。
じゃあ、今の声は?
「水曜日」
心臓が跳ねた。
奈緒が残業だと言って帰りの遅かった日。
「二十二時十四分」
黙れ。
「駅前」
答えるな。
「男と二人」
航平は歯を食いしばった。
「返事をすれば、全部教えてあげる」
奈緒は壁を向いたままだ。
声だけが、すぐ耳元から聞こえる。
「知りたいでしょう?」
男でもいる?
あの沈黙がまた浮かんだ。
「……誰と?」
言ってしまった。
奈緒の寝息が止まった。
航平はすぐ後悔した。
奈緒が寝返りを打つと思った。
動かない。
頭も肩も腕も、掛け布団の下の脚もそのままだった。
それなのに右のまぶただけが開いた。
黒目がゆっくり端へ寄り、壁へ向いた顔のまま航平を捉えた。
「聞こえました」
航平はベッドから転げるように降りた。
「奈緒?」
数秒して、奈緒の胸がまた上下を始めた。
眠っている。
その顔の口元だけが、ゆっくり歪んだ。
「約束を破りましたね」
「何なんだよ、お前」
「知りたいのでしょう?」
枕元が青白く光った。
奈緒のスマホだった。
航平は触っていない。
暗証番号の点がひとつずつ埋まり、ロックが外れた。
画面が勝手に切り替わる。
通知を切ったやり取り。
航平の知らない男の名前。
『今日は楽しかった』
『彼には言えない』
『私も避けなかったから』
航平はスマホを掴んだ。
「に、偽物だ! こんなの信じない! これは夢だ! 悪い夢を見ているんだ!」
声が震えた。
夢はいっこうに覚める気配を見せなかった。
「お前が作ったんだろ。そうだ。幻を見せているんだろう」
「そうかもしれません」
「は?」
「確かめればよろしい」
右目は、まだ航平を見ていた。
「鞄の内側のポケット」
床に奈緒のバッグがあった。
航平は動かなかった。
「怖いのですか?」
「うるさい」
バッグを引き寄せた。
内ポケットへ指を入れる。
紙が触れた。
引き出すと、見覚えのない店名があった。
水曜日。
二十二時十四分。
二名。
酒が二杯。
航平はしばらく数字を見つめた。
「これも、お前が作ったんだろ」
「できます」
「スマホも?」
「できます」
「写真も?」
「もちろん」
「じゃあ何の証拠にもならねえだろ!」
航平は顔を上げた。
奈緒の寝息が聞こえる。その合間に、唇だけが動いた。
「今夜、それを確かめる方法はありません」
航平はレシートを床へ投げた。
「ふざけんな」
「ひとつだけ、私が作っていないものがあります」
「何だよ」
「この女が、あなたから離れようとしていること」
航平は答えられなかった。
それだけは怪異が現れる前に聞いた。
奈緒本人から。
「可哀そうに」
「黙れ」
「こんなに愛しているのに」
「黙れ」
「確認しても、確認しても、足りない。けっして満たされない」
「黙れって言ってんだろ!」
航平は拳を振り上げた。
奈緒の頬の前で止まった。
小さなほくろ。
寝る前につけたクリームの匂い。
何百回も触った顔だった。
手を下ろした。
「……奈緒を返せ」
「まだ帰っていません」
航平の背筋が冷えた。
「何?」
「あなたが返事をしたでしょう」
「だから何だよ」
「夢から帰れなくなったのは、この女です」
「戻せ」
「できます」
「なら戻せよ」
「契約を」
「断る」
「では、このままで」
まぶたが閉じていく。
「待て!」
止まった。
悪魔は何も言わなかった。
航平の返事を待っている。
「……どんな契約だ」
「私を選んでください」
「意味分かんねえよ」
「私なら、あなたを捨てません」
航平は黙った。
「疲れません。距離を置きません。他の誰かを欲しがりません」
「奈緒は?」
「死にます」
あまりにも普通に言った。
「……何?」
「この女は戻らない。この身体には私が残ります」
「ふざけるな」
「では、お断りください」
「奈緒を殺すのか」
「いいえ」
悪魔の声は変わらない。
「あなたが選ぶのです」
奈緒の身体が突然震えた。
右目が上を向き、口が小さく痙攣する。
「……航平」
「奈緒?」
声が戻っていた。
左目から涙が流れた。
「返事、し、し、しな……いで」
航平はベッドへ寄った。
「奈緒、あの男は誰だ」
「お願い」
「水曜日、男といたのか」
「航平」
「キスしたのかよ? もうヤったのか?」
奈緒は目を閉じた。
その沈黙が、航平の中で答えになった。
「ふざけんなよ」
「ごめん」
「俺よりそいつがいいのか」
「違う」
「だったら何で離れるんだよ!」
「怖いの」
「何が」
奈緒は航平を見た。
「あなたが」
口が閉じた。
寝息だけが戻る。
しばらくして、悪魔の声がした。
「聞きましたね」
航平は奈緒から手を離した。
「私は怖がりません」
「黙れ」
「あなたがどんなに疑っても」
「黙れ」
「あなたを愛し続けます」
声が近い。
「私はあなたを捨てません」
航平は床に落ちたレシートを見た。
偽物かもしれない。
スマホも。
男も。
全部。
けれど、
あなたが怖い。
それだけは奈緒の声だった。
「愛したいのではない」
悪魔が言った。
「捨てられたくないのでしょう」
航平は奈緒を見た。
涙の跡が頬に残っている。
「私なら、永遠にあなたを選びます」
航平は奈緒の手を握った。何度も自分を握り返してくれた手はまだ温かく、その温かささえ、今は他の誰かに触れた証拠のように思えた。
「裏切り者」
怒鳴るつもりだった。
なのに出たのは、妙に静かな声だった。
奈緒の指は動かなかった。
「……契約する」
寝息が止まった。
部屋から音が引いていった。
エアコンも、道路を走る車も、冷蔵庫の小さな唸りも聞こえない。
奈緒の口が開いた。
声が、それまでとは違う高さで響いた。
「応えた声を、証とする。
返した言葉を、契りとする。
眠る者の帰る道を閉じ、
目覚める者の心を、我に結ぶ」
奈緒の胸が、一度だけ大きく持ち上がった。
「ひとつの息を、ここに終える。
ひとつの愛を、ここに結ぶ。
去る者は去り、
残る者は、我とともにある」
航平の手の中で、奈緒の指先が冷えていった。
悪魔の声が、元の静かな声へ戻った。
「いつ何時も、我が呼び声に応えるか」
「応える」
「我が望みを、お前の望みより先に置くか」
航平は奈緒の手を強く握った。
「置く。そうする」
「この女が死んでも、私に愛されたいと望むか」
航平は奈緒を見た。
泣いた跡の残る頬。何度も触れた唇。眠ると少し開く口。
まだ好きだった。
それでも、悪魔の言った言葉が耳に残っていた。
捨てない。
そんなものが本当にあるなら、どんな形でもいい気がした。
壊れないなら、それでいい。
「……望む」
奈緒の口が笑った。
「――受け取った」
奈緒が息を吐いた。
細く、長く。
もう吸わなかった。
航平はその顔を見ていた。
涙が頬を伝った。
「奈緒」
返事はない。
握っている手から、少しずつ温かさが消えていく。
「航平」
すぐに顔を上げた。
死んだ奈緒の右目が、こちらを見ていた。
航平の涙が止まった。
口元が緩んだ。
その声を待っていた自分に気づいたときには、もう笑っていた。
「いる?」
航平は冷たくなった奈緒の手を両手で包み、頬を押しつけた。
「はい……ここにおります」




