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#96 知られたくはない

「……東京、ねえ」


 美咲先生は目の前に置かれた天丼を見下ろしながら呟くように言った。海老が二尾に、茄子、椎茸、ししとう、いか。蓮根はあったりなかったり。黄身がとろける絶品の玉子天は追加料金。濃いめの甘だれが絶妙においしい逸品だ。


 いつも美咲先生は店員だからこうして客としてテーブル席で向かい合うのは初めてのことだった。


「二年の間にお願いしたいことがあるんです」


「……なんですか」


「僕がいなくなった後で、生徒たちが僕のことを探したり、追ってきたりしないように監督というか、説得というかを」


 すると美咲先生はぴたりと動きをとめてじっと僕を見る。「まさか、言わないで行くつもりなの?」


 ゆっくりと、頷いた。


「東京ってことも?」

「はい」

「高校名も?」

「はい。……できれば、職種も」


「はあ? なんで!」

 食らいつくように詰め寄られてたじろいだ。


「いや……。田舎の中学生が勝手に東京みたいな遠くに来ちゃったら危ないし僕も困りますから」


「あの子たちの会いたい気持ちを踏みにじるの?」


「……そんな言い方は」


「それに進学先にされてもいいじゃないですか。私立だし受けるのは生徒の自由でしょ? なんでそれもダメなんですか?」


「平等にしたいんです」

「……平等?」


「二年生や一年生はいいけど、三年生はもうそれぞれ進学してる。それに東京ですよ。しかも私立。学費や下宿費だってバカにならない。願ったところでどうしても叶わない生徒だってきっと出てきます。それなら──」


「それならひとりも受け入れない方がいい、ですか?」


「……はい」

「本当にそれでいいの?」


 たしかに、悩むところではある。彼らにとって本当にいいことなのか。見捨てたと思われないか、裏切りにはならないか。だけどこれが『最善』だと思うんだ。


「……いいんです。でもその代わりに、美咲先生がみんなのそばにいてください。顧問じゃなくてもいい、この天ぷら屋でいいから、今の一年生たちがちゃんと全員高校に上がるまでそばで見てやってください」


 美咲先生は複雑そうな表情をしていた。穴が空くほどじっと見つめられ続けるえび天が怯えていそうだ。


「んんん……わかりました。でも二年だけだよ。二年経ったら私はそっちに引越します。そしたらちゃんとプロポーズしてくださいね?」


「いっ……! ……はい」


 まったくこの人は。



「ところで普通に元気そうですね?」

「え?」

「だって飲んだのに」

「ああ」


 たしかに謎に元気だ。だけど飲めば必ず酷い二日酔いになるのが通例だから。


「もしかしたら明日は動けないかもしれないです」


 なんて笑っていたが、まさか本当にそうなるとは思わなかった。



 翌朝、目を覚ますと同時にあまりにひどい頭痛と吐気に襲われた僕は、自力で電話をかけることもできず、おかみさんに学校に連絡してもらう羽目になった。


「救急車呼ぶ?」というおかみさんの割と本気そうなトーンの声に「大丈夫」となんとか返して布団にもぐる。昨夜の謎な元気さはなんだったんだ。とにかくやはり飲酒は極力控えて生きていこうと胸に深く誓った。



 夕方、というかほぼ夜になってからやっと体調が戻ってきた僕は宮下さんに教えてもらった番号に早速電話をかけた。


『本当ですか!? ありがとうございます!』


 理事長というその人の声は思いのほか若々しく美音原中学との差を早くも感じてしまう。いや若々しいからどうというものでもないのだが。


『では早速来校していただきたいのですが……、すみません。こちらの都合で来週木曜までにお願いしたいんです』


「えっ、木曜まで、ですか」


『ええ。前任の先生が木曜までしか来られないとのことで……難しいですか?』


「あ、いえ。大丈夫です。ギリギリですが木曜にならお伺いできます」


『そうですか! よかったです!』


 来週木曜といったら閉校式の翌日だ。常識的な時間に到着しようと思うと前日の昼に出発しなければ間に合わない。


 閉校式の直後に出発……。怒られるだろうか。恨まれるだろうか。一度行ってからまた戻って、ゆっくり別れを惜しんだ方がいいだろうか。


 ……いや。


 大丈夫だ。絶対に大丈夫だ。美音原中のみんななら。



 ──吹奏楽部は、絶対続ける!



 受け継いでいってくれる。必ず。


 僕がそばにいなくても。


 

 具体的な行先は美咲先生にしか伝えないことににした。天ぷら屋夫婦を信用していないわけではないが大事をとって高校名は伝えていない。何度も言うが信用していないわけではない。



 さて。そんなわけでいよいよ、閉校式当日が近づいてくる。



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