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死蔵書庫  作者: 大窟凱人


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4/13

夜の公園にて

 午後十一時を過ぎたころ、公園のブランコに子供がいた。

 三浦はスマホを耳に当てたまま、その前を通りかかった。


「無理はさせるなよ。ただ、本人が大丈夫って言ってるなら、あと一時間だけ頼めないか。終わったらタクシー代は会社で持つから」


 電話の向こうで工場長が何か言った。


「代わりがいない以上、仕方ない。うまくやれ……返事は?」


『……はい。わかりました』


 通話を切った。

 会食は自宅近くのホテルで終わり、運転手には先に帰らせていた。酒を抜きがてら十分ほど歩けば家に着く。その途中にある、小さな児童公園だった。


 夜露に濡れた滑り台が街灯を鈍く返し、ブランコの下の湿った砂の上に、八歳くらいの男の子が裸足で立っていた。

 濡れた砂を踏んでいるのに、足元を気にする様子もない。


「君、こんな時間に一人か?」


 男の子は三浦を見上げた。黒い目が、瞬きもせずこちらを見ていた。

 無表情だったその顔に、少しすると微笑みにが浮かんだ。


「おじさん、ぼくと鬼ごっこしよ」


「鬼ごっこ?」


「おじさんが鬼ね」


 三浦は思わず笑った。


「もう十一時だぞ。家はどこだ? 親はいないのか?」


「一回だけ」


 こんな時間に子供を置いていくのも気が引けた。遊んでやれば、親のことも聞けるだろう。

 三浦は革鞄をベンチへ置いた。


「一回だけだぞ。捕まえたら終わりだ」


「うん」


 男の子が駆け出した。

 滑り台の向こうへ消え、砂場からまた現れる。三浦が近づくと身を翻し、ぎりぎり手の届かない距離まで逃げていく。


「なかなかやるな」


 酔いもあって、三浦は少し楽しくなった。

 ジャングルジムの反対側へ先回りし、飛び出してきた男の子の肩をつかむ。


「タッチだ!」


 男の子が振り返り、歯を見せた。


「じゃあ、こんどは、ぼくが鬼」


「いやいや、捕まえたら終わりって言っただろ」


 酔いと駆け回ったせいで上がった息を整えながら、三浦はベンチへ戻った。背後から、湿った地面を叩く裸足の音が追ってきた。

 ぱた、ぱた、ぱた。


 まったく、聞き分けのないガキだ。

 右手首に何かが触れた。


「タッチ」


 三浦は振り返った。

 男の子が笑っていた。


「だから、終わ――」


 突然、右手から力が抜けた。

 指が開いたまま動かない。

 三浦は眉を寄せて拳を作ろうとしたが、親指も人差し指も曲がらなかった。左手で手首をつかむと、その皮膚はぞっとするほど冷たく、いつもなら指先に感じる脈もなかった。

 色まで変わっていた。

 指先から手首へ、濡れた灰を塗ったような色が這い上がっている。


 何度握ろうとしても、まるで動かない。

 じわじわと灰色が侵食し、手首を越えてきた。

 男の子が一歩近づいた。


「こんどは、おじさんが鬼だよ」


 男の子は少し離れ、待っていた。


「ほら。追いかけて」


 三浦は後ずさった。


「あれ? 鬼なのに逃げるの?」


 そのまま踵を返し、出口へ走った。

 背後で男の子が笑った。


「そんなに逃げたいの?」


 裸足の足音が追ってくる。


「しょうがないなあ。いいよ。ぼくが鬼やってあげる」


 三浦は革鞄をベンチに置き去りにし、麻痺した右腕に絡む上着とネクタイを、左手だけでむしり取って芝生へ捨てた。

 スマホを左手で取り出し、一一〇を押した。


『警察です。事件ですか、事故ですか』


「助けてくれ。襲われてる。中央公園だ。すぐ来てくれ!」


『落ち着いてください。お怪我は』


 右肩に手が触れた。


「タッチ」


「う、うわああっ!!」


 三浦の叫び声が夜の公園に響いた。

 肩から先の感覚が一度に消えた。

 右腕全体がぶら下がり、走るたび身体へぶつかる。灰色になった皮膚は肩まで達し、鎖骨の脇にも指の形をした斑点が浮かんでいた。


「ひ、ひい! やめろ! もうやらない!」


 スマホを握ったまま、三浦は出口へ走った。


『もしもし? 大丈夫ですか?』


「は、早く……早く来てくれ!」


 男の子は追ってくる。


「おじさん、まだ逃げるの? ぼくもたまには逃げたいんだけどな」


「く、来るな!」


 左脚で地面を蹴った瞬間、右のふくらはぎに冷たい指が触れた。


「タッチ」


 ガクンと膝が折れた。


 三浦は地面へ転がり、頬を砂に擦った

 起き上がろうとしたが右脚に力が入らない。膝から下は、誰かの脚を身体に括りつけられたように重く、足首も爪先も動かなかった。

 男の子が三メートルほど先に立っていた。


「う……あぁ……」


 三浦は左手と左脚で地面を掻きながら逃げた。

 滑り台の下を抜け、鉄柵の方へ這う。砂が爪の間へ入り、ズボンの膝が裂けても止まれなかった。

 男の子が後ろからついてくる。

 走りもしない。

 三浦が這う速さに合わせて歩いていた。


「おじさん、ほんとうに逃げるの好きなんだね」


 三浦は鉄柵まで辿り着き、身体を反転させた。

 男の子が近づいてくる。

 今度は、その手が三浦の顔へ伸びていた。この手が顔に触れたら、俺は――


「待て!」


 男の子は止まらない。


「ま、待ってくれ。頼む」


 三浦は片手を上げた。


「金ならいくらでもやる。欲しい物があるなら買ってやる。親にも払う。だから、それ以上近づくな」


 男の子は首を傾げただけだった。

 指先が頬へ近づく。


「やめろ!」


 三浦の声が変わった。


「いい加減にしろ!」


 男の子の足が止まった。

 三浦は柵にもたれたまま、左手の人差し指を突きつけた。


「こっちを見ろ! 俺を誰だと思ってる!」


 返事はない。


「俺の会社は年商三百億だぞ! 俺の一言で何百人が動くんだ! お前みたいなガキが俺にこんな真似して、ただで済むと思ってるのか!」


 男の子が三浦を見ていた。


「身体を返せ! 今すぐだ!」


 沈黙。


「返事をしろ!」


 三浦は柵を左手で殴った。夜の静寂にガシャンと音が響く。


「聞こえたなら『はい』だろうが!」


 男の子の口元が動いた。

 片方の端が持ち上がり、それから反対側も吊り上がった。頬が引きつれ、目が細い線になる。


「けっ」


 三浦の怒鳴り声が止まった。


「けけっ」


 男の子は腹を抱えた。


「け、けけ、げぎゃ、げっげっげっげっげ」


 三浦は柵へ背中を押しつけた。


「……来るな」


 男の子が一歩近づく。

 三浦は左脚で地面を蹴ったが、もう後ろには鉄柵しかない。


「来るな!」


 男の子がしゃがんだ。


「ふふーん」


 小さな掌が、三浦の頬を覆った。


「タッチ」


 視界の右半分が消えた。

 舌が動かなくなり、開いた口から声が出なくなった。三浦の頭が鉄柵へ一度ぶつかり、そのままずるずると地面へ落ちた。

 男の子はしばらく顔を覗き込んでいた。


「こんど、おじさんが鬼ね」

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