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#97 いつも通りではない

 桜の蕾がまだ堅い、三月半ばの晴れた朝。空気は冷たく春といってもまだ寒い。いつも通りの上着を着て身支度を整えて、いつも通りに階段を降りた。いつも通り靴を履いて、いつも通り、大将とおかみさんに挨拶を……。


「おはよう。先生」


 いつもは作業の片手間に向けられていた笑顔は、今日は階段の下でふたつ並んでちゃんとこちらを向いていた。


 ああ、そうだな。今日は『いつも通り』ではないんだ。


「おはようございます。大将、おかみさん」


 そこでおかみさんが堪えきれずに大将の肩に向かってわんわん泣き始めるものだから、僕と大将は困り顔で笑い合った。


「ごめん。あかんね、涙脆うて……」


 もらい泣きを堪えて「お世話になりました」と鼻声で言って頭を下げると、「やめれ、水くさい。またいつでも帰って来なせえ、先生!」と大将に元気に背中を叩かれた。


「ほんじゃあ今日も、いってらっしゃい、張り切って!」


 いつも通りその戸を開いた。外は春の陽射しがまぶしい。


 毎日見てきた景色を、目に焼き付けるようにしながらゆっくり歩く。


 三年生の公立高校の受験は先週あったそうだ。僕は担任ではないので直接関わらないが、全員が無事に合格を決めたと聞いている。


 スズメの声が明るい。空気はまだ冷たいが、日差しは春を感じさせる。


 演奏の練習はその受験が済んでから始めたため実質一週間もできていない。伝統の一曲、とはいえ実際『式典終曲』を知る生徒は残念ながらひとりもいなかった。知った曲ならともかくまったく知らない曲を演奏するのはさらに難度が上がる。正直いって出来は期待できるものではないが、それでもよかった。


 全校生徒で『終わり』を演奏する。そのことに大きな意味があると思うから。


 ちなみに楽譜を借りたくてアマ高にも連絡をした。いつもなら「松阪先生に聞いてみないと」というはずの西野さんが今回は二つ返事で快諾してくれた。松阪先生が育児休暇に入ったことで彼女はまた成長したようだ。「責任は私が持ちます!」などと頼もしい。式当日も全部員で聴きに来ると言っていた。


 それにしても閉校式なんて初めてだ。母校ではないにしても、まさか自分が歴史ある中学校の最後の瞬間に立ち会うこととなるとは。


 身が引き締まる心地で、僕はそこに参上した。



『市立美音原中学校』



 今日で最後となる、僕たちの大切な場所。



「おはよう。ヒビノ」


 校庭の脇から校舎を見上げていると、背中に声を掛けられた。いつも通り……だけどいつもよりも少しばかり静かに、まるでこの時間を噛み締めるようだった。


「おはよう。梅吉」


 いつもの笑顔で坊主頭にそう返す。今日のためにか美しく刈られたキウイ頭だった。


 この日常も、今日で最後だ。


 だけど僕らは特別な言葉をこの場で言い合うことはしない。


 『最後』だからこそ、いつも通りでいたかった。


 梅吉は僕を追い抜きながら「遅刻すんで」と無邪気な笑顔で言って先に校舎へ入っていく。


 ふ、と笑ってその背中を眺めてから、僕も校舎へと足を進めた。




「おはようござい……ん?」


 職員室へ着くとまたここもいつもと雰囲気が違った。


 教頭はじめ、中村先生も、ほかの先生たちも、そして校長も。一同に並んでこちらを見ている。


「……響木先生」


 堪らずたじろぐ僕に話しかけてきたのは教頭だった。春からこのタヌキ……、いや、この人とは本当にいろいろあった。そして美咲先生とこの先まさかそういうことになるとしたら今後も縁のある相手だ。


「いやぁね、響木先生の目に余る無茶な行動には……はは。正直参って、実際いろいろ言うてきましたが、今となっては……」


 そこで言葉を切って、まっすぐこちらを向いた。タヌキの目というのは案外可愛らしいものだ。


「送別会もちゃんとできんと、すんません。その、恥ずかしい話が、あんたを認めんことに、私は意地んなっとったんです。けど今の生徒たちを見たら、響木先生が間(ちご)うてなかった、ちことがようわかる。不登校生徒もゼロ、不祥事や進学せんいう生徒もゼロ、その上合併にみんな前向きで、すでにアマ中の生徒との友情まで生まれとる」


 そしてひと呼吸おいて、こんなことを言われた。


「響木先生、あんたは……素晴らしい教師です」


 身に余る言葉だ。


「響木先生の望む『合併後の続任』を叶えられんかったんは私らの力不足ですぅ、堪忍してください」


 下げた頭が朝日を照り返す。案外綺麗なバーコードだよな、などと思ってはいけない。


「……やめてください。教頭が仰っていたことに間違いはなかったですし、僕が無茶すぎたのも事実です。それに続任を望んでも叶わないのは公立中学校教諭ならよくあることです」


 なにもかも決まった後の今、この人が僕の異動話に関与したかどうかの事実を確かめるつもりはない。


「次の場所でも、どうかお元気で」


 前足……いや、手を差し出されて少し驚いたが、やんわりと握らせてもらった。



「ホームルーム、全校生徒で二年の教室でやるそうですよ。響木先生の仕切りで」


 中村先生がなぜかいつもよりにこやかにそう言ってきた。


「えっ、でも三年生は卒業ですよ? いいんですか、中村先生」


 訊ねるとすっと笑みを消して本性を現した。


「……生徒全員の希望」


 はーあ。とわかりやすくため息をつき、「あんたの人望にはかなわん」と弱く笑った。


 そんなわけで中村先生や一年の担任の先生たちと共に二年の教室に行くと、いつもは賑やかな生徒たちの声が今日はひとつも聴こえてこなかった。


 僕以外の先生は後ろの入口から、僕だけが前の入口から教室に入る。


 ゆっくりと開いた引き戸の先、そこには全校生徒がずらりと整列していた。静かな中、教壇に向かおうとすると黒板が色鮮やかなことに気がついた。


 そこにあったのは、様々な文字と絵と、そして真ん中には大きな太文字。



『ありがとう! 美音原中学校 響木組』



 さすがに、直視できなくなった。というか潤んで、歪んで、……見えなくなった。


「ヒビノ」


 梅吉の声は、力があったが震えていた。


 ぐっと痛む目の奥と喉をしっかりさせたくてひとつ咳払いをして、鼻水をぐずん、とすすり教壇へ進んだ。


「……おはよう。みんな」


 起立する42名を前に笑いかけたら、涙が零れて頬を伝った。


 約一年前のあの日、すべてはここから始まった。


 ──僕からみんなにひとつ、提案があるんだけど。


 ──目標は『全国大会金賞』! それも全校生徒で出場してだ。


 ──やるっ!


 今冷静に思い返せば、よくあんなぶっ飛んだことを言ったものだ。そして、よくそれに乗ってくれたものだ。


 ひとりひとりの顔を眺めると、ひとりひとりとの思い出が鮮明に甦った。楽器を演奏する真剣な姿が、甦った。


 はあ、と息をつく。「無理すんなよ」とナンプが笑った。つられてみんなが頬を濡らしたまま僕を笑った。


「最後くらいかっこつけさせてよ」


 情けなさに手で顔を覆いながらそう言うと、「ヒビノはそれでええんじゃ」と梅吉が言う。ああもう。追い討ちはよしてくれよ。


「ありがとう。ヒビノ」

 何度でも言うたる、と言われて参った。


「もう、泣かそうとしないでよ」


「泣いたらええ。そんなヒビノが、俺らは好きや」


「……くっはは」


 どっちが教師か、と笑いたいのに、もう堪え切れなくてぼろぼろと涙が頬を伝う。一生懸命に指で拭い、ぐじゅぐじゅの鼻水をすすって改めて仕切り直す。


「最後のホームルームを始める前に、ひとつ、謝らせてください」


 生徒たちが不思議そうに眺めてきた。


 言ったら怒るかもしれない。だけど、言わなければもっと怒るでしょう?


「……この、閉校式が終わったらすぐに、僕は昼のバスでここを発つことになりました」


 痛いな。こんなにも心が痛むのか。


「教育委員会へはいかない。たぶん、もうこの土地には戻って来ない」


「……え?」

 問いかける梅吉の顔を見ることは出来なかった。


「だから最後の本番、とびきりいい演奏で締めてよね」


「そんな」

「なんで」

「ヒビノ」

「なあ、おい」


 抗議や質問は受け取らずに「ごめん」とだけ答えて、あとを中村先生に任せて先に教室を出た。


 その場にうずくまって泣きたい衝動に駆られたが、なんとか抑えて足を進めた。



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