第33章 午後四時半の町
目覚ましが鳴ったのは、午前五時半だった。
紡は音を止め、しばらく天井を見つめた。
窓の外は、まだ夜の色を残している。
今日が初めての時差出勤の日だと気づいた途端、眠気の奥に小さな緊張が生まれた。
午前八時から仕事を始める。
午後四時半に会社を出る。
カレンダーへ予定を入れた日から、何度もその時間を想像してきた。
けれど、実際に朝を迎えると、いつもより早く起きるという単純なことさえ、少し特別に感じる。
紡は布団から出て、カーテンを開けた。
遠くの空が、わずかに白み始めている。
建物の窓には、まだほとんど灯りがついていない。
町が目覚める前の静けさ。
普段なら、眠っている時間だった。
洗面台で顔を洗い、髪を整える。
朝食は前日の夜に準備しておいた。
小さなおにぎり。
ゆで卵。
味噌汁。
慌てないようにと思っていたのに、時計を何度も確認してしまう。
遅刻してはいけない。
初めて制度を使う日に失敗したくない。
その気持ちが、普段以上に紡を急がせた。
味噌汁を飲みながら、紡は深い青色のノートを開いた。
今日のページには、昨夜書いた一文がある。
「午後四時半からの時間を、すぐに予定で埋めない」
図書館へ行こうか。
カフェで文章を書こうか。
花屋の前を通ろうか。
商店街を歩こうか。
何度も考えた。
けれど、まだ決めていない。
早く帰れるのだから、有意義に使わなければならない。
そう思い始めるたび、美咲や花屋の店員の言葉を思い出した。
何もしなくてもいい。
余白に慣れるまで、時間がかかる。
紡はノートに短く書いた。
「まず、午後四時半の町を見る」
それだけを、今日の予定にした。
家を出ると、空気は思っていたより冷たかった。
駅へ向かう道には、人がほとんどいない。
新聞を配る自転車。
犬を連れて歩く人。
コンビニの前で配送用の箱を運ぶ店員。
シャッターの閉じた商店。
見慣れた道なのに、違う場所のように見えた。
花屋の前を通ると、店の灯りがついていた。
シャッターは半分だけ開いている。
店員が花の入った箱を抱え、奥から出てきた。
紡に気づき、少し驚いたように笑った。
「おはようございます。本当に早いですね」
「今日が初めてなんです」
「例の、早く働いて早く帰る日ですか?」
「はい」
「どうですか、早起き」
「まだ少し眠いです」
紡が正直に答えると、店員は笑った。
「最初はそんなものですよ」
店先には、まだ値札のついていない花が並んでいた。
新聞紙に包まれたままの花。
水を吸わせる前の茎。
これから一日分の姿に整えられていく途中だった。
「朝は、花もまだ準備中なんですね」
紡が言うと、店員は頷いた。
「そうなんです。お客様が見る前に、かなりやることがあります」
一本の花を取り出し、茎の先を切る。
余分な葉を落とし、水の入ったバケツへ移す。
手の動きに迷いがない。
「きれいに並んでいるところしか見たことがなかったです」
「店って、だいたいそうですよ。開く前の方が散らかっています」
店員は笑いながら、空になった箱を畳んだ。
「でも、この時間も嫌いじゃないです。誰にも見られないうちに、一日を作ってる感じがするので」
誰にも見られないうちに、一日を作る。
その言葉が、紡の中に残った。
発信する文章も同じかもしれない。
投稿された写真や言葉だけを見れば、きれいに整っている。
けれど、その前には、迷い、削り、書き直し、公開しないと決める時間がある。
誰にも見られない準備が、その一つを支えている。
「行ってらっしゃい」
店員に言われ、紡は頭を下げた。
「行ってきます」
自分の口から出た言葉が、少し新鮮だった。
空いている電車に乗る。
座席には余裕があった。
いつものように人と人の間で体を小さくする必要がない。
紡は窓の近くに座り、流れていく町を眺めた。
朝の光はまだ弱い。
ホームに立つ人の顔も、いつもより少し眠そうだった。
通勤の時間が違うだけで、こんなにも体が楽なのかと思った。
座れたこと。
人の肩に触れないこと。
駅の階段を急がなくていいこと。
小さな違いが、会社へ着く前の疲れを減らしている。
午前七時四十分、紡は会社に着いた。
フロアには、まだ数人しかいない。
照明の一部だけがついている。
いつもは人の声や電話の音が混じっている場所に、空調の低い音だけが流れていた。
自分の席に座り、パソコンを起動する。
画面の明かりが、静かな机を照らした。
午前八時。
紡は勤怠を入力した。
初めての時差出勤が始まった。
少し身構えていたが、仕事はいつもと変わらない。
メールを確認する。
今日の予定を見る。
資料を開く。
ただ、周りが静かな分、考える仕事が進んだ。
先週から手をつけていた研修資料の修正。
細かい言葉の統一。
初めて読む人が迷わない順序。
いつもなら電話や質問で何度も手を止める。
今日は、ページが途切れずにつながっていく。
午前九時を過ぎる頃には、迷っていた部分まで整えることができた。
紡は時計を見て、少し驚いた。
一時間で、こんなに進むとは思わなかった。
制度を使うことに対して、どこかで仕事を減らすような罪悪感を抱いていた。
けれど、時間をずらしたことで、むしろ集中できている。
自分に合う働き方を探すことは、仕事から逃げることではない。
そう思えることが、嬉しかった。
九時半を過ぎると、出社する人が増え始めた。
フロアに足音や挨拶が重なっていく。
真帆も出社し、紡の席へ来た。
「おはようございます」
「おはよう」
「早い時間、どうでしたか?」
「思ったより仕事が進んだ」
紡が答えると、真帆は机の上の資料を見た。
「もうここまで終わったんですか?」
「静かだったから」
「いいですね」
真帆は少し羨ましそうに言った。
「真帆さんも制度は使えると思うよ」
紡が言うと、真帆は首を傾げた。
「私でもですか?」
「確認は必要だけど、制度だから。興味があるなら、相談してみたらいいと思う」
真帆は少し考えた。
「朝は苦手なので、遅い方がいいかもしれません」
「それもありだと思う」
早く働くことだけが正しいわけではない。
人によって、集中できる時間は違う。
紡には朝が合うかもしれない。
真帆には、少し遅い時間が合うかもしれない。
同じ形へ合わせるのではなく、それぞれが続けられる流れを見つける。
それも、働き方の一つなのだ。
午前中は順調に進んだ。
十一時過ぎ、上司から資料について声をかけられた。
「朝のうちに修正したの?」
「はい。静かな時間に進められました」
上司は資料を見ながら頷いた。
「時差出勤、合ってるかもしれないね」
「私もそう思いました」
言葉にすると、少し嬉しかった。
「ただ、まだ一日目なので」
紡が付け加えると、上司は笑った。
「慎重だなあ」
「続けられるか見てから決めたいです」
「それでいいと思うよ」
その答えにも、無理に結果を出さなくていいという余白があった。
一度試し、体調や仕事の流れを見る。
合わなければ直す。
制度を使った以上、必ず成功させなければならないわけではない。
選択肢は、試すことで自分に合う形へ変えていけばいい。
昼休み、美咲からメッセージが届いた。
『朝どうだった?』
紡は食堂の席で返信した。
『眠かったけど、電車が空いてて仕事も進んだ』
すぐに返事が来た。
『午後四時半の町を楽しんで』
紡は画面を見て笑った。
『何するかまだ決めてない』
『決めなくていいって言ったの、紡でしょ』
その通りだった。
紡はスマートフォンを伏せた。
昼食を食べながら、午後四時半までの仕事を確認する。
早く帰るからといって、焦って詰め込まないようにした。
今日終えるもの。
明日でいいもの。
退勤後に誰かが困らないよう、共有しておくもの。
それぞれを分ける。
午後三時、真帆と簡単な確認をした。
「今日、藤沢さんが帰ったあとに連絡が来たら、まず内容を見て、急ぎなら当番の方へ相談します」
「うん。明日でいいものは、私に残しておいて」
「わかりました」
「全部今日中に返そうとしなくていいからね」
紡が言うと、真帆は笑った。
「藤沢さんにも、その言葉返します」
「どういうこと?」
「今日は早く帰るんですから、帰る直前に仕事を全部終わらせようとしないでください」
紡は言葉に詰まり、それから笑った。
「気をつける」
真帆はよく見ている。
紡は早く帰る分、迷惑をかけないようにと、いつも以上に抱え込もうとしていたのかもしれない。
制度を使うことへの罪悪感は、まだ完全には消えていない。
だからこそ、何度も自分へ言い聞かせる必要がある。
早く帰ることと、仕事を放り出すことは違う。
明日に回せる仕事を、明日へ渡す。
それも流れを止めない方法だ。
午後四時。
紡は最後のメールを送った。
急ぎの内容ではない。
今日の対応状況と、明日確認する項目を簡潔にまとめる。
送信したあと、机の上を整えた。
あと三十分。
普段なら、ここからもう一つ仕事へ手をつける時間だった。
けれど今日は、新しい仕事を開かなかった。
明日の予定を確認し、必要な資料だけ揃える。
四時二十五分。
パソコンを閉じる。
周囲には、まだ多くの人が働いている。
席を立つことに、少しだけためらいがあった。
本当に帰っていいのだろうか。
何か声をかけられないだろうか。
誰かに、早いと思われないだろうか。
上司が紡の様子に気づいた。
「藤沢さん、今日はもう時間でしょう」
「あ、はい」
「お疲れさま」
何でもない言い方だった。
特別な許可でも、皮肉でもない。
勤務時間が終わった人へ向ける、普通の言葉。
紡は少し肩の力を抜いた。
「お先に失礼します」
「お疲れさまでした」
真帆も顔を上げる。
「お疲れさまでした。午後四時半の町、楽しんできてください」
美咲から聞いたような言葉に、紡は笑った。
「ありがとう。お先に」
午後四時三十二分。
紡は会社の建物を出た。
外は、驚くほど明るかった。
太陽は少し傾いていたが、空にはまだ昼の青が残っている。
普段、会社を出る頃には、ビルの窓に灯りが浮かび始めている。
今日は、道に長い影が落ちていた。
スーツ姿の人は少ない。
学校帰りの子どもたち。
買い物袋を持つ人。
ベビーカーを押す親。
自転車で走る高校生。
同じ駅前なのに、普段とは歩いている人が違う。
紡は立ち止まり、ゆっくり息を吸った。
一時間早く会社を出ただけ。
それなのに、知らない町へ来たようだった。
電車に乗れば、すぐに家へ帰れる。
図書館へ行くこともできる。
カフェへ入って文章を書くこともできる。
でも紡は、まず駅とは反対の方向へ歩いた。
会社の近くを、明るい時間に歩いてみたかった。
昼休みに通る道より、少し遠くへ。
細い路地に入ると、古い八百屋があった。
店先には、段ボール箱に入った野菜が並んでいる。
キャベツ。
大根。
小松菜。
赤いトマト。
店の奥では、白い割烹着を着た女性が値札を書いていた。
「今日はほうれん草が安いよ」
通りかかった客へ声をかけている。
客は自転車を止め、葉を一束持ち上げた。
「昨日より安いね」
「今日はたくさん入ったから」
そんな会話が聞こえる。
紡は少し離れた場所から、そのやり取りを見た。
野菜の値段は、毎日同じではない。
入ってくる量。
天気。
季節。
売れ方。
暮らしは、そういう小さな変化の上にある。
スーパーでは、値札だけを見る。
でも店先では、その値段にも会話がある。
紡は青いノートを出そうとして、やめた。
今日はすぐに記録しなくていい。
まず見る。
覚えておきたいことだけ、心の中に置く。
路地を抜けると、小さな公園があった。
遊具の周りを、子どもたちが走っている。
ベンチには、買い物袋を足元に置いた女性が座っていた。
隣には、小さな男の子。
女性は水筒のふたへお茶を注ぎ、男の子へ渡している。
男の子は両手で受け取り、一気に飲んだ。
「ゆっくり飲みなさい」
女性が笑う。
男の子も笑う。
何でもない夕方の光景。
でも、普段の紡は、この時間の公園を知らなかった。
会社の中にいたから。
見えていなかっただけで、毎日ここにあった暮らし。
旅へ出なくても、自分の知らない時間がある。
知らない町は、遠くにだけあるわけではない。
紡は公園の端をゆっくり歩いた。
子どもの声。
自転車のブレーキ音。
木の葉が擦れる音。
遠くから聞こえる宅配便の車のアナウンス。
どれも、午後四時半の町の音だった。
ベンチが一つ空いていた。
紡はそこへ座った。
バッグから水筒を取り出す。
朝入れたお茶は、少しぬるくなっていた。
一口飲む。
何かをしなければ。
そんな焦りが、まだ少し胸に残っている。
せっかく早く帰ったのだから。
投稿になるものを見つけなければ。
文章を書かなければ。
図書館で本を読まなければ。
でも、目の前では子どもたちが同じ場所を何度も走っていた。
目的地へ向かっているわけではない。
ただ、走ることが楽しいのだろう。
一人が転び、すぐに立ち上がる。
別の子が笑いながら手を差し出す。
紡はその姿を見ながら、今日はここに座っているだけでもいいと思った。
午後四時半の公園にいる。
それ自体が、今までの自分にはなかった時間だった。
しばらくすると、隣のベンチに年配の男性が座った。
小さな紙袋を持っている。
袋から、たい焼きを一つ取り出した。
甘い匂いが、風に乗ってわずかに届く。
男性はたい焼きを半分に割り、片方をそばにいた女性へ渡した。
「まだ熱いよ」
「ちょうどいいじゃない」
二人はそう言って、静かに食べ始めた。
紡は視線を外した。
見すぎてはいけない気がした。
誰かの暮らしは、記事のためにそこにあるわけではない。
偶然見えたものを、すべて自分の言葉へ持ち帰る必要もない。
今日ノートへ書くとしても、二人の細かな姿は残さない方がいいだろう。
ただ、午後の公園にはたい焼きの匂いがした。
そのくらいなら、自分の記憶として持って帰れる。
紡は立ち上がった。
時計を見ると、五時を少し過ぎていた。
まだ外は明るい。
一時間を有効に使ったという達成感はなかった。
何かを完成させたわけでもない。
でも、体の中に不思議な余裕があった。
仕事から家へ一直線に戻らず、途中に町の時間を挟んだことで、自分が会社員だけではなくなったように感じる。
会社を出たあとにも、まだ一日が残っている。
その感覚が嬉しかった。
駅へ向かう途中、たい焼き屋を見つけた。
公園で感じた甘い匂いは、ここから流れてきたのかもしれない。
小さな店の前に、数人が並んでいる。
紡も列の最後に立った。
焼き台から、湯気が上がっている。
型を開くたび、薄いきつね色のたい焼きが並んで現れる。
店員が端を整え、紙袋へ入れる。
順番が来ると、紡は一つだけ注文した。
「粒あんでお願いします」
「今焼けたところなので、熱いですよ」
店員が紙袋を渡してくれた。
受け取ると、手のひらに温かさが広がった。
紡は店の横にある小さな立ち食い用の台で、たい焼きを一口かじった。
皮がぱりっと音を立てる。
中のあんは熱く、思わず息を吐いた。
甘い。
どこか懐かしい味だった。
子どもの頃、母と買い物へ行った帰りに食べたことがある。
冬の商店街。
母が荷物を持ち、紡が紙袋を抱えていた。
熱いから気をつけなさい。
母はそう言いながら、自分のたい焼きを半分に割っていた。
記憶は、探そうとしないときに戻ってくる。
紡はもう一口食べた。
今度、母とたい焼きを食べてもいいかもしれない。
特別な旅でなくても。
実家の近くの商店街を歩き、昔のことを聞いてみてもいい。
母が若い頃、どんな店で買い物をしていたのか。
何を食べていたのか。
どんな夕方を過ごしていたのか。
それも、暮らしの記録になる。
すぐに書きたい気持ちが湧いた。
紡はスマートフォンを出し、たい焼きの写真を撮ろうとした。
けれど、途中で手を止めた。
もう半分食べている。
形も少し崩れていた。
きれいな写真ではない。
それでもいいのではないかと思った。
食べる前の完璧な姿だけが、今日の記録ではない。
熱くて、一口目に息を吐いたこと。
半分になってから母の記憶が戻ったこと。
それが今日のたい焼きだった。
紡は食べかけのたい焼きと、傾いた午後の光を一枚だけ撮った。
映える写真ではない。
でも、今の時間に近い。
駅へ着くと、電車は帰宅する人で少しずつ混み始めていた。
それでも、普段乗る時間よりは余裕がある。
紡は座席へ座り、窓に映る自分を見た。
少し疲れている。
朝が早かったから、眠気もある。
けれど、仕事だけで一日が終わらなかった。
そのことが、表情を少しやわらかくしている気がした。
部屋へ戻ったのは、午後六時前だった。
まだ夕飯を作る時間がある。
普段なら、会社を出たばかりの時刻。
紡はバッグを置き、着替え、台所に立った。
冷蔵庫には、豆腐と長ねぎ、しめじがある。
簡単な湯豆腐にすることにした。
鍋へ水を入れ、火にかける。
昆布を入れる。
温まるまでの間に、長ねぎを切る。
午後四時半からの景色が、頭の中にゆっくり戻ってくる。
八百屋。
公園。
たい焼き。
学校帰りの子ども。
まだ明るい空。
どれも、特別な出来事ではない。
でも、今日まで知らなかった時間だった。
鍋の水が揺れ始める。
豆腐を入れると、湯気が立った。
一日を早く始めたから、夕飯も少し早い。
湯気を見ながら、紡は母へメッセージを送った。
『今日、早く帰る日だった』
すぐには返事が来なかった。
紡は食卓に鍋を置き、一人で夕飯を食べ始めた。
湯豆腐を口に運ぶ。
温かさが、朝から動いていた体に染みる。
しばらくして、母から返信が届いた。
『どうだった?』
紡は考えてから返した。
『会社の近くを歩いて、たい焼きを食べた』
『それだけ?』
思わず笑った。
『それだけ。でもよかった』
少しして、
『それならよかった』
と返ってきた。
母も、それ以上は聞かなかった。
たい焼きを食べただけ。
でも、今日の紡には十分だった。
夕飯を片づけたあと、青いノートを開いた。
朝からのことを書く。
空いていた電車。
静かな会社。
仕事が進んだこと。
早く帰るときに感じたためらい。
午後四時半の光。
八百屋のほうれん草。
公園の子どもたち。
たい焼きの匂い。
母との記憶。
早く帰っても、すぐには休めなかったこと。
最後の一つを書いたあと、紡は少し考えた。
早く帰れば、ただ嬉しいと思っていた。
けれど実際には、何をすればいいのかわからない時間があった。
仕事をしていない自分に、少し落ち着かなさも感じた。
会社にいる間は、やることが決まっている。
メール。
資料。
会議。
確認。
でも、自分の時間には指示がない。
何をしてもいいからこそ、選ばなければならない。
その自由に、まだ慣れていない。
紡はノートに書いた。
「自分の時間にも、自分でいる練習がいる」
書いた文字を見つめる。
会社員としての時間は長かった。
求められる役割に応えること。
期限を守ること。
相手が必要とする形へ整えること。
それは少しずつ上手になった。
でも、自分のために時間を使うことは、まだ上手ではない。
何かを達成しなければ価値がないと思う。
書けなければ無駄だったと思う。
休めば怠けたように感じる。
その癖は、一度早く帰っただけでは変わらない。
だから、練習していけばいい。
午後四時半に会社を出る。
町を歩く。
何も決めずに座る。
たい焼きを食べる。
それも練習の一つだ。
紡は今日撮った写真を開いた。
食べかけのたい焼き。
紙袋。
斜めに差す光。
写真の端には、公園の木の影が少しだけ映っている。
きれいではない。
でも、見ていると、あのときの温かさを思い出せる。
投稿を書く。
「初めて、平日の午後四時半に会社を出た。早く帰れたら、文章を書いて、本を読んで、何か意味のあることをしなければと思っていた。でも実際には、会社の近くを歩き、公園のベンチに座り、たい焼きを食べただけだった。何も完成しなかった。それでも、仕事から家へ帰るまでの間に、知らなかった町の時間があった。自分の時間を作ることと、すぐに成果で埋めることは違う。余白の中で、自分でいる練習を始めたい」
読み返す。
少し迷う。
たい焼きを食べただけ、と書く必要があるだろうか。
もっと前向きに、制度を使って有意義な一日を過ごしたと書いた方がいいのではないか。
でも、それでは今日の本当の気持ちから離れてしまう。
有意義だったかどうかは、何かを完成させたかだけで決まらない。
知らなかった時間を知った。
自分の落ち着かなさに気づいた。
母との記憶が戻った。
それで十分だった。
紡は投稿ボタンを押した。
しばらくして、コメントが届いた。
『早く帰れた日ほど、何かしなきゃと焦ってしまうので共感しました』
『たい焼きを食べただけの時間が、いちばん贅沢なのかもしれません』
『自分の時間にも、自分でいる練習がいる。今の私に必要な言葉でした』
紡は一つずつ読んだ。
自分だけではなかった。
自由な時間に戸惑う人。
休むことへ罪悪感を持つ人。
予定がないと不安になる人。
仕事では動けるのに、自分のことになると何をしたいかわからなくなる人。
誰かの反応を見て、今日の迷いも書いてよかったと思った。
美咲からもメッセージが来た。
『たい焼き、ずるい』
紡は笑った。
『午後四時半の町にあった』
『次の時差出勤の日、私も早く帰れたら行きたい』
『美咲は普通の勤務でしょ』
『有給一時間取る』
本気なのか冗談なのかわからない。
でも、美咲も自分の時間を少し意識し始めている。
『キャリア面談どうだった?』
紡が送ると、少し間が空いた。
『来週。まだ』
『緊張する?』
『する。でも申し込んだから行く』
その返事に、紡は微笑んだ。
怖いけれど行く。
美咲も、少しずつ自分の道を確かめようとしている。
『終わったらたい焼き食べよう』
そう送ると、
『それは決定』
と返ってきた。
寝る前、紡は翌日の目覚ましをいつもの時間に戻した。
早起きした分、体には少し疲れが残っている。
毎日続けるのは、今の紡には難しいかもしれない。
月に二回から始めると決めてよかった。
自分の体を知る。
仕事への影響を見る。
生活の流れを確かめる。
それから、回数を考えればいい。
紡はノートの最後に書いた。
「作った時間を、すぐに役立てなくてもいい。その時間にしか見えないものを、まず受け取る」
ペンを置く。
今日、長い文章は書かなかった。
図書館にも行かなかった。
次の旅も決めていない。
けれど、午後四時半の町を歩いた。
店先に並ぶ野菜を見た。
公園の声を聞いた。
たい焼きの熱さに、母との記憶を思い出した。
それらは、成果ではない。
けれど、紡がこれから書いていく暮らしの中に、静かに積もっていくものだった。
灯りを消し、布団に入る。
朝から長く動いた体は、すぐに沈んでいった。
目を閉じる前、紡の中に午後四時半の光が浮かんだ。
いつも会社の窓からしか見ていなかった時間。
その光の中を、自分の足で歩いた。
たった一度のことなのに、町の一日が少し広くなったように思えた。




