瞬間移動
沢木は、行ったことのない場所には飛べない。
一度でも自分の足で立った場所なら、距離は関係なかった。そこを頭に浮かべると耳の奥で小さな音がして、次に目を開けたときには、もう着いている。
能力に気づいてから十年ほどになる。
最初に行くときだけは飛行機や電車を使わなければならない。だから沢木は、移動先を増やすためによく旅をした。
パリのセーヌ河岸。ローマの石畳。イスタンブールのガラタ橋。バンコクの川沿い。マラケシュの市場。レイキャビクの港。ニューヨークのブルックリン橋。
一度足を運んでしまえば、パリの朝食も東京の昼も、沢木には数秒の距離だった。
沢木はこの能力が好きだった。休みさえあれば世界中を飛び回り、海外で得た知識や経験は仕事にも役立った。十年も経つころには、瞬間移動のない生活など考えられなくなっていた。
そんな彼に異変が起きたのは昼休みだった。
「そういや沢木、京都よく行ってたよな」
「ああ。そうだけど」
同僚に言われ、清水寺の石段が浮かんだ。
耳鳴り。
沢木は石段の途中に立っていた。
観光客が肩をぶつけ、そのまま通り過ぎる。
「……なんだ今のは?」
飛ぶつもりなんてなかった。誤作動……?
会社の給湯室を思い浮かべると戻れたので、そのときは疲れているのだと思った。
ところが帰宅途中、車内広告に青い海が映った。
地中海。
イスタンブールで見た海峡が浮かんだ瞬間、電車の床が消えた。
潮の臭い。並んだ釣り竿。夕暮れのガラタ橋。
まずい。
自宅、と強く考える。
次には玄関にいた。
沢木は壁に手をつき、しばらく息を整えた。
行き先さえ考えなければいい。
そのとき、足元の古いスニーカーが目に入った。高校時代、それを履いて走っていたグラウンドが浮かび、白線と赤土を思い出したところで玄関の壁がなくなった。
夕暮れの校庭だった。
門の向こうを黄色いバスが走っている。
修学旅行。奈良。
景色が変わった。
鹿を見て動物園を思い出し、池から幼いころ父親に連れていかれた公園へ移った。色褪せた象の滑り台だけが懐かしく、公園の名前は出てこない。それでも能力だけは、沢木がここへ来たことを覚えていた。
忘れているだけだ。
幼いころ。
幼稚園。
また景色が変わった。
そこから、連想が沢木より速くなった。
教室の時計から駅を思い出し、駅の広告からエッフェル塔へ飛んだ。セーヌ河岸の赤い日除けがマラケシュの壁を呼び、香辛料の臭いからバンコクの市場へ、川面を走る船からイスタンブールへ移った。
着いた場所を確かめる暇がない。
イスタンブールの海鳥の声からレイキャビクの港へ飛び、頬を打つ冷たい風からニューヨークの冬を思い出す。黄色いタクシーが目に入ったときには、幼いころ乗った父親の車が浮かび、今度は見覚えのない団地の駐車場に立っていた。
十年かけて増やした移動先が、一つ残らず自分を追いかけてきた。
沢木は目を閉じ、
「見るな。とにかく、どんな場所も、何も思い浮かべるな」
そう言い聞かせる。暗闇が広がった。
しかし、そこに――映画館が浮かび上がった。
「っ……!」
次の瞬間、ニューヨークで一度だけ入った古い映画館の通路に立っていた。
「違う。駄目だ」
目を閉じたまま耳も塞ぐ。
それでも自分の荒い呼吸が聞こえる。その息遣いから高校のグラウンドを思い出し、土の匂いを感じたときには、もう別の場所へ移っていた。
見るのも駄目だった。
聞くのも駄目だった。
ならば、一つのことだけを考え続ければいい。
沢木は数字を数えた。
一、二、三――
三階。
以前勤めていた会社の三階休憩室が浮かんだ。
飛んだ。
「くそっ!」
自分の声からカラオケ店を思い出した。
飛んだ。
沢木は口を閉じた。
だが今度は、黙ろうとしたこと自体が「静かな場所」を連想させた。図書館へ飛び、その本棚から大学へ、大学の講義室から学生時代のアパートへ、窓の外の雨からロンドンで一度歩いた濡れた通りへ移った。
目も耳も塞いだのに、場所は感覚ではなく記憶の奥から勝手に浮かび、浮かぶたびに沢木を連れ去った。
沢木はもはや、場所を知覚する前に飛んでいた。
駅、ホテル、病院、海岸、パリ、バンコク、ローマ、実家、ニューヨーク、知らない公園。
景色はつながりながら、切れ続けた。
能力は壊れていなかった。
以前は、行きたい場所を思ったときに飛んだ。
今は、場所を思っただけで飛ぶ。
頭の中そのものが、発動装置になったのだ。
ならば、止める方法は一つしかない。
もう、何を見ても、どこにもつなげない。
――無理だ。そんなことをしたら……俺じゃなくなる。
その言葉から、受験に落ちた日の予備校が浮かんだ。
耳鳴り。
古い教室。
沢木はそこで、初めて別の選択肢を考えた。
「このままなら、俺のままでいられる」
景色が変わった。
「ただ、一生止まれない。死ぬまで飛び続ける」
また飛んだ。
「それなら、俺は――」
*
マラケシュ。
東京。
ローマ。
バンコク。
知らない駅。
海岸。
幼稚園。
ニューヨーク。
景色は現れた瞬間から、次の景色の呼び水になった。
沢木は誰もいないホテルの廊下に立っていた。
壁の絵から、また別の場所が浮かぶ。
飛んだ。飛び続けた。
夜の広場。
見覚えのある噴水。
どこの国だったか思い出そうとして、また別の街が浮かんだ。
飛んだ。飛び続けた。いつまでも。ずっと。
やがて……彼は、景色を見ても何も思い出さなくなった。
土地の名前を探さなくなった。
そこへ誰と行ったのかも考えない。
沢木は一つずつ、記憶へ伸びる手を引っ込めていった。
パリ。
知らない。
会社。
知らない。
母親。
知らない。
沢木。
その名前も、追わなかった。
耳鳴り。
*
男は、どこかの道路を歩いていた。
低い家が並び、見覚えのない文字の看板が風に揺れている。
男はそれを見上げた。
どこの国なのか分からなかった。
なぜここにいるのかも分からなかった。
ポケットの中で携帯電話が鳴った。
男は取り出した。
画面には、
母
と表示されていた。
男はしばらくその文字を見ていたが、興味を失ったように携帯をポケットへ戻し、知らない道を歩き出した。
もう、耳鳴りはしなかった。




