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#95 迷う必要はない

『ああ響木先生! お久しぶりです』


「お久しぶりです、宮下さん」


『お休み中すみません。響木先生、急ぐ話なのでいきなり本題に入らせてほしいのですが、その、春からの進路はもうお決めになられましたか?』


「ええ?」



 困惑しつつも「いえ」と答えた。美咲先生は様子をうかがう顔をしつつも黙って待ってくれている。


 宮下さんは『ああよかったです』と安堵の声を返した。……一体なんだ?


『響木先生、吹奏楽の指揮、なさりたいですよね?』

「ええ? そりゃあ、はい」


『生徒を相手に?』

「……はい」


 まだ早い、と思いながらも、その言葉を受けて心臓が速い鼓動を打ち始めていた。呼吸まで浅くなってくる。美咲先生の様子を見ている余裕はなくなり、視線を畑へ逃がす。


『場所はこだわりませんか?』

「……ええ、まあ」


 ああ、じれったい。話の核が早く知りたい。


「あの、なんなんですか。宮下さん」


 堪え切れずに訊ねると相手は少し黙って、やがて『わはは』と笑った。ニヤニヤされているのが電話でもわかる。まったくひとが悪い。


『……はは、すいません。いやね、とある私立高校での音楽教員及び吹奏楽部顧問として、響木先生にスカウトの話が来ているんですよ』


「……ええ!?」


 寝耳に水、というか。しかしなぜ宮下さんからそんな話が。そもそも僕の異動の話までなぜ知られているんだ?


『僕がそこの理事長と古い知り合いでしてね。今日久しぶりに会って、僕が響木先生の話をしたらちょうど前任者の退職が突然決まって困っている所だと言うじゃないですか。響木先生の異動のことは前に梅吉くんから連絡をもらっていまして。それでトントン拍子に話が進んだんです』


 この人の顔の広さには脱帽する。というか梅吉。まさかと思うが宮下さん経由で市に僕の異動について抗議しようとでもしたのか。


『聞けば設備や環境は整っているのに部は若干衰退気味だということで。立て直しには若さも技量も充分で加えてこんな特殊な創部経験もある響木先生のような人が適任だ、とのことでね。是非に、と』


「う、買い被られすぎてません?」


 あまり過度な期待をされては困るし恐い。


『はは。なにをご謙遜を』

「いや……。え、それどこの高校ですか?」


『ああそれがね、東京なんです』

「と……」


 美咲先生の手前地名を述べるのはとどまった。今騒げば電話を奪われかねない。


 実際中学以外でも音楽を教えることは可能だ。前任者がいて設備も整っているなんて好条件すぎて裏を心配したくなるほどだった。


 しかしこんなチャンス、きっとまたとない。


 ──チャンスはどこにあるかわかりませんから。見落とさないように、潰してしまわないように、よく注意なさってくださいね。


 いつかの、西野館長の言葉が甦る。


『お受けになるのなら、準備等急ぎたいのでなるべく早く連絡と、一度来校してほしい、とのことです』


「……」


『どうされます?』


 迷う……必要もないのかもしれない。


 ちらと美咲先生を見る。まさか東京の高校なんて。距離の遠さは市内にある教育委員会の比じゃない。まず市どころか県からすらも出るんだ。


 そんな遥か彼方の地にまでについて来てほしい、なんて言ってもいいのか。


 でも僕はやりたい。

 部活顧問がやりたいんだ。


 もしもこれで振られるのなら、生涯独りでも仕方ない。


「お受けします」


 騙されているのだとしても、騙されてみよう、そう思えた。



 電話を切ってからも僕は暗い畑を見たままだった。痺れを切らせた美咲先生が「あの」と言ってくるけどあまりのことに頭の中の整理がなかなか追いつかない。


 ああそうだ。まずは婚約の話の続きをしよう。


「……二年だけ、ここの土地で待ってもらえませんか?」


「はい?」


 やっとのことで彼女のほうを見る。怒っているかと思ったが、その目は案外心配の色をしていた。


「そうすれば、少なくともさく坊たちの世代までの卒業は見届けられるから」


「だからそれはあなたがたまに来てあげれば」

「僕はいられないです」


 きっぱり言うと、パチクリされた。


「さっきの電話。宮下さんから東京の高校で音楽教師および吹奏楽部顧問をしないか、という話で。それを受けます」


「とうきょう……?」


 こくりと頷く。美咲先生の目が開かれたままだった。


 ──と。ぱらりと細い水滴が頬をかすめた。


「あ、雨?」美咲先生が言う。そういえば酔いはとうに醒めて身体は冷えきっていた。雨まで降って恐ろしく寒い。


 とにかく帰りましょう。詳しい話はそれから、と、天ぷら屋へと急いだ。



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