第19章 次の町を探す夜
水曜日の朝、紡は少しだけ早く目を覚ました。
アラームが鳴る五分前だった。
部屋の中はまだ薄暗く、カーテンの向こうから淡い光が滲んでいる。外では、どこかのベランダで洗濯物を干す音が小さく聞こえた。
紡は布団の中で、昨夜つけた名前を思い出した。
暮らしの湯気をたどる。
まだ少し照れくさい。
けれど、胸の奥に置いてみると、不思議と落ち着いた。
自分が何を見たいのか。
何を聞きたいのか。
何を言葉にしたいのか。
その輪郭が、少しだけはっきりする名前だった。
紡はベッドから起き上がり、テーブルの上の深い青色のノートを見た。
昨夜のページには、惣菜屋のコロッケと、活動名のことが書かれている。
私は、湯気が消える前に、その温度を言葉にしたい。
その一文を見たとき、胸の奥が静かに熱くなった。
書いたのは自分だ。
でも、今朝読むと少しだけ誰かに手渡された言葉のようにも感じる。
大切にしなさい。
そう言われているようだった。
紡は朝食を用意した。
トースト。
ヨーグルト。
コーヒー。
近所の八百屋で買ったみかん。
小田原で買ったみかんはもう食べ終えていた。今朝食べるのは、静岡のみかんだった。
今日はこっちの方が甘いよ。
店の男性の声を思い出しながら、紡は皮をむいた。
指先に柑橘の香りが残る。
一房口に入れると、確かに甘かった。
その甘さに、昨日の夕方の商店街が少し戻ってくる。
味は、場所と時間を連れてくる。
もう何度も思ったことなのに、今朝また新しく感じた。
紡はみかんを食べながら、スマートフォンを開いた。
「足音を聴く」のプロフィール欄には、昨日足した一文が表示されている。
暮らしの湯気をたどるように、土地の味、人の言葉、日々の記憶を記録しています。
その文章を見て、まだ少し緊張する。
でも、消したいとは思わなかった。
昨夜の投稿には、いくつかコメントが届いていた。
『暮らしの湯気、素敵な言葉ですね』
『惣菜屋さんの揚げ物の音、想像できました』
『近所の店にも物語があるんだなと思いました』
『私も帰りにいつものお店で何か買ってみたくなりました』
紡は一つひとつ、ゆっくり読んだ。
小さな投稿。
近所のコロッケの話。
それでも、誰かがそこに何かを感じてくれた。
そのことが、紡の背中を静かに押した。
遠くへ行かないと書けないわけではない。
でも、遠くへ行きたい気持ちも消えていない。
むしろ、近くを見るようになったことで、遠くの町にももっと丁寧に向かいたくなっていた。
紡はノートを開き、新しいページに書いた。
「次の一泊旅」
書いた瞬間、胸が少し高鳴った。
小田原へ行く前とは違う高鳴りだった。
あのときは、不安の方が大きかった。
本当に行けるのか。
何も感じなかったらどうしよう。
夢が自分を動かさなかったらどうしよう。
でも今は、少し違う。
もう、小田原で確かめた。
自分は、立ち止まれる。
人の言葉を聞ける。
小さな光や湯気に心が動く。
だから次は、何を聞きに行きたいのか。
その問いの方が大きかった。
出勤の時間が近づいていた。
紡はノートを閉じ、バッグに入れた。
今日も会社へ行く。
次の町を探すのは夜になるだろう。
でも、ノートに「次の一泊旅」と書いただけで、一日が少しだけ違って見える気がした。
会社では、来期の役割についての調整が続いていた。
午前中、上司と短い確認をした。
資料確認の担当範囲は、全件ではなく重要案件を中心にすること。
後輩育成は、紡一人で抱えず、月に二回の相談時間を設けること。
真帆のフォローも、質問を受けるだけではなく、真帆自身が考える時間を持てるようにすること。
残業で吸収するのではなく、業務時間内に組み込むこと。
一つずつ決まっていくと、紡の中に少し安心が生まれた。
会社の役割を引き受けることは、自分の時間をすべて差し出すことではない。
そう思えるようになった。
もちろん、簡単ではない。
忙しい日はきっとある。
急な依頼もあるだろう。
疲れて帰ってきて、何も書けない夜もある。
それでも、最初から諦める必要はない。
守りたい時間があるなら、それを言葉にして、調整していく。
それも、自分の人生を選ぶ練習なのかもしれない。
打ち合わせの最後、上司が言った。
「じゃあ、この形で一度進めてみようか」
「はい。よろしくお願いします」
紡は頷いた。
完全に迷いが消えたわけではない。
でも、以前のようにただ流されて引き受けるのとは違う。
自分の条件を言葉にした。
自分の時間を守りたいと伝えた。
そのうえで、会社の役割も引き受ける。
その選び方なら、今の紡にはできる気がした。
席に戻ると、美咲が小声で聞いた。
「まとまった?」
「うん。一応」
「よかったじゃん」
「うん。まだ不安はあるけど」
「不安ない選択なんて、あんまりないよ」
美咲がそう言って、パソコンに視線を戻した。
その何気ない言葉が、紡には残った。
不安のない選択。
たしかに、そんなものはあまりないのかもしれない。
小田原へ行くときも不安だった。
上司に本音を少し話すときも不安だった。
母に小田原の話をするときも不安だった。
活動名をつけるときも不安だった。
でも、不安があるからやめる、というだけでは、何も始まらない。
怖さがあるということは、それだけ大切なものを手にしているということ。
セリの言葉が、また胸の奥で静かに響いた。
昼休み、紡は一人で外へ出た。
美咲は別部署の同期と予定があるらしかった。
会社近くの公園で、コンビニのおにぎりと味噌汁を食べる。
ベンチの木は少し冷たかったが、日差しはやわらかかった。
紡はおにぎりの包装を開きながら、次の旅先のことを考えた。
小田原の次。
どこへ行こう。
遠すぎない場所。
一泊で行ける場所。
暮らしの湯気を感じられる場所。
市場がある町。
古い商店街がある町。
その土地に残る食べものがある町。
人の言葉を聞ける可能性がある場所。
ただ有名だから行くのではない。
映える写真が撮れるからでもない。
自分が耳を澄ませたいと思える町。
紡はスマートフォンで地図を開いた。
候補をいくつか思い浮かべる。
三島。
前にも候補に入れていた、水の町。
湧き水。
川沿いの道。
古い街道。
うなぎ。
富士山の気配。
甲府。
盆地。
ワイン。
ほうとう。
古い街道。
朝の市場。
秩父。
山の空気。
味噌ポテト。
古い祭り。
商店街。
札所めぐり。
銚子。
港町。
醤油の歴史。
ローカル線。
海風。
魚の朝。
川越。
蔵造り。
菓子屋横丁。
うなぎ。
さつまいも。
古い商家。
どこも気になる。
でも、小田原とは違う何かを聞きたい。
紡はおにぎりを一口食べながら、少し考えた。
水の音が聞きたい。
ふいに、そう思った。
市場の声でも、海の波でも、惣菜屋の油の音でもなく、町の中を流れる水の音。
三島。
その名前が胸の中で少しだけ光った。
水の町。
湧き水が町の中を流れている場所。
そこには、どんな暮らしがあるのだろう。
水のそばで暮らす人たちは、その水をどんなふうに見ているのだろう。
当たり前すぎて、もう特別とは思っていないのだろうか。
それとも、今でも大切に手入れしているのだろうか。
水のある町の食べものは、どんな味がするのだろう。
紡はメモアプリに書いた。
「次候補:三島。水の町。暮らしの中の水音を聞きたい」
書いた瞬間、少しだけ心が決まった気がした。
もちろん、まだ決定ではない。
宿も調べていない。
日程も決めていない。
でも、町の名前が一つ、胸の中に残った。
午後は忙しかった。
打ち合わせが長引き、真帆の資料確認も予定より時間がかかった。
新しい案件のメールも届いた。
来期の役割が少しずつ始まっているような感覚があった。
紡は一つずつ対応しながら、以前よりも少し意識していた。
抱え込みすぎないこと。
すぐに「大丈夫です」と言わないこと。
真帆に答えを渡す前に、どう考えたかを聞くこと。
自分の時間を守ること。
小さなことばかりだった。
けれど、その小さなことが、これからの紡には必要だった。
仕事を終える頃、外はもう暗くなり始めていた。
紡はパソコンを閉じ、デスクの引き出しに書類をしまった。
帰り支度をしていると、真帆が声をかけてきた。
「藤沢さん、今日ありがとうございました」
「ううん。資料、かなりよくなってたよ」
「本当ですか?」
「うん。自分で理由を書けるようになってきてると思う」
真帆は少し嬉しそうに笑った。
「藤沢さんに見てもらうと、ただ直すだけじゃなくて、何でそうした方がいいのかわかるので助かります」
その言葉に、紡は胸が温かくなった。
自分の仕事が、誰かの中に少し残っている。
そう感じた。
「そう言ってもらえると嬉しい」
紡は素直に答えた。
会社の仕事にも、残せるものはある。
後輩の中に残る考え方。
資料を受け取る人に届く言葉。
チームの中で整っていく流れ。
それらを大切にしながら、別の場所へ向かう準備もしていく。
今の紡には、その両方が必要なのだと思った。
帰り道、紡は駅前の書店に寄った。
旅行ガイドの棚へ向かう。
以前なら、有名な観光地やモデルコースのページをなんとなく眺めていた。
今日は少し違った。
三島。
水。
暮らし。
食。
歴史。
その言葉を頭の中に置きながら、本を探した。
静岡の旅行ガイドを一冊手に取る。
三島のページを開く。
湧き水。
川沿いの散歩道。
神社。
うなぎ。
古い街道。
水辺のカフェ。
写真は美しい。
けれど紡が目で追ったのは、写真の隅に写る生活の気配だった。
川沿いを歩く人。
水辺に置かれた小さな椅子。
店先ののれん。
古い看板。
道端に並ぶ植木鉢。
この町にも、きっと誰かの朝がある。
誰かが水の音を聞きながら、何十年も同じ道を歩いているかもしれない。
紡はそのガイドブックを買うことにした。
レジへ向かう途中、地域文化の棚に、湧き水や街道について書かれた本を見つけた。
少し専門的で、すぐには読み切れなさそうだった。
でも、気になった。
手に取って目次を見る。
水と暮らし。
東海道。
宿場町。
川と信仰。
紡の胸が小さく高鳴った。
観光だけではなく、その土地の背景を少し知ってから歩きたい。
そう思った。
けれど、今日はまずガイドブックだけにした。
何でも一度に集めすぎると、歩く前に頭でいっぱいになってしまう。
今の自分には、余白も必要だ。
書店を出ると、外はすっかり夜だった。
ガイドブックの入った紙袋を持って、紡は駅へ向かった。
部屋に帰ってから、簡単な夕飯を作った。
冷蔵庫にあった野菜と卵で、雑炊にした。
湯気が上がる。
鍋の中で、卵がふわりと広がる。
紡はその湯気を見ながら、少し笑った。
暮らしの湯気。
自分の部屋にも、ちゃんとある。
夕飯を食べ終えると、テーブルにガイドブックと青いノートを並べた。
三島のページを開く。
写真。
地図。
店の紹介。
散策コース。
紡はモデルコースをそのままなぞる気にはなれなかった。
でも、地図を見ながら、町の流れを感じるのは好きだった。
駅。
川。
神社。
商店街。
うなぎの店。
湧き水の場所。
宿。
歩ける距離。
朝に行ける場所。
夜に静かそうな道。
ノートに書く。
「三島で聞きたいこと」
水のある暮らし。
湧き水は日常にどうあるのか。
うなぎは観光の味なのか、暮らしの味なのか。
古い街道の気配。
朝の川沿い。
地元の人が通う店。
水辺にある言葉。
続けて、
「旅の目的」
水の音を聞く。
町の中にある水の手入れを見る。
食べものと水の関係を感じる。
誰かにとっての三島の味を聞く。
書いているうちに、紡の中で少しずつ旅が形になっていった。
小田原のときより、目的が少しはっきりしている。
小田原は、自分が何に立ち止まるのかを見るための旅だった。
三島は、その次の旅になる。
自分が聞きたいものを少し持って向かう旅。
その違いに、紡は静かに胸が高鳴った。
日程を考える。
今月は、来期準備で仕事が少し忙しい。
無理に入れると疲れてしまう。
疲れたまま行くと、町に耳を澄ませる余裕がなくなるかもしれない。
来月の第二週。
土日で一泊。
金曜日に仕事を終えてから行くのではなく、土曜日の朝に出る。
宿は駅から近い場所。
食事はつけずに、朝は町で食べる。
小田原と同じように、詰め込みすぎない。
でも、今回は水辺の朝を必ず歩く。
紡はカレンダーを開いた。
来月の第二週の土曜日を見つめる。
まだ何も予定は入っていない。
その空白が、少し眩しく見えた。
予約ボタンを押すには、まだ早い気がした。
小田原のときは、勢いも必要だった。
今回は、もう少し計画してからでもいい。
けれど、日付に仮の予定を入れることはできる。
紡はカレンダーに入力した。
「三島 一泊旅候補」
候補。
まだ逃げ道のある言葉。
でも、空白だった日付に、町の名前が置かれた。
それだけで、未来に小さな窓が開いた気がした。
紡は深く息を吐いた。
青いノートの下に、もう一行書く。
「続けるための旅にする」
はじめて一人で宿を予約した海辺の町は、紡に「行ける」ということを教えてくれた。
次に向かう水の町では、「続ける」ということを確かめたいと思った。
無理をしない。
詰め込みすぎない。
仕事を投げ出すように行くのではなく、日常の中に旅の時間を作る。
旅先で受け取ったものを、帰ってから言葉にする余裕も残す。
そういう旅を重ねていきたい。
紡はガイドブックを閉じた。
部屋は静かだった。
テーブルの上には、青いノートと、三島のページに挟んだ付箋がある。
小田原のときよりも、少し落ち着いている。
けれど、胸の奥には確かな高鳴りがあった。
次の町が見えてきた。
水の音が、まだ行っていない町からかすかに聞こえるような気がした。
寝る前、紡は「足音を聴く」の投稿を作った。
写真は、ガイドブックの上に置いた青いノートの端だけを写した。
町の名前は、まだ出さなかった。
自分の中でもう少し温めたかったからだ。
文章を打つ。
「次の一泊旅を、少しずつ考え始めた。小田原は、自分が何に立ち止まるのかを知るための旅だった。次は、聞きたい音をひとつ持って町へ向かってみたい。無理に遠くへ行くのではなく、日常の中に旅の時間を作ること。続けるための旅を、ゆっくり探している」
読み返す。
今の自分に近い。
紡は投稿した。
画面に表示された言葉を見て、静かに頷いた。
続けるための旅。
それは、会社を辞めるまで何もしないのではなく、会社員である今の自分ができる形で少しずつ進むことだった。
今の暮らしを全部否定しなくてもいい。
でも、夢を先延ばしにし続けなくてもいい。
その間にある小さな道を、自分で作っていく。
寝室へ向かう前に、紡はカレンダーをもう一度見た。
来月の第二週。
三島 一泊旅候補。
その文字が、画面の中で静かに光っている。
まだ予約はしていない。
でも、心は少しだけその町へ向かい始めている。
水のある町。
暮らしの中の水音。
誰かにとっての味と言葉。
紡はスマートフォンを伏せ、部屋の明かりを消した。
暗くなった部屋の中で、今日決めたことが静かに残っていた。
次の町を探すこと。
続けるための旅にすること。
会社の役割も、自分の時間も、どちらかをすぐに捨てるのではなく、今の自分にできる形を探すこと。
すべてがまだ途中だった。
でも、途中であることが少しだけ怖くなくなっていた。
紡は布団の中で、まだ見ぬ水の町を思った。
朝の川沿いを歩く自分。
湧き水の音。
店先ののれん。
誰かが何気なく話してくれる言葉。
その想像は、派手な夢ではなかった。
けれど、確かに明日を支える小さな灯りになった。
紡はその灯りを胸の中に置いたまま、ゆっくり目を閉じた。




