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死蔵書庫  作者: 大窟凱人


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5/14

寝言

「私が寝言で何か聞いても、答えないでね」


 夜、寝室のベッドのうえで、奈緒は枕元にスマートフォンを置きながら言った。


「なんで?」


「おばあちゃんが言ってたの。眠ってる人が問いかけてきても、答えちゃ駄目なんだって。答えると、その人が夢から帰ってこられなくなることがあるって」


「死ぬってこと?」


「知らない。起こしても起きなくなるとか」


 奈緒は笑った。


「航平、よく私がどんな寝言を言ってたか教えてくるから。呼ばれたら返事もするんでしょう?」


「まあ、ね。でも、これまで何ともなってないよ?」


「それでも絶対やめて。おばあちゃんの話聞いてたら怖くなってきたの」


 付き合い始めた頃は、むしろ奈緒が喜んでいた。

 眠ったまま「航平」と呼ばれ、「いるよ」と返した翌朝、

 寝てても返事してくれるんだね。

 そう言って笑った。

 航平は今でも覚えている。


「分かった。今日は無視する」


「ほんとに?」


「するって」


「うん」


 奈緒はスマホを伏せたが、照明を消さなかった。何度か口を開きかけ、そのたびにやめた。


「何?」


「……私たち、少し距離置いたほうがいいと思う」


 航平は奈緒を見た。

 何を言われたのか、一瞬意味がわからなかった。


「……あ、え? い、いきなりどうしたの?」


「最近、ちょっとしんどい」


「俺が?」


 奈緒は答えなかった。


「何かした?」


「そういうところ」


「何が」


「私が黙ってたら、怒ってる? 何かした? 嫌いになった?って。ずっと確認するでしょう。なんかそれって……」


「心配してるだけだろ」


「分かってるよ」


「だったら」


「分かってるから疲れるの」


 奈緒は掛け布団を肩まで引き上げた。

 いつもなら二つの枕は触れそうなほど近い。今夜は奈緒の枕だけ、壁際へ寄っていた。


「……他に男でもいる?」


 奈緒の背中が止まった。

 ほんの一瞬だった。


「いるの?」


「今日は寝よう」


「誰?」


「明日話すから」


「何で今言えないんだよ」


 奈緒が振り返った。


「航平。そういうのが、しんどいの」


 照明が消えた。

 カーテンの隙間から街灯の光が差し込み、ベッドの足元だけが白く浮いていた。

 壁際へ寄った奈緒の背中を見ながら、航平は眠れなかった。エアコンの冷気だけが、二人の枕のあいだに空いたシーツを撫でていた。

 男でもいる?

 あの一秒。

 聞けば聞くほど嫌われる。分かっている。それでも、知らないまま隣に寝ている方が耐えられなかった。

 誰だ。

 いつからだ。

 何をした。

 やがて奈緒の呼吸が深くなった。

 エアコンが止まり、部屋が急に静かになる。


「……ごめん」


 航平は目を開けた。

 奈緒は壁を向いたまま眠っている。


「……違うの」


 寝言だ。

 しかし、何が違うんだ?

 誰に謝っている?


「奈――」


 呼びかけそうになって、口を閉じた。

 返事しないでね。

 馬鹿馬鹿しいと思いながらも、黙った。

 奈緒は一定の寝息を立てたまま壁を向いていた。その呼吸とは重ならない場所から、奈緒の声だけが航平の耳元へ落ちた。


「知りたくないのですか?」


 航平の指が布団の中で止まった。

 奈緒の声だった。

 だが奈緒の言い方ではない。

 しかも、寝息は止まっていなかった。

 航平の腕に鳥肌が立った。


「この女が、誰に謝っているのか」


 寝息は続いている。

 声とは別に。

 じゃあ、今の声は?


「水曜日」


 心臓が跳ねた。

 奈緒が残業だと言って帰りの遅かった日。


「二十二時十四分」


 黙れ。


「駅前」


 答えるな。


「男と二人」


 航平は歯を食いしばった。


「返事をすれば、全部教えてあげる」


 奈緒は壁を向いたままだ。

 声だけが、すぐ耳元から聞こえる。


「知りたいでしょう?」


 男でもいる?

 あの沈黙がまた浮かんだ。


「……誰と?」


 言ってしまった。

 奈緒の寝息が止まった。

 航平はすぐ後悔した。

 奈緒が寝返りを打つと思った。

 動かない。

 頭も肩も腕も、掛け布団の下の脚もそのままだった。

 それなのに右のまぶただけが開いた。

 黒目がゆっくり端へ寄り、壁へ向いた顔のまま航平を捉えた。


「聞こえました」


 航平はベッドから転げるように降りた。


「奈緒?」


 数秒して、奈緒の胸がまた上下を始めた。

 眠っている。

 その顔の口元だけが、ゆっくり歪んだ。


「約束を破りましたね」


「何なんだよ、お前」


「知りたいのでしょう?」


 枕元が青白く光った。

 奈緒のスマホだった。

 航平は触っていない。


 暗証番号の点がひとつずつ埋まり、ロックが外れた。

 画面が勝手に切り替わる。

 通知を切ったやり取り。

 航平の知らない男の名前。


『今日は楽しかった』

『彼には言えない』

『私も避けなかったから』


 航平はスマホを掴んだ。


「に、偽物だ! こんなの信じない! これは夢だ! 悪い夢を見ているんだ!」


 声が震えた。

 夢はいっこうに覚める気配を見せなかった。


「お前が作ったんだろ。そうだ。幻を見せているんだろう」


「そうかもしれません」


「は?」


「確かめればよろしい」


 右目は、まだ航平を見ていた。


「鞄の内側のポケット」


 床に奈緒のバッグがあった。

 航平は動かなかった。


「怖いのですか?」


「うるさい」


 バッグを引き寄せた。

 内ポケットへ指を入れる。

 紙が触れた。

 引き出すと、見覚えのない店名があった。

 水曜日。

 二十二時十四分。

 二名。

 酒が二杯。

 航平はしばらく数字を見つめた。


「これも、お前が作ったんだろ」


「できます」


「スマホも?」


「できます」


「写真も?」


「もちろん」


「じゃあ何の証拠にもならねえだろ!」


 航平は顔を上げた。

 奈緒の寝息が聞こえる。その合間に、唇だけが動いた。


「今夜、それを確かめる方法はありません」


 航平はレシートを床へ投げた。


「ふざけんな」


「ひとつだけ、私が作っていないものがあります」


「何だよ」


「この女が、あなたから離れようとしていること」


 航平は答えられなかった。

 それだけは怪異が現れる前に聞いた。

 奈緒本人から。


「可哀そうに」


「黙れ」


「こんなに愛しているのに」


「黙れ」


「確認しても、確認しても、足りない。けっして満たされない」


「黙れって言ってんだろ!」


 航平は拳を振り上げた。

 奈緒の頬の前で止まった。

 小さなほくろ。

 寝る前につけたクリームの匂い。


 何百回も触った顔だった。

 手を下ろした。


「……奈緒を返せ」


「まだ帰っていません」


 航平の背筋が冷えた。


「何?」


「あなたが返事をしたでしょう」


「だから何だよ」


「夢から帰れなくなったのは、この女です」


「戻せ」


「できます」


「なら戻せよ」


「契約を」


「断る」


「では、このままで」


 まぶたが閉じていく。


「待て!」


 止まった。

 悪魔は何も言わなかった。

 航平の返事を待っている。


「……どんな契約だ」


「私を選んでください」


「意味分かんねえよ」


「私なら、あなたを捨てません」


 航平は黙った。


「疲れません。距離を置きません。他の誰かを欲しがりません」


「奈緒は?」


「死にます」


 あまりにも普通に言った。


「……何?」


「この女は戻らない。この身体には私が残ります」


「ふざけるな」


「では、お断りください」


「奈緒を殺すのか」


「いいえ」


 悪魔の声は変わらない。


「あなたが選ぶのです」


 奈緒の身体が突然震えた。

 右目が上を向き、口が小さく痙攣する。


「……航平」


「奈緒?」


 声が戻っていた。

 左目から涙が流れた。


「返事、し、し、しな……いで」


 航平はベッドへ寄った。


「奈緒、あの男は誰だ」


「お願い」


「水曜日、男といたのか」


「航平」


「キスしたのかよ? もうヤったのか?」


 奈緒は目を閉じた。

 その沈黙が、航平の中で答えになった。


「ふざけんなよ」


「ごめん」


「俺よりそいつがいいのか」


「違う」


「だったら何で離れるんだよ!」


「怖いの」


「何が」


 奈緒は航平を見た。


「あなたが」


 口が閉じた。

 寝息だけが戻る。

 しばらくして、悪魔の声がした。


「聞きましたね」


 航平は奈緒から手を離した。


「私は怖がりません」


「黙れ」


「あなたがどんなに疑っても」


「黙れ」


「あなたを愛し続けます」


 声が近い。


「私はあなたを捨てません」


 航平は床に落ちたレシートを見た。

 偽物かもしれない。

 スマホも。

 男も。

 全部。

 けれど、


 あなたが怖い。


 それだけは奈緒の声だった。


「愛したいのではない」


 悪魔が言った。


「捨てられたくないのでしょう」


 航平は奈緒を見た。


 涙の跡が頬に残っている。


「私なら、永遠にあなたを選びます」


 航平は奈緒の手を握った。何度も自分を握り返してくれた手はまだ温かく、その温かささえ、今は他の誰かに触れた証拠のように思えた。


「裏切り者」


 怒鳴るつもりだった。

 なのに出たのは、妙に静かな声だった。

 奈緒の指は動かなかった。


「……契約する」


 寝息が止まった。

 部屋から音が引いていった。

 エアコンも、道路を走る車も、冷蔵庫の小さな唸りも聞こえない。


 奈緒の口が開いた。

 声が、それまでとは違う高さで響いた。


「応えた声を、証とする。

 返した言葉を、契りとする。

 眠る者の帰る道を閉じ、

 目覚める者の心を、我に結ぶ」


 奈緒の胸が、一度だけ大きく持ち上がった。


「ひとつの息を、ここに終える。

 ひとつの愛を、ここに結ぶ。

 去る者は去り、

 残る者は、我とともにある」


 航平の手の中で、奈緒の指先が冷えていった。

 悪魔の声が、元の静かな声へ戻った。


「いつ何時も、我が呼び声に応えるか」


「応える」


「我が望みを、お前の望みより先に置くか」


 航平は奈緒の手を強く握った。


「置く。そうする」


「この女が死んでも、私に愛されたいと望むか」


 航平は奈緒を見た。

 泣いた跡の残る頬。何度も触れた唇。眠ると少し開く口。

 まだ好きだった。

 それでも、悪魔の言った言葉が耳に残っていた。

 捨てない。

 そんなものが本当にあるなら、どんな形でもいい気がした。

 壊れないなら、それでいい。


「……望む」


 奈緒の口が笑った。


「――受け取った」


 奈緒が息を吐いた。

 細く、長く。

 もう吸わなかった。

 航平はその顔を見ていた。

 涙が頬を伝った。


「奈緒」


 返事はない。

 握っている手から、少しずつ温かさが消えていく。


「航平」


 すぐに顔を上げた。

 死んだ奈緒の右目が、こちらを見ていた。

 航平の涙が止まった。

 口元が緩んだ。

 その声を待っていた自分に気づいたときには、もう笑っていた。


「いる?」


 航平は冷たくなった奈緒の手を両手で包み、頬を押しつけた。


「はい……ここにおります」

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