割引シール
三十八歳になって、自分は売れ残ったのだと思った。
結婚どころか恋人もいない。仕事では名前より「ちょっと」と呼ばれることの方が多い。
だから、いつものスーパーでその男に声をかけられたとき、腹が立った。
「お客さん、そろそろですね」
惣菜売場の前で、古い制服の店員が、弁当に貼られているのと同じ赤い値引きシールの束を手に立っていた。こんな店員がいただろうか。
「何が?」
男は答えず、私の胸に、ぺたりとシールを貼った。
《20%引》
「ちょ……なにするんですか」
「お求めやすくなりました」
剥がして、近くのゴミ箱に捨てた。
*
翌日、会社の受付の女が私を見て笑った。
それだけなら偶然だった。
昼休みには女性社員から食事に誘われた。
「二人で、どうですか」
「誘う相手間違ってますよ」と、思わず言いそうになった。
帰りの電車では、隣に座った女が何度もこちらを見た。目が合うと、逸らさずに笑った。
家に帰ってからも、その笑顔を何度も思い出した。
こんなことは、生まれて初めてだった。
*
一週間後、私はスーパーへ行った。
男は惣菜売場にいた。売れ残った弁当に赤いシールを貼っている。
「あの、これ、もう少し安くできますか?」
男は手を止めた。
「できますよ」
《30%引》
その夜、女から連絡先を聞かれた。
――これは間違いないぞ。
それから私は、何度も男のところへ通った。
《半額》
会社で重要な仕事を任された。会議で私が話すと、皆が黙って聞いた。
女たちは私の話を聞きたがった。知らない人間まで私の顔を覚えた。
《70%引》
人生は別物になった。
予約の取れない店に招かれ、パーティーでは私の周りに人が集まった。写真を撮ろうと言われた。別れ際には、また会いましょうと向こうから言われた。
鏡には、以前より明らかに魅力的になっている自分が映っていた。
もっと。
まだ足りない。
「次をください」
男は初めて首を振った。
「おすすめしません」
「何%?」
「次は九十です」
その数字を聞くと、さすがに笑えなかった。
「やめといた方がいいですか?」
「私はおすすめしません」
その日は帰った。
夜になっても携帯は鳴らず、翌日の昼休みには、いつも私を見ていた女たちが別の男を囲んで笑っていた。会社を出るとき、受付の女は画面を見たまま顔を上げなかった。
電車の窓に、以前の私が映っていた。
誰も見ていない男。
次の駅を待たずに降りた。
スーパーまで走った。
「貼ってください」
男は値引きシールの機械を持ったまま、私を見た。
「本当に?」
「早く」
「九十ですよ」
「……わかってます」
男はそれ以上何も言わなかった。
胸に指先を当てた。
ぺたり。
《90%引》
*
週末、私は高級レストランにいた。
磨かれたグラスと銀のナイフに街の灯が揺れ、その向こうで、信じられないほど美しい女が料理より私を見て笑っていた。
「あなたみたいな人、初めて」
テーブルの上で、女の指が私の手に重なった。
柔らかく、温かかった。
私はワインを飲んだ。
店員が空いた皿を下げた。次の料理が運ばれてきた。女は私の話を聞きながら、ずっと手を離さなかった。
胸元には《90%引》が貼られたままだった。
私はシールの端に指をかけた。
女が私の手を握り直した。
指を離した。
「このあと、どうする?」
女が聞いた。
私は答えず、重なった手を見た。
誰かの手が、自分から私の手を握っている。
三十八年生きてきて、それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
胸元で、赤いシールが少し浮いていた。
剥がせばいい。
そう思った。
女の親指が、私の手の甲をゆっくり撫でた。
これだ。
私はずっと、これが欲しかった。
女の指が止まった。
「……なに、それ」
手の甲に、一本の皺が浮いていた。
さっきまでなかった。
見ているうちに、その隣にもう一本浮いた。
「え?」
細い溝は枝分かれしながら手首へ走った。皮膚から水分だけを吸い取られていくように、手がしぼんでいく。
頭に何かが触れた。
髪だった。
一本、テーブルに落ちた。
黒い髪だった。
もう一本落ちた。
それは白かった。
白髪はバサバサと落ち続けた。
「ちょっと……」
女が椅子を引いた。
私は立とうとした。
膝が伸びなかった。
頬の内側が歯に触れた。肉が薄くなっている。舌で前歯を押すと、ぐらりと動いた。
女が悲鳴を上げた。
周囲の客が一斉に振り返った。
さっきまで笑っていた客たちが、椅子を引いて私から離れた。
私はテーブルのナイフを掴んだ。
磨かれた銀色に、顔が映った。
老人がいた。
目の前で頬が落ちくぼんでいく。
「私はまだ三十八だ」
指からナイフが滑った。
床に落ちて、澄んだ音を立てた。
身体から力が抜けた。
「ごほっ! げほっ! うっ……!?」
咳き込み、床に倒れた。
女が私を見下ろしていた。
その目が一瞬、私の胸元へ落ちた。
誰かが救急車、と叫んでいる。
遠ざかっていく視界の端で、《90%引》だけが鮮やかな赤色をしていた。
*
閉店前のスーパー。
古い制服の男が、惣菜売場に残った弁当を手に取った。
若い店員が横から覗き込んだ。
「これ、まだ売れそうですけど、もうこんなに下げるんですか?」
男は弁当を裏返し、消費期限を確かめた。
「売れそうかどうかじゃありません。期限が近いんですよ」
ぺたり。
《90%引》




