#103 子どもではない
『ヒビノはスペシャルゲストやからな。幹事は俺に任せて、当日までは大人しくしとってくれ』
ナンプにそう言われた僕は、ミト中の誰かをサプライズで訪ねたりすることは控え、これまでのように本業に徹して日常を過ごしていた。のだが。
「先生、なんか最近ご機嫌ですね?」
「え。そう?」
うんうん。と部長と学指揮の二人に揃って深く頷かれてしまった。
「なにかいいことでもあったんですか?」
「いや。でも……これからある、かな」
「楽しみなことがあるんですか?」
「まあ、そうだね」
「プライベートで?」
「うん、まあ」
「え! それって」「それって!」
女子高生二人が顔を見合せ手を取り合ってキャッキャと跳ねる。な、なんだ?
「おめでとうございます!」
「な、なにが」
座った姿勢のまま仰け反るようにして問うと、二人の女子高生たちは「へ?」「あれ?」と同じように固まった。
「奥様、二人目ご懐妊、じゃ……?」
はあ!? と珍しく大きめの声を出してしまった。なんでそう思われたんだ。
「ちがうちがう! いや、じつはね────」
大きく否定をしたついでに、僕の吹奏楽部顧問人生のはじまりの話を、なんとなく二人に話して聞かせた。
ど田舎中学への赴任、無理やりの創部、部員集め、合宿。
思い出しながら、ぽつり、ぽつりと。
儚く散った、初めての夏。
立ち直って、文化祭。
改めて、なんて濃い日々だったのだろう。
危なっかしく、交流会。
異動が決まって、悩み、決意して。
迎えた、閉校式。
轟いた、最後の一音。
「その時の生徒たちと、今度ね。閉校式ぶりに集まることになったんだよ」
過去に飛ばしていた意識を、現在に戻す。あれ。目の前の生徒たちが号泣していて驚いた。
「……すご、すごすぎです、あ……熱すぎです、せんせっえ」
「なんでキミたちが泣くの」
「だあってぇー」
わんわん泣かれてしまい苦笑いをしながらなだめた。
「楽しんできてくださいね。またお話聞かせてください、ぜひ!」
ありがとう、と部屋を出ていく彼女たちを見送った。
『校舎への立ち入り許可もろてるから。生徒用の昇降口から普通に入って。二年の教室に集合で』
前日の夜にナンプからこんな連絡があった。宴の会場は天ぷら〈たちばな〉だと聞いていたが、まさか校舎に入れるとは。
ならば教師らしく生徒たちより少し早めに到着しておこうかな。ナンプに伝えると、快く許可してくれた。
空は晴天。風は微風。
懐かしいその校舎は、かつて通った頃よりいくらか色褪せて、噂通りそのあちこちに老朽化が痛く目立った。
校舎の周りを歩いていると、保健室の大窓の鍵が壊れたままなのに気が付いた。これはたしか久原くんの仕業だったな。懐かしく思いながら試しに手をかけると、カラ、と軽く開いた。
直してなかったんだ、とたまらず口角が上がる。
持参したスリッパに履き替え、そうっとお邪魔した。出入りは昇降口からという話だったから忍び込んでいるような気分だ。
校舎内は薄暗くしんとしていて、懐かしいような、埃っぽいような香りがした。
迷いなく二階の二年の教室へと進む。集合時間の30分前。当然まだ誰もいない。
机や椅子は撤去されたらしく、昼下がりの日光に照らされるそこは古びた木の床と黒板以外はなにもなかった。
──ヒビノおはよー!
──ひゃは、寝癖すごいで。
──うわうわ筆箱わすれた!
──あほー
ふいに過ぎし日の幻を見た。驚いて瞬きをすると、十二年前の風景は跡形もなく、そこにはただガランとした空っぽの教室があるだけだった。
弱く苦笑して黒板へと視線を移す。そこにはあの日見た絵と文字がそのまま、少し薄れて残っていた。
『ありがとう! 美音原中学校 響木組』
また少しの間見つめてから、窓際に移動してすべりの悪い窓をよいしょ、とスライドさせる。再び黒板の正面に戻ると、床に置いていたケースからトランペットを取り出した。
軽く音出しをして、それから改めて黒板に向かってゆっくりと息を吹き込む。
演奏するのはもちろん『美音原中学校校歌』。
感謝と、そして僕なりの弔いの意を込めて。
最後の一音を鳴らし終えて静寂が戻ると、後ろ側の出入口の方からジュルリと鼻をすする音が聴こえた。ずいぶん早く到着した生徒がいたようだ。
振り向くと、若い男性がいた。
身長は僕と同じくらいで、歳は二十代前半といったところか。線は細いが筋肉はありそうだ。肌の色も健康的。人のよさそうな顔はジムのインストラクターっぽい雰囲気もある。
……って、この顔、まさか。
「うそ、さく坊?」
「…………あ、はい」
声の低さにまた驚く。さく坊!? あの小柄なさく坊!? とパチクリしながら近づいた。
「ヒビノ先生、ぜんぜんお変わりないですね。はは。お若いまんまや」
「……いやぁ。さく坊は男前になったね。なに、鍛えてるの?」
腕に触れてみると本当にたくましかった。
「はい。警官になりました」
言いながらやんわりとする敬礼がなかなかサマになっていた。そうだ。この前中村先生からその話は聞いていたんだ。
「そうか。立派になったね」
「まだまだヒヨっ子ですよ」
話すうちに懐かしい顔がどんどん増えて、教室は、というか僕の周りはあっという間に大混雑になっていた。
驚いたことに何人かは小さなお子さん連れだった。そうだよな。もうそのくらいの歳なんだ。
「え。真知さん、その子は……」
「あ……はは。いややわ、ほんにそっくりで。言わんでもバレるよって、ええような悪いような」
苦笑いで答える真知さんが抱っこしていた男の子はなんと久原くんにそっくりだった。ということは……と思うが二人は夫婦ではないという。ええー。この件の真相は掘ってはいけないように感じて「そうなんだ」とだけ返す。
すると横から当の本人、久原くんが何食わぬ顔で現れるからまた驚いた。どうやら真知さんとは気まずい関係、というわけではないらしい。
「よおヒビノ。あんたはほんまぜんぜん変わらんのー」
そういう彼は中学時代の金髪は見る影もなく、黒髪に細メガネ、そして腕時計をしたワイシャツ姿というずいぶんキッチリした出で立ちだった。
「久原くんはずいぶん変わったね」
「うわ、誠司兄!? 別人やん!」
僕の横から梅吉が叫ぶように言う。この二人の再会も十二年ぶりなのだろうか。
「仕事のかっこや。抜けてきたから」
「え、仕事なに?」
「アマ高のせんせ」
「アマ高!? せんせ!?」
「転任したんだ?」
僕が訊ねると「ああ」と頷く。
「真知との間にガキんちょが生まれたからな。世話したいもん無理くり転任さしてもらった」
「は……相変わらず破天荒だね」
それでも真知さんと入籍しない理由は……? まあいろいろとあるんだろう。
「部員一名の吹奏楽部はどうなったの?」
たずねてみると元不良の破天荒教師はニッと笑んで指を四本立てる。
「よん……?」
「四十や。四十人まで増やしたった。だからもう大丈夫やろち思うてな。俺が抜けても」
はは? どこかで似たことをした教師が昔いた気がした。この学校に。
その中、パンパンっ! と二度手を打つ音が響く。
途端に静まるのが我々吹奏楽部の習性だ。
「はいみなさんー。お久しぶりですの人も毎日嫌ほど会おとるわちう人も、積もる話は後ほど『天ぷら〈たちばな〉』さんでやるとして。この場では今日、最後としてこの旧校舎の弔いをしたいと思いますー!」
仕切るのは幹事のナンプだ。
そして元生徒たちは、黒板に、僕に向かって学年別に整列をした。
「ちゃんと覚えよらん人のために、歌詞のカンペも用意してきたからな」
言いつつナンプが目配せをして、梅吉が隅に丸めて置いてあった模造紙を広げた。近くに寄って僕も手伝う。
「誰も忘れてへんやろ」
「ちうか手書き?」
「いや字、汚いなあっ」
容赦なくあれこれ突っ込まれて梅吉が「うっさい!」と噴火する。横で僕は噴き出す。うは、いちいち懐かしい。
「はい、ほんじゃあ、ここからは我らが指揮者の響木先生に仕切ってもらおうと思いますー! ヒビノ、ええ?」
ああ。と僕は頷いた。
用意していた指揮棒を手にして、全員の前、中央に立つ。
見渡すと顔はどれも懐かしく、ん? はは。なぜだかどんどん若返っていくように見える。十二年の年月が、あっという間に巻き戻る。
「せっかくだから前奏からいこうか。自分の楽譜、おまえら歌える?」
曖昧に頷いてくるから笑ってやった。「梅吉」
「えっ、はい!」
戸惑いながら呼ばれて喜んでいるのが伝わってくる。たく、ほんっとに、かわいい奴め。
「合奏の基本はなにからだ?」
「チ、チューニングから、です」
「その通り」
歌だからって手を抜いたりはしない。やるからにはキチンと。それが俺流だ。
仮置きしていたケースからトランペットを取り出して自ら『B♭』の音を鳴らす。
合わせるように、全員が声を重ねた。
「ん。ここで粘っても仕方ないからオッケーです」
ちなみにこの『タクト』状態の響木は今受け持っている現役生徒たちからは『鬼響木』『鬼モード』などと陰で呼ばれ、相変わらず恐れられている。
「ほんじゃ頭からいきます。リハは不要だな? ぶっつけ本番でいい演奏してくれますか」
「「はいっ!」」
声が太くて思わず噴き出す。
すっかり大人になりやがって。
微笑んで、ピ、と挙げた指揮棒を────軽快に動かした。




