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死蔵書庫  作者: 大窟凱人


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2/13

瞬間移動

 沢木は、行ったことのない場所には飛べない。

 一度でも自分の足で立った場所なら、距離は関係なかった。そこを頭に浮かべると耳の奥で小さな音がして、次に目を開けたときには、もう着いている。


 能力に気づいてから十年ほどになる。

 最初に行くときだけは飛行機や電車を使わなければならない。だから沢木は、移動先を増やすためによく旅をした。


 パリのセーヌ河岸。ローマの石畳。イスタンブールのガラタ橋。バンコクの川沿い。マラケシュの市場。レイキャビクの港。ニューヨークのブルックリン橋。

 一度足を運んでしまえば、パリの朝食も東京の昼も、沢木には数秒の距離だった。


 沢木はこの能力が好きだった。休みさえあれば世界中を飛び回り、海外で得た知識や経験は仕事にも役立った。十年も経つころには、瞬間移動のない生活など考えられなくなっていた。

 そんな彼に異変が起きたのは昼休みだった。


「そういや沢木、京都よく行ってたよな」


「ああ。そうだけど」


 同僚に言われ、清水寺の石段が浮かんだ。

 耳鳴り。


 沢木は石段の途中に立っていた。

 観光客が肩をぶつけ、そのまま通り過ぎる。


「……なんだ今のは?」


 飛ぶつもりなんてなかった。誤作動……?

 会社の給湯室を思い浮かべると戻れたので、そのときは疲れているのだと思った。

 ところが帰宅途中、車内広告に青い海が映った。


 地中海。


 イスタンブールで見た海峡が浮かんだ瞬間、電車の床が消えた。

 潮の臭い。並んだ釣り竿。夕暮れのガラタ橋。


 まずい。


 自宅、と強く考える。

 次には玄関にいた。

 沢木は壁に手をつき、しばらく息を整えた。


 行き先さえ考えなければいい。


 そのとき、足元の古いスニーカーが目に入った。高校時代、それを履いて走っていたグラウンドが浮かび、白線と赤土を思い出したところで玄関の壁がなくなった。


 夕暮れの校庭だった。

 門の向こうを黄色いバスが走っている。

 修学旅行。奈良。


 景色が変わった。


 鹿を見て動物園を思い出し、池から幼いころ父親に連れていかれた公園へ移った。色褪せた象の滑り台だけが懐かしく、公園の名前は出てこない。それでも能力だけは、沢木がここへ来たことを覚えていた。


 忘れているだけだ。

 幼いころ。

 幼稚園。


 また景色が変わった。


 そこから、連想が沢木より速くなった。


 教室の時計から駅を思い出し、駅の広告からエッフェル塔へ飛んだ。セーヌ河岸の赤い日除けがマラケシュの壁を呼び、香辛料の臭いからバンコクの市場へ、川面を走る船からイスタンブールへ移った。


 着いた場所を確かめる暇がない。


 イスタンブールの海鳥の声からレイキャビクの港へ飛び、頬を打つ冷たい風からニューヨークの冬を思い出す。黄色いタクシーが目に入ったときには、幼いころ乗った父親の車が浮かび、今度は見覚えのない団地の駐車場に立っていた。

 十年かけて増やした移動先が、一つ残らず自分を追いかけてきた。


 沢木は目を閉じ、


「見るな。とにかく、どんな場所も、何も思い浮かべるな」


 そう言い聞かせる。暗闇が広がった。

 しかし、そこに――映画館が浮かび上がった。


「っ……!」


 次の瞬間、ニューヨークで一度だけ入った古い映画館の通路に立っていた。


「違う。駄目だ」


 目を閉じたまま耳も塞ぐ。

 それでも自分の荒い呼吸が聞こえる。その息遣いから高校のグラウンドを思い出し、土の匂いを感じたときには、もう別の場所へ移っていた。


 見るのも駄目だった。


 聞くのも駄目だった。


 ならば、一つのことだけを考え続ければいい。


 沢木は数字を数えた。


 一、二、三――


 三階。


 以前勤めていた会社の三階休憩室が浮かんだ。


 飛んだ。


「くそっ!」


 自分の声からカラオケ店を思い出した。


 飛んだ。


 沢木は口を閉じた。

 だが今度は、黙ろうとしたこと自体が「静かな場所」を連想させた。図書館へ飛び、その本棚から大学へ、大学の講義室から学生時代のアパートへ、窓の外の雨からロンドンで一度歩いた濡れた通りへ移った。


 目も耳も塞いだのに、場所は感覚ではなく記憶の奥から勝手に浮かび、浮かぶたびに沢木を連れ去った。


 沢木はもはや、場所を知覚する前に飛んでいた。

 駅、ホテル、病院、海岸、パリ、バンコク、ローマ、実家、ニューヨーク、知らない公園。

 景色はつながりながら、切れ続けた。


 能力は壊れていなかった。

 以前は、行きたい場所を思ったときに飛んだ。

 今は、場所を思っただけで飛ぶ。

 頭の中そのものが、発動装置になったのだ。


 ならば、止める方法は一つしかない。

 もう、何を見ても、どこにもつなげない。


 ――無理だ。そんなことをしたら……俺じゃなくなる。


 その言葉から、受験に落ちた日の予備校が浮かんだ。


 耳鳴り。


 古い教室。


 沢木はそこで、初めて別の選択肢を考えた。


「このままなら、俺のままでいられる」


 景色が変わった。


「ただ、一生止まれない。死ぬまで飛び続ける」


 また飛んだ。


「それなら、俺は――」


    *


 マラケシュ。


 東京。


 ローマ。


 バンコク。


 知らない駅。


 海岸。


 幼稚園。


 ニューヨーク。


 景色は現れた瞬間から、次の景色の呼び水になった。


 沢木は誰もいないホテルの廊下に立っていた。


 壁の絵から、また別の場所が浮かぶ。


 飛んだ。飛び続けた。


 夜の広場。


 見覚えのある噴水。


 どこの国だったか思い出そうとして、また別の街が浮かんだ。


 飛んだ。飛び続けた。いつまでも。ずっと。


 やがて……彼は、景色を見ても何も思い出さなくなった。


 土地の名前を探さなくなった。


 そこへ誰と行ったのかも考えない。


 沢木は一つずつ、記憶へ伸びる手を引っ込めていった。


 パリ。


 知らない。


 会社。


 知らない。


 母親。


 知らない。


 沢木。


 その名前も、追わなかった。


 耳鳴り。


    *


 男は、どこかの道路を歩いていた。


 低い家が並び、見覚えのない文字の看板が風に揺れている。


 男はそれを見上げた。


 どこの国なのか分からなかった。


 なぜここにいるのかも分からなかった。


 ポケットの中で携帯電話が鳴った。


 男は取り出した。

 

 画面には、


 母


 と表示されていた。


 男はしばらくその文字を見ていたが、興味を失ったように携帯をポケットへ戻し、知らない道を歩き出した。


 もう、耳鳴りはしなかった。

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