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死蔵書庫  作者: 大窟凱人


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3/13

種

 仕事を終えてアパートに帰ると、玄関の前に小さな段ボール箱が置かれていた。

 差出人の欄は空白だった。中には握り拳ほどの黒い種と、一枚の紙が入っている。


 育ててください


 種は古い木の実のように乾き、表面には細かな亀裂が走っていた。気味は悪かったが、生きているかもしれないものをゴミ袋へ放り込む気にはなれない。


「ま、いいかな。どうせやることもないし」


 真紀は余っていた鉢を出し、種を土へ半分ほど埋めた。


    *


 その夜、細い音で目が覚めた。


 ひっ、ひゅう。ひゅー。


 亀裂の奥から聞こえる細い呼吸は、園で何度も聞いた、泣く前の子どもが息をうまく吸えない音に似ていた。

 真紀は反射的に土へ指を入れ、乾いているのを確かめた。

 水をやると、それきり静かになった。


    *


 翌朝、窓の外が白み始めたころ、また鳴いた。

 昨夜と同じ、子どもが息を吸い損ねるような音だった。

 今度は土が湿っていたので、鉢を窓際へ移してみた。


「ちゃんと見てるから」


 音が止んだ。


「分かりやすい子ね」


 仕事から帰ると、黒い殻の隙間から白いものが伸びていた。

 芽ではない。

 細い根のようなものが数本、土の上を這っている。真紀が指を近づけると、その一本がゆっくり持ち上がり、指先へ巻きついた。

 ちくりとした。


「痛っ」


 振りほどいた指に赤い点が浮かび、透明な液を垂らした根を見ているうちに、仕事帰りの重さまで肩からほどけていった。


「はぁ……ん……」


 なに……これ……?

 湯船につかったときにも覚えたことのない安堵だった。

 白い根は土の上で縮こまっている。

 真紀は少し迷ってから、もう一度指を差し出した。


 その日、真紀は何度も鉢を見た。

 夕食を作っていても、テレビをつけても、視線は窓際へ戻った。水を確かめ、日差しを確かめ、根に触れる。

 気づけば外は薄暗くなっていた。

 真紀は買い物へ出ようとバッグを持ち、玄関へ向かった。


 ひっ、ひゅう。


 真紀は足を止めた。

 鉢を見る。土は湿っている。

 バッグを床へ置いた。

 音が止んだ。

 もう一度バッグを持ち、玄関へ一歩進む。


 ひっ。ひっ。ひっ。ひっ。


 真紀は戻った。すると、種は静かになった。

 ……偶然じゃない。


    *


 その夜、真紀はしばらく鉢の前に立っていた。

 白い根は土の上で動かなかった。

 水も足りている。日も当てた。何かが苦しいわけではない。それでも自分が出かけようとすれば鳴く。

 植物ではない。

 少なくとも、家に置いていいものではなかった。

 真紀は黒いゴミ袋を広げ、鉢ごと中へ入れた。


 口を縛ると、急にただのゴミに見えた。

 それでいい、と自分に言い聞かせた。

 袋を持って廊下を歩く。

 玄関まで、ほんの数歩だった。

 なのに一歩進むたび、忘れ物をしているような落ち着かなさが増していく。背中の向こうに、何かを置き去りにしている気がした。

 真紀は足を止めた。


「違う。違う違う」


 小さく声に出した。

 これは子どもじゃない。

 もう一度袋を握り直し、ドアを開けた。

 夜の冷たい空気が足元へ入り込んだ。

 そのとき、袋の中から、


 ひゅっ、


 と、何かが大きく息を吸った。

 真紀の手が止まった。

 次の息が来ない。

 袋の中は静かなままだった。


 喉に物を詰まらせた子どもが、空気を吸おうとしている。

 園で何度か聞いたことのある音だった。

 絶対違う。分かっている。

 これは子どもじゃない。

 それでも、次の呼吸を待ってしまった。


 ……来ない。


 真紀は袋を胸に抱えた。

 台所へ戻り、床へ置く。結び目を解く指がうまく動かなかった。

 袋を開くと、白い根が種の周りで細く縮こまっていた。


「ごめんね。もうこんなことしない」


 指を差し出す。


「大丈夫だから。ほら」


 一本の根が、真紀の指へ巻きついた。

 その力を感じた途端、息が深く吸えた。

 真紀は根を撫でた。


    *


 翌日、真紀は仕事を休んだ。

 窓から射す朝の光が台所の床を移っていく。鉢の影だけが、ゆっくりと這っていた。

 昼過ぎ、同僚の優香から電話が来た。


『大丈夫ですか?』


「大丈夫。ちょっと寝れば治るから」


 彼女には、朝から鉢のそばを離れられずにいることは言えなかった。真紀は布団にも入っていない。台所の椅子に座り、黒い種を眺めていた。


『帰り道なんで、何か買って持っていきましょうか?』


「いいよ。わざわざ悪いから」


『ほんとに近いので。ゼリーとか、飲み物とか』


 誰かが休むたび差し入れを持ってくる、優香らしい明るい声だった。真紀は断りかけた口を閉じた。

 一人でいるより、誰かが来てくれた方がいい。


「……じゃあ、お願い」


『了解です。仕事終わったら寄りますね』


 電話が切れた。

 真紀はしばらくスマートフォンを握ったまま座っていた。

 鉢の中の種は、何も鳴らなかった。


 夕方、インターホンが鳴った。

 台所で差し入れを受け取っていると、優香が鉢を覗き込んだ。


「それ、何ですか?」


「もらったの」


「変な植物ですね」


 優香がコンビニの袋をテーブルへ置いた。中でペットボトルが倒れ、軽い音を立てた。

 白い根が一本、鉢の縁から垂れた。

 床へ届く。

 そのまま、優香の足首へ這った。


「え?」


 根が巻きついた。

 優香が脚を振る。鉢が揺れ、土が床へこぼれた。

 二本、三本と白い根が飛び出した。


「や、やだ! やめて!」


 彼女は必死に根を引き剥がそうとし、一本ちぎれた。

 真紀は息を呑んだ。

 優香は泣きそうな顔で玄関へ這おうとしている。


「真紀さん、助けて!」


 真紀はその手を掴んだ。

 手を引っ張ろうとしたその時、背後で、


 ひゅ、ひゅう。


 と鳴いた。


「あっ……」


 真紀の指から力が抜けた。

 白い根が優香の腰へ巻きつき、ゆっくり引いていく。


「お願い、離さないで!」


 彼女の指が真紀の手へ食い込んだ。

 真紀はその手を見た。

 親指を外した。


「な、何して……」


 人差し指。


「真紀さん?」


 中指。

 薬指。


「いや、待っ――」


 最後の小指を外した。

 優香の身体が廊下を滑り、台所へ引きずり込まれていった。

 真紀は玄関の鍵をかけ、その場に座り込んだ。

 悲鳴は長く続かなかった。


 やがて、湿ったものを啜る音だけになった。

 真紀は膝を抱えたまま、玄関に座っていた。

 しばらくして、廊下の向こうから白い根が一本、ゆっくり伸びてきた。

 真紀の手首に巻きつく。

 震えていた手が止まった。

 真紀はその根を撫でた。


「よかったね」


 夜になって台所へ行くと、床には園の名札だけが落ちていた。

 玄関には、優香の靴がきちんと揃ったままだった。

 種は一回り大きくなっていた。


    *


 翌朝、真紀は園へ体調不良の連絡を入れた。

 午後、買い物に出ようとすると、玄関にはまだ優香の靴が揃っていた。

 真紀はそれを避けて自分の靴を履いた。

 鉢は鳴かなかった。


 帰り道、スーパーの前で一人の女が買い物袋を地面へ置いていた。


「重そうですね」


 女が顔を上げた。


「大丈夫ですよ。すぐそこなので」


「うん。でも腕、痛いでしょう。半分持ちますよ」


「いや、そんな。悪いですよ」


「いいんです。ほら」


 真紀は返事を待たず、足元の袋を一つ持ち上げた。


「あら、本当にすみませんねえ」


「これくらい平気ですよ」


 二人で歩き出した。

 女の家は真紀のアパートとは反対方向だった。

 交差点まで来たところで、真紀は立ち止まった。


「ちょっと休みません?」


「え?」


「うち、この先なんです。お茶くらい出しますから」


 女は真紀が持っている袋を見て、それから申し訳なさそうに笑った。


「じゃあ、少しだけ」


「はい。そうしましょう」


 真紀は、自宅の方へ歩き出した。

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