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死蔵書庫  作者: 大窟凱人


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6/14

割引シール

 三十八歳になって、自分は売れ残ったのだと思った。

 結婚どころか恋人もいない。仕事では名前より「ちょっと」と呼ばれることの方が多い。

 だから、いつものスーパーでその男に声をかけられたとき、腹が立った。


「お客さん、そろそろですね」


 惣菜売場の前で、古い制服の店員が、弁当に貼られているのと同じ赤い値引きシールの束を手に立っていた。こんな店員がいただろうか。


「何が?」


 男は答えず、私の胸に、ぺたりとシールを貼った。

 《20%引》


「ちょ……なにするんですか」


「お求めやすくなりました」


 剥がして、近くのゴミ箱に捨てた。


    *


 翌日、会社の受付の女が私を見て笑った。

 それだけなら偶然だった。

 昼休みには女性社員から食事に誘われた。


「二人で、どうですか」


 「誘う相手間違ってますよ」と、思わず言いそうになった。

 帰りの電車では、隣に座った女が何度もこちらを見た。目が合うと、逸らさずに笑った。

 家に帰ってからも、その笑顔を何度も思い出した。

 こんなことは、生まれて初めてだった。


    *


 一週間後、私はスーパーへ行った。

 男は惣菜売場にいた。売れ残った弁当に赤いシールを貼っている。


「あの、これ、もう少し安くできますか?」


 男は手を止めた。


「できますよ」


 《30%引》

 その夜、女から連絡先を聞かれた。

 ――これは間違いないぞ。

 それから私は、何度も男のところへ通った。


 《半額》

 会社で重要な仕事を任された。会議で私が話すと、皆が黙って聞いた。

 女たちは私の話を聞きたがった。知らない人間まで私の顔を覚えた。


 《70%引》

 人生は別物になった。

 予約の取れない店に招かれ、パーティーでは私の周りに人が集まった。写真を撮ろうと言われた。別れ際には、また会いましょうと向こうから言われた。

 鏡には、以前より明らかに魅力的になっている自分が映っていた。


 もっと。

 まだ足りない。


「次をください」


 男は初めて首を振った。


「おすすめしません」


「何%?」


「次は九十です」


 その数字を聞くと、さすがに笑えなかった。


「やめといた方がいいですか?」


「私はおすすめしません」


 その日は帰った。

 夜になっても携帯は鳴らず、翌日の昼休みには、いつも私を見ていた女たちが別の男を囲んで笑っていた。会社を出るとき、受付の女は画面を見たまま顔を上げなかった。


 電車の窓に、以前の私が映っていた。

 誰も見ていない男。

 次の駅を待たずに降りた。

 スーパーまで走った。


「貼ってください」


 男は値引きシールの機械を持ったまま、私を見た。


「本当に?」


「早く」


「九十ですよ」


「……わかってます」


 男はそれ以上何も言わなかった。

 胸に指先を当てた。

 ぺたり。

 《90%引》


    *


 週末、私は高級レストランにいた。

 磨かれたグラスと銀のナイフに街の灯が揺れ、その向こうで、信じられないほど美しい女が料理より私を見て笑っていた。


「あなたみたいな人、初めて」


 テーブルの上で、女の指が私の手に重なった。

 柔らかく、温かかった。

 私はワインを飲んだ。

 店員が空いた皿を下げた。次の料理が運ばれてきた。女は私の話を聞きながら、ずっと手を離さなかった。

 胸元には《90%引》が貼られたままだった。

 私はシールの端に指をかけた。

 女が私の手を握り直した。

 指を離した。


「このあと、どうする?」


 女が聞いた。

 私は答えず、重なった手を見た。

 誰かの手が、自分から私の手を握っている。

 三十八年生きてきて、それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。

 胸元で、赤いシールが少し浮いていた。

 剥がせばいい。

 そう思った。

 女の親指が、私の手の甲をゆっくり撫でた。

 これだ。

 私はずっと、これが欲しかった。

 女の指が止まった。


「……なに、それ」


 手の甲に、一本の皺が浮いていた。

 さっきまでなかった。

 見ているうちに、その隣にもう一本浮いた。


「え?」


 細い溝は枝分かれしながら手首へ走った。皮膚から水分だけを吸い取られていくように、手がしぼんでいく。

 頭に何かが触れた。

 髪だった。

 一本、テーブルに落ちた。

 黒い髪だった。

 もう一本落ちた。

 それは白かった。

 白髪はバサバサと落ち続けた。


「ちょっと……」


 女が椅子を引いた。

 私は立とうとした。

 膝が伸びなかった。

 頬の内側が歯に触れた。肉が薄くなっている。舌で前歯を押すと、ぐらりと動いた。


 女が悲鳴を上げた。

 周囲の客が一斉に振り返った。

 さっきまで笑っていた客たちが、椅子を引いて私から離れた。

 私はテーブルのナイフを掴んだ。

 磨かれた銀色に、顔が映った。

 老人がいた。


 目の前で頬が落ちくぼんでいく。


「私はまだ三十八だ」


 指からナイフが滑った。

 床に落ちて、澄んだ音を立てた。

 身体から力が抜けた。


「ごほっ! げほっ! うっ……!?」


 咳き込み、床に倒れた。

 女が私を見下ろしていた。

 その目が一瞬、私の胸元へ落ちた。

 誰かが救急車、と叫んでいる。

 遠ざかっていく視界の端で、《90%引》だけが鮮やかな赤色をしていた。


    *


 閉店前のスーパー。

 古い制服の男が、惣菜売場に残った弁当を手に取った。

 若い店員が横から覗き込んだ。


「これ、まだ売れそうですけど、もうこんなに下げるんですか?」


 男は弁当を裏返し、消費期限を確かめた。


「売れそうかどうかじゃありません。期限が近いんですよ」


 ぺたり。

 《90%引》

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