#94 謝ることではない
なんとか眠気は堪えた。しかし意識は虚ろで足取りも怪しい。降りたバス停に人影があったことにももちろん気がつかなかった。
「ワタルくん?」
聞こえはしたがまさかと思う。空耳かと無視をすると今度は大きめの声で呼ばれた。
「聞こえないの!? スケベ響木っ!」
「……は、なんで美咲がここに?」
驚いて答えると相手はもっと驚いた様子で俺の右手をちらりと見た。もちろんそこに指揮棒はない。今度はずんずん近づいてきて、くん、と顔を嗅いでくる。反射的に避けたが匂いはしたらしい。
「まさか……飲んできたの!?」
高校生相手に? 最低! などと叫ばれるのは心外だ。
「飲みたくて飲んだわけじゃねーわ」
弱く吐き捨てて歩き出す。眠気もあって少しよろけると、相手はすっと腕を掴んで寄り添ってきた。
「バカだな、弱いくせに」
「うるさい」
「……かっこよかったですよ。いきなりでよくあんな風に振れますね」
妙に照れた様子の彼女に呆れる。いつものことだが『ワタル』の時と態度が違いすぎだ。つーか。
「おまえさ。わざと気配消してたろ。俺に全部振らせるために」
「な! っていうか『おまえ』!?」
あ。めんどい。『おまえ』呼びに引っかかるタイプとか。まあたしかにワタルなら言うはずないけど。
「……あー。スンマセン。調子乗りマシタ」
「なにその棒読み」
「ワタルふう」
一瞬の沈黙のあと「ぶふっ」と汚くリアクションしてくれた。
「にっ、似てなさすぎる。くく……自分、なのにっ」
「笑いすぎ」
俺は『ワタル』じゃないんだから違うに決まってるのに。
「……じゃあ、『ワタル』くん」
はあ? だから違うって────と怪訝に思って相手を見ると、早春の夜風の中でどこか憂いを帯びた瞳がまっすぐこちらを見ていて戸惑った。
「お別れしませんか? 私たち」
…………は?
寄り添っていた身をするりと離して、彼女は立ち止まる。合わせてこちらも足を止めた。
「本当はワタルくんに言うつもりだったんです。それで待ってたの。でもまさかタクトくんで帰ってくるとは」
いやいや、そこはどうでもいい。
あまりの衝撃に酔いも眠気もいくらか醒めた。
今日一日、メインのイベントこそ予期せぬアクシデントに見舞われたがそれまではちゃんとデートとして平穏に過ぎていたはずだ。突然の別れを告げられる理由にまったく見当がつかない。
「俺が、ここを離れる予定だからですか?」
訊ねた口調が自然とワタルに戻っているのを自分でも感じた。構わずつづける。
「遠距離恋愛はできない、と?」
「それだけが理由じゃないよ」
「じゃあどんな理由が」
「別の世界の人だなって思ったの」
今日の定演を見て、しみじみそう思ったの。と。
早春とはいえまだまだ冷える三月あたまの夜の屋外。早くあたたかい場所に移動すべきなのはわかっているが、僕らは向かい合ってその場に立ち止まっていた。
「飛び入りの指揮であそこまで出来るなんて。しかも生徒たちみんなちゃんとついていってて楽しそうで。ああ、この人やっぱり天才なんだな、って、改めて思ったわけ」
「なんですか、それ。そんな理由で」
「自分が恥ずかしくなったの。あなたのそばにいたいだなんて、簡単に思っちゃいけないと思ったの」
聞けば聞くほどわけがわからない。相手の思考が読めず戸惑うばかりな僕を前に彼女はつづける。
「教師としてちゃんと生徒たちのことを考えて、あなたは私にこの土地に残るように言ったでしょう? でも私は……。一緒にいたいと思ってしまった。『一緒に来て欲しい』って言ってもらうことを期待しちゃってた」
そこか。行き道のバスだ。
身に染みる冷気がいっそう増した気がした。本当に、僕は恋愛に不慣れすぎるな。
「……すみません」
「謝らないでよ。ワタルくんは間違ってないじゃない」
間違ってない、とは言えない。
彼女の気持ちを考えていなかった。僕の考えはいつでも生徒たちのことばかりで、『恋人』として彼女をちゃんと見ていなかったんだ。
「間違いだらけじゃないですか」
現にこうして彼女は僕に別れを切り出して泣いている。僕のせいで。
「あなたが泣いていたら、僕はたぶん気になって『天才』じゃいられないです」
濡れたままのキョトンとした顔でこちらを見上げて、やがてポツリとなにか言ったと思ったらこんなことだった。
「『おまえ』じゃないんだ?」
「酔いなんか醒めてますよ。けっこう前から」
真剣な場面でズッコケさせないでほしい。
「え。こういうケースもあるの?」
「いや、初めてです」
明確なアクションなしで切り替わったのはこれが初めてだ。
「大丈夫なの? 二日酔いは」
「さあ。わかりません」
答えつつもこういう無理をするとあとあとしわ寄せがくるんだよな、と内心で怯える。明日は出勤なのに。
けど今日くらい。こんな時くらい。倒れずにいたい。
「ていうか全然天才じゃないです。僕は周りに支えられてやっと立ってる。指揮はできても、ついてきてくれる人がいなきゃ指揮者は成り立ちませんから。あとこの体質のことだって。ビール一杯でこのザマです。美咲先生の支えがなかったらまともに帰れるかもあやしい」
「そんなの私じゃなくても」
「あなたがいいんです」
照れたが、ここは乗り越えなくてはならない。
「美咲先生」
「……はい」
「婚約しませんか」
本当はもっといろいろしっかり決まって住まいや収入面も安定してから、ちゃんと準備をして言おうと思っていたんだが。
ただ、僕が切り替わったことがわかった時のリアクションが喜びや怯え、もしくは落胆のどれでもなく「大丈夫?」という身体の心配だったことが意外に嬉しく。ああ、この人をのがしちゃだめだな、と変に焦った。
「え、婚約……? って」
僕が理由を説明しようとしたタイミングでポケットから振動音がした。
電話……?
はあ、こんなタイミングでかよ。
ちらと美咲先生を見ると「出なよ」と目で訴えてくる。さすがに申し訳なく思いながらも取り出して画面を見ると、またこの人だった。
思えば前もこんなシチュエーションでこの人からの電話を受けたな。そんなことをふんわりと考えながら、画面を耳に近づけた。




