種
仕事を終えてアパートに帰ると、玄関の前に小さな段ボール箱が置かれていた。
差出人の欄は空白だった。中には握り拳ほどの黒い種と、一枚の紙が入っている。
育ててください
種は古い木の実のように乾き、表面には細かな亀裂が走っていた。気味は悪かったが、生きているかもしれないものをゴミ袋へ放り込む気にはなれない。
「ま、いいかな。どうせやることもないし」
真紀は余っていた鉢を出し、種を土へ半分ほど埋めた。
*
その夜、細い音で目が覚めた。
ひっ、ひゅう。ひゅー。
亀裂の奥から聞こえる細い呼吸は、園で何度も聞いた、泣く前の子どもが息をうまく吸えない音に似ていた。
真紀は反射的に土へ指を入れ、乾いているのを確かめた。
水をやると、それきり静かになった。
*
翌朝、窓の外が白み始めたころ、また鳴いた。
昨夜と同じ、子どもが息を吸い損ねるような音だった。
今度は土が湿っていたので、鉢を窓際へ移してみた。
「ちゃんと見てるから」
音が止んだ。
「分かりやすい子ね」
仕事から帰ると、黒い殻の隙間から白いものが伸びていた。
芽ではない。
細い根のようなものが数本、土の上を這っている。真紀が指を近づけると、その一本がゆっくり持ち上がり、指先へ巻きついた。
ちくりとした。
「痛っ」
振りほどいた指に赤い点が浮かび、透明な液を垂らした根を見ているうちに、仕事帰りの重さまで肩からほどけていった。
「はぁ……ん……」
なに……これ……?
湯船につかったときにも覚えたことのない安堵だった。
白い根は土の上で縮こまっている。
真紀は少し迷ってから、もう一度指を差し出した。
その日、真紀は何度も鉢を見た。
夕食を作っていても、テレビをつけても、視線は窓際へ戻った。水を確かめ、日差しを確かめ、根に触れる。
気づけば外は薄暗くなっていた。
真紀は買い物へ出ようとバッグを持ち、玄関へ向かった。
ひっ、ひゅう。
真紀は足を止めた。
鉢を見る。土は湿っている。
バッグを床へ置いた。
音が止んだ。
もう一度バッグを持ち、玄関へ一歩進む。
ひっ。ひっ。ひっ。ひっ。
真紀は戻った。すると、種は静かになった。
……偶然じゃない。
*
その夜、真紀はしばらく鉢の前に立っていた。
白い根は土の上で動かなかった。
水も足りている。日も当てた。何かが苦しいわけではない。それでも自分が出かけようとすれば鳴く。
植物ではない。
少なくとも、家に置いていいものではなかった。
真紀は黒いゴミ袋を広げ、鉢ごと中へ入れた。
口を縛ると、急にただのゴミに見えた。
それでいい、と自分に言い聞かせた。
袋を持って廊下を歩く。
玄関まで、ほんの数歩だった。
なのに一歩進むたび、忘れ物をしているような落ち着かなさが増していく。背中の向こうに、何かを置き去りにしている気がした。
真紀は足を止めた。
「違う。違う違う」
小さく声に出した。
これは子どもじゃない。
もう一度袋を握り直し、ドアを開けた。
夜の冷たい空気が足元へ入り込んだ。
そのとき、袋の中から、
ひゅっ、
と、何かが大きく息を吸った。
真紀の手が止まった。
次の息が来ない。
袋の中は静かなままだった。
喉に物を詰まらせた子どもが、空気を吸おうとしている。
園で何度か聞いたことのある音だった。
絶対違う。分かっている。
これは子どもじゃない。
それでも、次の呼吸を待ってしまった。
……来ない。
真紀は袋を胸に抱えた。
台所へ戻り、床へ置く。結び目を解く指がうまく動かなかった。
袋を開くと、白い根が種の周りで細く縮こまっていた。
「ごめんね。もうこんなことしない」
指を差し出す。
「大丈夫だから。ほら」
一本の根が、真紀の指へ巻きついた。
その力を感じた途端、息が深く吸えた。
真紀は根を撫でた。
*
翌日、真紀は仕事を休んだ。
窓から射す朝の光が台所の床を移っていく。鉢の影だけが、ゆっくりと這っていた。
昼過ぎ、同僚の優香から電話が来た。
『大丈夫ですか?』
「大丈夫。ちょっと寝れば治るから」
彼女には、朝から鉢のそばを離れられずにいることは言えなかった。真紀は布団にも入っていない。台所の椅子に座り、黒い種を眺めていた。
『帰り道なんで、何か買って持っていきましょうか?』
「いいよ。わざわざ悪いから」
『ほんとに近いので。ゼリーとか、飲み物とか』
誰かが休むたび差し入れを持ってくる、優香らしい明るい声だった。真紀は断りかけた口を閉じた。
一人でいるより、誰かが来てくれた方がいい。
「……じゃあ、お願い」
『了解です。仕事終わったら寄りますね』
電話が切れた。
真紀はしばらくスマートフォンを握ったまま座っていた。
鉢の中の種は、何も鳴らなかった。
夕方、インターホンが鳴った。
台所で差し入れを受け取っていると、優香が鉢を覗き込んだ。
「それ、何ですか?」
「もらったの」
「変な植物ですね」
優香がコンビニの袋をテーブルへ置いた。中でペットボトルが倒れ、軽い音を立てた。
白い根が一本、鉢の縁から垂れた。
床へ届く。
そのまま、優香の足首へ這った。
「え?」
根が巻きついた。
優香が脚を振る。鉢が揺れ、土が床へこぼれた。
二本、三本と白い根が飛び出した。
「や、やだ! やめて!」
彼女は必死に根を引き剥がそうとし、一本ちぎれた。
真紀は息を呑んだ。
優香は泣きそうな顔で玄関へ這おうとしている。
「真紀さん、助けて!」
真紀はその手を掴んだ。
手を引っ張ろうとしたその時、背後で、
ひゅ、ひゅう。
と鳴いた。
「あっ……」
真紀の指から力が抜けた。
白い根が優香の腰へ巻きつき、ゆっくり引いていく。
「お願い、離さないで!」
彼女の指が真紀の手へ食い込んだ。
真紀はその手を見た。
親指を外した。
「な、何して……」
人差し指。
「真紀さん?」
中指。
薬指。
「いや、待っ――」
最後の小指を外した。
優香の身体が廊下を滑り、台所へ引きずり込まれていった。
真紀は玄関の鍵をかけ、その場に座り込んだ。
悲鳴は長く続かなかった。
やがて、湿ったものを啜る音だけになった。
真紀は膝を抱えたまま、玄関に座っていた。
しばらくして、廊下の向こうから白い根が一本、ゆっくり伸びてきた。
真紀の手首に巻きつく。
震えていた手が止まった。
真紀はその根を撫でた。
「よかったね」
夜になって台所へ行くと、床には園の名札だけが落ちていた。
玄関には、優香の靴がきちんと揃ったままだった。
種は一回り大きくなっていた。
*
翌朝、真紀は園へ体調不良の連絡を入れた。
午後、買い物に出ようとすると、玄関にはまだ優香の靴が揃っていた。
真紀はそれを避けて自分の靴を履いた。
鉢は鳴かなかった。
帰り道、スーパーの前で一人の女が買い物袋を地面へ置いていた。
「重そうですね」
女が顔を上げた。
「大丈夫ですよ。すぐそこなので」
「うん。でも腕、痛いでしょう。半分持ちますよ」
「いや、そんな。悪いですよ」
「いいんです。ほら」
真紀は返事を待たず、足元の袋を一つ持ち上げた。
「あら、本当にすみませんねえ」
「これくらい平気ですよ」
二人で歩き出した。
女の家は真紀のアパートとは反対方向だった。
交差点まで来たところで、真紀は立ち止まった。
「ちょっと休みません?」
「え?」
「うち、この先なんです。お茶くらい出しますから」
女は真紀が持っている袋を見て、それから申し訳なさそうに笑った。
「じゃあ、少しだけ」
「はい。そうしましょう」
真紀は、自宅の方へ歩き出した。




