#93 断れない
楽屋にていちばんにお礼を言ってきたのはやはり西野さんだった。
「無事に終えられて本当によかった。いい演奏だったよ」
「本物のスーパーヒーローですね。響木先生。たぶんアマ高のみんな、惚れちゃったと思いますよ」
冗談でも頬を赤くした女子高生にそんなことを言われてしまっては教師としては困惑する。苦笑いをして「ありがとう」とだけ返しておいた。
その時彼女の電話が鳴り出し「すみません」と会話は終わって助かった。
電話といえば。そうだ、美咲先生にも連絡しておかないと。
取り出して画面を見ると先に相手からメッセージを受信していた。
『先に帰りまーす。女子高生たちと戯れておいでスケベ響木』
侮辱にも程がある。労いのひとつもなしか。
返信を打とうとしたところで「聞いてくださーい」と出入口で西野さんが手を挙げていた。
「今、松阪先生から連絡があって、……第一子女の子、無事にご出産されたそうですーっ!」
歓喜の悲鳴が部屋に溢れた。
すると騒がしい中で今度は僕の電話が鳴り出した。慌てて廊下に出て通話ボタンに触れる。相手は察しの通り松阪先生だった。
『響木先生、本当に本当に、本当にありがとうございました……』
涙声にたじろいだがまあ気持ちはわかる。
「いえ。生徒たちがしっかりと演奏してくれたのでなんとか無事に終えられました。まあ僕もアマ高には恩返しがしたかったのでこんな形でもお役に立ててよかったです」
そう話すと松阪先生は恐縮しつつも『では甘えついでに……』と追加注文を発注してきた。
「……はい、みなさん聞いてくださーい」
賑やかな楽屋の部員たちにそう声をかけた。
「今松阪先生から撤収、反省会と打ち上げまでの指示をもらいました。楽器が片付いた人から搬出作業をお願いします」
「はいっ!」
切り替えが早いのはいい部の証だ。
楽器運搬用のトラックの所へ向かおうとすると西野さんに声を掛けられた。
「打ち上げまでお付き合いいただけるんですか!?」
なんて嬉しそうな顔をしているんだ。
「ごめん。6時のバスには乗らないと」
明日は学校。長居は無用だ。
「そうですか……」
なんて悲しそうな顔をするんだ。
「まあ……。バスに間に合いそうなら少しだけ」
流されやすいのはやはり僕の短所だ。
「定演おつかれさまでした! かんぱーい!」
高校生の打ち上げ、どんな店でやるのかと思ったら意外にも古い喫茶店だった。
「毎年定演の打ち上げはここって決まってるんです。貸切で22時まで」
「22時!? 高校生でそれダメでしょ」
「ちゃんと保護者に迎えに来てもらう約束なので……大目にみてください」
僕に上目遣いをされても困る。誰か大人が最後まで付き添うべきだろうと思っていると西野さんがカウンター内にいる太めの紳士を示して「マスターが責任持ってくれるとのことなので」と念押ししてきた。
「響木先生、今日は本当にありがとうございました。もう本っ当ぉ、に助かりました。……ね? 美郷」
心持ちテンション高めの西野さんにそう話を振られた学指揮の石川 美郷さんは何度も激しく頷いた。首が取れそうだ。
「響木先生おらんやったら私……、たぶん死んでました、ほんに。想像しただけで気絶しそう」
かわいらしい雰囲気のこの生徒は大袈裟に言う癖があるらしい。クラリネットの演奏中とはまた雰囲気がちがって感じる。
松阪先生は朝から具合が悪そうで、部員たちが心配したがそれでも「大丈夫」と言って聞かなかったらしい。しかし直前のリハの途中で「ごめんだめ産まれそう」という衝撃的なひと言を残して救急搬送されたそうだ。
取り残された部長、西野さんは呆然としつつもとにかく必死であちこちに連絡をした。しかし急すぎる代役はやはりすぐには見つからない。迫る本番、見える絶望。こうなれば学指揮の石川さんと学指揮経験者である卒業生の三年生、あの時たまたま僕のチケットを切ってくれた香川さんとで協力して乗り切るしかない、との結論に至りその旨を伝えに来たところで、奇跡のように僕と出くわした、ということだった。
「役に立ててよかった。ほんと、いい演奏会だったよ」
言いつつ立ち上がろうとすると西野さんがぴくりと反応した。
「え。まさか、もう帰るんですか!?」
時刻は午後5時45分。そろそろ出ないとバスに乗れない。
「ごめん、帰らないと」
苦笑いすると女子高生たちは盛大にブーイングをしてくれた。
「まだお礼できてないやないですかあ」
石川さんはどこの嬢か、というような引き止め方をして西野さんになにか目配せをする。するとそれを受けて頷いた西野さんは店の奥に向かった。
あまりいい予感はしないがここで逃げて帰るわけにもいかない。
ほどなく満面の笑みで泡立つ黄金色のデカいジョッキを持って出てきたその姿に……早くも頭痛がした。
「私たちからの『お礼の気持ち』ですっ! 受け取ってください、響木先生っ」
これほど断れない酒はない。ああ。
少し、迷った……。だけどすぐに帰るし、断ってせっかく盛り上がっている場の空気を濁すこともしたくはなく、僕はその泡立つ黄金色の液体を体内に流し込むことを決めたのだった。
「……う、うん、ありがとう」
喉を通る苦味に大学時代の苦い記憶が甦った。『指揮者の響木くんに会いたーい』『飲まなきゃ「響木」じゃないから!』悪意の有無より相手のその行動自体にどれだけ憤ったことか。
「すごい! えっ、一気飲み?」
「意外と男らしい」
「『意外と』は失礼でしょ」
「あれ、響木先生?」
「……ああ、それじゃ」
空けたジョッキを西野さんに押し渡すと急いで店を出た。気づかれるのも嫌だし、油断すると今日の演奏のダメ出しを始めてしまいそうだった。
ちょうど来たバスに乗り込むと、込み上げるゲップを堪えて俯いた。




