夜の公園にて
午後十一時を過ぎたころ、公園のブランコに子供がいた。
三浦はスマホを耳に当てたまま、その前を通りかかった。
「無理はさせるなよ。ただ、本人が大丈夫って言ってるなら、あと一時間だけ頼めないか。終わったらタクシー代は会社で持つから」
電話の向こうで工場長が何か言った。
「代わりがいない以上、仕方ない。うまくやれ……返事は?」
『……はい。わかりました』
通話を切った。
会食は自宅近くのホテルで終わり、運転手には先に帰らせていた。酒を抜きがてら十分ほど歩けば家に着く。その途中にある、小さな児童公園だった。
夜露に濡れた滑り台が街灯を鈍く返し、ブランコの下の湿った砂の上に、八歳くらいの男の子が裸足で立っていた。
濡れた砂を踏んでいるのに、足元を気にする様子もない。
「君、こんな時間に一人か?」
男の子は三浦を見上げた。黒い目が、瞬きもせずこちらを見ていた。
無表情だったその顔に、少しすると微笑みにが浮かんだ。
「おじさん、ぼくと鬼ごっこしよ」
「鬼ごっこ?」
「おじさんが鬼ね」
三浦は思わず笑った。
「もう十一時だぞ。家はどこだ? 親はいないのか?」
「一回だけ」
こんな時間に子供を置いていくのも気が引けた。遊んでやれば、親のことも聞けるだろう。
三浦は革鞄をベンチへ置いた。
「一回だけだぞ。捕まえたら終わりだ」
「うん」
男の子が駆け出した。
滑り台の向こうへ消え、砂場からまた現れる。三浦が近づくと身を翻し、ぎりぎり手の届かない距離まで逃げていく。
「なかなかやるな」
酔いもあって、三浦は少し楽しくなった。
ジャングルジムの反対側へ先回りし、飛び出してきた男の子の肩をつかむ。
「タッチだ!」
男の子が振り返り、歯を見せた。
「じゃあ、こんどは、ぼくが鬼」
「いやいや、捕まえたら終わりって言っただろ」
酔いと駆け回ったせいで上がった息を整えながら、三浦はベンチへ戻った。背後から、湿った地面を叩く裸足の音が追ってきた。
ぱた、ぱた、ぱた。
まったく、聞き分けのないガキだ。
右手首に何かが触れた。
「タッチ」
三浦は振り返った。
男の子が笑っていた。
「だから、終わ――」
突然、右手から力が抜けた。
指が開いたまま動かない。
三浦は眉を寄せて拳を作ろうとしたが、親指も人差し指も曲がらなかった。左手で手首をつかむと、その皮膚はぞっとするほど冷たく、いつもなら指先に感じる脈もなかった。
色まで変わっていた。
指先から手首へ、濡れた灰を塗ったような色が這い上がっている。
何度握ろうとしても、まるで動かない。
じわじわと灰色が侵食し、手首を越えてきた。
男の子が一歩近づいた。
「こんどは、おじさんが鬼だよ」
男の子は少し離れ、待っていた。
「ほら。追いかけて」
三浦は後ずさった。
「あれ? 鬼なのに逃げるの?」
そのまま踵を返し、出口へ走った。
背後で男の子が笑った。
「そんなに逃げたいの?」
裸足の足音が追ってくる。
「しょうがないなあ。いいよ。ぼくが鬼やってあげる」
三浦は革鞄をベンチに置き去りにし、麻痺した右腕に絡む上着とネクタイを、左手だけでむしり取って芝生へ捨てた。
スマホを左手で取り出し、一一〇を押した。
『警察です。事件ですか、事故ですか』
「助けてくれ。襲われてる。中央公園だ。すぐ来てくれ!」
『落ち着いてください。お怪我は』
右肩に手が触れた。
「タッチ」
「う、うわああっ!!」
三浦の叫び声が夜の公園に響いた。
肩から先の感覚が一度に消えた。
右腕全体がぶら下がり、走るたび身体へぶつかる。灰色になった皮膚は肩まで達し、鎖骨の脇にも指の形をした斑点が浮かんでいた。
「ひ、ひい! やめろ! もうやらない!」
スマホを握ったまま、三浦は出口へ走った。
『もしもし? 大丈夫ですか?』
「は、早く……早く来てくれ!」
男の子は追ってくる。
「おじさん、まだ逃げるの? ぼくもたまには逃げたいんだけどな」
「く、来るな!」
左脚で地面を蹴った瞬間、右のふくらはぎに冷たい指が触れた。
「タッチ」
ガクンと膝が折れた。
三浦は地面へ転がり、頬を砂に擦った
起き上がろうとしたが右脚に力が入らない。膝から下は、誰かの脚を身体に括りつけられたように重く、足首も爪先も動かなかった。
男の子が三メートルほど先に立っていた。
「う……あぁ……」
三浦は左手と左脚で地面を掻きながら逃げた。
滑り台の下を抜け、鉄柵の方へ這う。砂が爪の間へ入り、ズボンの膝が裂けても止まれなかった。
男の子が後ろからついてくる。
走りもしない。
三浦が這う速さに合わせて歩いていた。
「おじさん、ほんとうに逃げるの好きなんだね」
三浦は鉄柵まで辿り着き、身体を反転させた。
男の子が近づいてくる。
今度は、その手が三浦の顔へ伸びていた。この手が顔に触れたら、俺は――
「待て!」
男の子は止まらない。
「ま、待ってくれ。頼む」
三浦は片手を上げた。
「金ならいくらでもやる。欲しい物があるなら買ってやる。親にも払う。だから、それ以上近づくな」
男の子は首を傾げただけだった。
指先が頬へ近づく。
「やめろ!」
三浦の声が変わった。
「いい加減にしろ!」
男の子の足が止まった。
三浦は柵にもたれたまま、左手の人差し指を突きつけた。
「こっちを見ろ! 俺を誰だと思ってる!」
返事はない。
「俺の会社は年商三百億だぞ! 俺の一言で何百人が動くんだ! お前みたいなガキが俺にこんな真似して、ただで済むと思ってるのか!」
男の子が三浦を見ていた。
「身体を返せ! 今すぐだ!」
沈黙。
「返事をしろ!」
三浦は柵を左手で殴った。夜の静寂にガシャンと音が響く。
「聞こえたなら『はい』だろうが!」
男の子の口元が動いた。
片方の端が持ち上がり、それから反対側も吊り上がった。頬が引きつれ、目が細い線になる。
「けっ」
三浦の怒鳴り声が止まった。
「けけっ」
男の子は腹を抱えた。
「け、けけ、げぎゃ、げっげっげっげっげ」
三浦は柵へ背中を押しつけた。
「……来るな」
男の子が一歩近づく。
三浦は左脚で地面を蹴ったが、もう後ろには鉄柵しかない。
「来るな!」
男の子がしゃがんだ。
「ふふーん」
小さな掌が、三浦の頬を覆った。
「タッチ」
視界の右半分が消えた。
舌が動かなくなり、開いた口から声が出なくなった。三浦の頭が鉄柵へ一度ぶつかり、そのままずるずると地面へ落ちた。
男の子はしばらく顔を覗き込んでいた。
「こんど、おじさんが鬼ね」




