#99 美咲ではない
◇
部活顧問としていちばん吹奏楽と関われたのは大学時代、母校であるアマ高の教育実習生の頃だったかもしれない。もっともあの頃はまだ社会を舐めた子どものままで、指導も卒業生に毛が生えた程度だっただろうが。
正式に教師として高校に赴任してからはそんな暇もチャンスも誠司には与えられなかった。希望など論外と突っぱねられ、雑務と勉強に追われるだけの日々。これが現実か、と憤りつつも、『あいつ』かて開花するのに五年もかかったんや、と自分を無理くり宥めた。
もがくように耐えて教師歴は三年。赴任二校目で運良く吹奏楽部顧問の座を得たものの、部員はたったの一名。しかも部は女帝と呼ばれる教頭から目をつけられて廃部寸前という状況だった。しかし誠司は落胆などしなかった。
「おもろいやん」
どこぞの誰かさんと似た環境に自然と笑みがこぼれた。
そんな元不良教師のもとに、ある耳よりな情報が舞い込んだのはつい先日のことだった。
それはこの十年、誠司が諦めずに探しに探し続けてきた、一生かけてでもどうしても欲しかった『あるひとりの男』に関する情報だった。
◇
鼓膜を震わせる美しい音の波。幾重にもなる管楽器の旋律は今日だけでも何度も聴いたフレーズだ。もっと細かに感じ取ろうと目を閉じたところで突然大音量のべつの流れが妨害してきた。
慌ててイヤホンを外す。デスクの電話が鳴っていた。
受話器を取ると「先生に外線ですよ」と事務員さんに告げられて僕は簡潔に礼を述べた。外線か。またやったかな。
つい先日外線を使って美咲から保育園迎えの依頼を受けたところだったから、今回もそうかと勝手に思ったわけだ。
スマホに連絡してほしい、と言いたいところなのだが、それは既に二桁に及ぶ回数行われたあとなのだろう。
前回もそうだったから。
いやはや。『携帯電話』が聞いて呆れる、とは昔から言われるほうではあったが。
「もしもし」
お決まりの「やっと通じた!」という怒声に身構えていたが、受話器からそんなおっかない音はまったく出てこなかった。
というより、数秒無音だった。
え、なんだこれ? そう受話器を耳から外しかけたところで、聴こえた。
「やっと見つけたわい」
ハッとした。
耳から伝わるそれは、脳に届いて、田舎の音と匂いと景色を僕の中に瞬時に呼び覚ました。
稲の揺れる音、風の匂い、広がる田畑。
草のざわめき、花の匂い、葉の青さ。
トンビの声。煮物の香り。山端に沈む陽の光。
拙い楽器たちの音色────。
懐かしい。それがまず最初の感想だった。懐かしい。低いこの声、クセのある訛り、話し方。
すぐに相手が誰なのかを察したが、僕は黙って続きを待った。
「僕が誰かわかりますか。先生」
大人びた質問に不覚にもドキリとさせられた。
わかるさ。わかるとも。わからないはずないでしょうが。それにしても。
「よくここがわかったね」
はじめから一着は梅吉か彼だろうと思っていた。やはりそうだった。口角が勝手に持ち上がってしまうのをどうにもおさえられない。
「久しぶり。久原くん……いや、久原先生、と言ったほうがいいのかな?」
驚かされてばかりいるのも格好がつかないかと、そんなことを言ってみた。相手は「へえ」と笑ってくれる。中学時代の金髪姿が目に浮かぶが、当然今はまったくちがう姿なんだろう。
「高校の先生になったんでしょう。日本史の」
「よう知っとんな」
「異例だらけの問題教師って」
からかってやると「いらんことまでよう知っとる」と大人びた声音で返してきた。
「自分のことは一個も晒さんと、他人のことはぜぇんぶ知りよるちわけか」
ああ、なるほど。結構怒っているんだな、と理解した。
「……謝るつもりはないよ。僕は最善だったと思ってるからね。当時も、今も」
行方を美咲以外の誰にも明かさなかった。その上、新天地にした高校では資料や情報のすべてにおいて偽名を使わせてもらった。顔写真も控えて、僕は徹底的に身を隠していた。
相手が黙り込んでしまうから、僕も無言で自分のデスクを眺める。
音源をとめていなかったことに気がついて、そっと停止した。
パソコンの横には総譜が三冊。絡まるイヤホン、先程提出されたばかりの部活動日誌にシャープペン、赤インクのボールペン、付箋、それから振り分けられるのを待つ雑多な楽譜と参考CDの数々。
もう少し整理整頓を覚えないとな、とは常々思っているのだが。
「俺が最初?」
「ああ、そうだよ」
楽譜に埋もれてチラと黒い顔を出しているのは指揮棒ケースだった。もう長年使用して、色褪せて角もずいぶん擦り切れている。
「梅吉は」
「……まだ」
短く答えると久原くんも「ふぅん」と返すだけだった。そうだな。彼は要らぬ世話は焼かない。そういう人だ。
「吹部の正顧問になったんよ。この春」
「久原くんが?」
「そう」
ほう。それは知らない情報だった。
「どう?」
軽く訊ねてやると、相手はくつくつ笑う。肩を揺らす姿が目に浮かぶ。懐かしいあの笑い方だ。
「部員一名からの……大逆転」
「え」
「まあまだまだ、発展途上やけどな」
へえ。驚いた。なにやら楽しそうなことをしているらしい。
「だから。いつぞ約束したコンクールや、まして全国なんいうんはまだまだ先のことになるじゃろな」
全国────か。
「ヒビノ」
懐かしい、あまりに懐かしい呼び名にたまらず笑んだ。「なに」
「なんで長袖なんか、わかった」
「……へぇ?」
突拍子もない発言に情けない声が出た。そういえば彼相手に話をするとほとんど毎回こんな声を上げるハメになっていたなと今更思い出してまた懐かしい。
「聞いたことあったじゃろ、昔。『なんでいつも長袖なんや』ちて」
言われてみれば、あった気もする。僕はなんと答えたんだったかな。
「寒いな。職員室ちうんは。とくに人のおらん朝の早うや夜の遅う。夏のほうが余計に寒い。そんで、古い校舎ほど寒い。エアコンが狂いよんじゃ」
笑ってしまった。そうかもしれない。職場はとっくに『古い校舎』ではなくなったが今でも僕は年中長袖のワイシャツだ。
「早朝や深夜に学校にいるんだ」
からかうように訊ねてみると相手は「まあな」と言って鼻でわらった。「奉仕とか償いやな。もはや」
「若いからって無理はしないでね」
気遣って言ったのに「あんたに言われたないわ」と返されてしまった。たしかにそうか。
「……なあ」
「響木先生えー!」
久原くんの声に重なって僕の部屋である音楽準備室の出入口から誰かに呼ばれた。反射的に振り向くと、受話器のコードに釣られて電話機がカタコトと動く。
「あっ、お電話中でしたか、すみません!」
色白ノッポのファゴット奏者の彼女は現部長だ。さらさらのポニーテールを振り回すように頭を下げて謝罪してくる。
僕は「いいよ」と「ちょっと待ってて」を手で示した。
「お忙しいみたいですねぇ、先生」
大人になった久原くんが電話口からからかってくる。
「よしてよ」と返すもそろそろタイムリミットなのはお互い感じていた。
「そうそう、三年連続『金』ちて。記事読みました」
「敬語やめて」
「しっかり教育されたもんでね」
「あの不良が?」
「そう。あの不良やった僕がです」
くつくついう笑い方は当時のままなのにな。
「そんなすごい響木先生に、ひとつだけ聞いてもええですか?」
一瞬わからなかったのは面目無い。一拍ののち「ああ」と合点してすぐ指揮棒ケースに手をのばす。持ち上げた拍子に雑にデスクに載っていた楽譜がはらはらと床へ舞った。
「なりました?」
「…………あんね。こういう使い方すんのはもう美咲くらいだから。ほんと勘弁してよ」
ほら。部長が唖然とした顔でこっち見てんぞ。
「先生。人数が揃いよんのにコンクールに出ん、ちうの、どう思います?」
少し、黙った。いきなりなんだ。
「俺は。全国目指してこその吹部とずっと思いよったんです。なんとなし、高校野球みたいに。人数の関係でコンクールは無理でも、せめてアンコン、って」
なるほど。
「意見変わったの」
「出たない、そんなために楽器しとらん、ちてホザくアホがおって。強引に丸め込もうかとも思たやけど、ふと思ったんです」
──評価とはなんや、と。
「野球みたいにはっきり勝ち負けが見えるもんやない。明らかなミスはそら減点なんはわかるけど、そもそも一定レベルを超えた『音楽』に点数なんか……つける必要ないやろ」
ふむ。随分タイムリーな話題を出してきたな。もちろんわかっていて言っているわけではないのだろうが。
ここ数日、ずっと考えていたことだった。
三年連続『金』。当然今年も狙うものと誰もが信じている。他でもない生徒たちがそれを望み、俺の指導に期待している。
わかっている。
だけど。
それがすべてか?
連続が続くぶんだけ生徒たちにかかるプレッシャーは重くなる。名門となれば各地から実力者が入部したいと集い、出場人数の上限を軽く超える。当然メンバーやソロを決める部内オーディションも一層激化する。
みんなが上手い。ほとんどない差。体調や楽器のコンディション、運。そんな些細なことで命運がわかれ弾かれるのは、プロだけでいいんじゃないのか。
光の裏には、必ず影ができる。
部の『勝ち』のために一生残るような傷を、まだこれからという若い高校時代に、あえて作る必要は本当にあるのか?
「…………久原くん」
指揮棒ケースを、そっと閉じながら僕は話した。部長からのまっすぐな視線を感じながら。
「今年、うちはコンクールに出ないつもりでいるんだ」
部長が息を飲むのがわかった。そう、これはまだ生徒たちに伝えていないことだ。
「コンクールがすべてじゃない。だけどそれを生徒たちに説明するのはとても難しい。反発が起きる可能性も低くない。でも。僕は────」
「〈音を楽しんで。音を楽しませて〉か」
電話越しにふいに聴こえた懐かしい呪文に、思わず目が潤んだ。まったく、最近ますます涙脆くなって参る。
「『エル・クンバンチェロ(バカ騒ぎをする奴ら)』。たしかに『音楽』ちうんは、楽しんでなんぼのもんやわな」
はっとしてから、ふっと笑った。
「生徒たちに埋め合わせはもちろんするつもりだよ。編曲や指揮もより本格的に教えるつもりだし、舞台演出なんかに力をいれてもきっとおもしろい。久原くんもそっち方面は抜群だったじゃない」
「……懐かしいなぁ」
「バカで、楽しく、陽気。音楽好きが集まる部活。それが本来の『吹奏楽部』のあるべき姿だと、僕は思うんだよ」
「炎上しそう」
「……よしてよ」
「でも。わかる。あんたってそういう奴や」
「褒めてる?」
「さてね」
「来年以降のコンクール出場は、生徒たちに決断を任せようと思ってる。『ゴールド金賞』の人生における価値を、今一度真正面から考えてもらいたい」
ねえ、もしもあの時、ミト中が『金賞』を獲っていたら────キミはここまで吹奏楽を愛さなかったんじゃない?
「…………敵わんな」
「ええ?」
ふは、と大きく笑われてどうしたものかと困る。
「また勝ち逃げか」
「そんなつもりは」
「けど」
「……」
「下手に『全国大会で待つ』とか言われるより、よっぽどええわ」
そうして彼は「ヒビノ」とまた僕を呼んだ。
「相変わらず、出世逃すようなやり方ばっかしよんやなぁ」
くつくつ笑われて悔しくも少し嬉しい。負け惜しみにこう返した。
「『バカ』でいいんだよ。音楽人は」
キミも『バカ』でしょ。それも『大』が付くほどの。
とはいえ未だ多くの中学高校がコンクール至上主義である以上、僕のこの決断に対して批判的な意見は必ず出ると思う。「炎上しそう」と久原くんが言うように。でも生徒たちの未来を守れるのなら、僕たち顧問は恨まれたってべつにいい。
彼らが持つのは二度と楽器に触れられないほどの『トラウマ』ではなく、『大人の理不尽への悔しさ』でいい。バネにして飛躍してくれたら、それが一番いい。
じゃあね、と受話器を置いてから、そのままずるりと散らかったデスクに突っ伏した。部長がギョッとしているのが気配でわかる。それでも顔をあげることはできなかった。
やがて笑いが込み上げ、くつくつと揺れ続ける僕の肩。ああ、堪えようにも堪えられない。可笑しい。じつに可笑しい。
まさかこんな突然に、思いもしない相手のおかげでここ最近の悩みが一気に解決するとは。そのうえ『明かす』手間まで省けてしまった。
「先生……」
部長の声に笑いをおさめた。
「……ごめん。こんな形で伝えることになってしまって。でも信じてほしい。必ずコンクール以上の、最高の思い出をプレゼントするから。それも、一人も漏れることなく、部員全員に」
『正解』なんてない。だけど己が信じる『最善』ならあると、僕は思う。
……にしても。
ついにバレたか。ついにこの日が来たんだ。
いつか、そこの扉を、僕のいる音楽準備室の扉を、バーンと開けて来るんじゃないか、といつも心の隅で思っていた。
──ヒビノ!
坊主頭か、金髪か、あるいは真面目なスポーツ刈りか。
自分から絶っておいて期待するなんて、じつに勝手な話だが。
十年。そう。もう十年だ。
彼の地はそろそろ田植え、そして野バラの咲く頃だろう。
淡く白む空には、トンビが 緩く円を描いて飛んでいるはず。
──はじまりは澄んだCの音。
古校舎のぼやけた鐘の音。鳥の声。
天ぷらの匂い。
夕空のカラス。
懐かしいな。
そろそろ、僕自らがこの扉を開くべき頃なのかもしれない。




