表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『旅するわたしの、足音を聴く』  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/61

第19章 次の町を探す夜

水曜日の朝、紡は少しだけ早く目を覚ました。

アラームが鳴る五分前だった。

部屋の中はまだ薄暗く、カーテンの向こうから淡い光が滲んでいる。外では、どこかのベランダで洗濯物を干す音が小さく聞こえた。

紡は布団の中で、昨夜つけた名前を思い出した。

暮らしの湯気をたどる。

まだ少し照れくさい。

けれど、胸の奥に置いてみると、不思議と落ち着いた。

自分が何を見たいのか。

何を聞きたいのか。

何を言葉にしたいのか。

その輪郭が、少しだけはっきりする名前だった。

紡はベッドから起き上がり、テーブルの上の深い青色のノートを見た。

昨夜のページには、惣菜屋のコロッケと、活動名のことが書かれている。

私は、湯気が消える前に、その温度を言葉にしたい。

その一文を見たとき、胸の奥が静かに熱くなった。

書いたのは自分だ。

でも、今朝読むと少しだけ誰かに手渡された言葉のようにも感じる。

大切にしなさい。

そう言われているようだった。

紡は朝食を用意した。

トースト。

ヨーグルト。

コーヒー。

近所の八百屋で買ったみかん。

小田原で買ったみかんはもう食べ終えていた。今朝食べるのは、静岡のみかんだった。

今日はこっちの方が甘いよ。

店の男性の声を思い出しながら、紡は皮をむいた。

指先に柑橘の香りが残る。

一房口に入れると、確かに甘かった。

その甘さに、昨日の夕方の商店街が少し戻ってくる。

味は、場所と時間を連れてくる。

もう何度も思ったことなのに、今朝また新しく感じた。

紡はみかんを食べながら、スマートフォンを開いた。

「足音を聴く」のプロフィール欄には、昨日足した一文が表示されている。

暮らしの湯気をたどるように、土地の味、人の言葉、日々の記憶を記録しています。

その文章を見て、まだ少し緊張する。

でも、消したいとは思わなかった。

昨夜の投稿には、いくつかコメントが届いていた。

『暮らしの湯気、素敵な言葉ですね』

『惣菜屋さんの揚げ物の音、想像できました』

『近所の店にも物語があるんだなと思いました』

『私も帰りにいつものお店で何か買ってみたくなりました』

紡は一つひとつ、ゆっくり読んだ。

小さな投稿。

近所のコロッケの話。

それでも、誰かがそこに何かを感じてくれた。

そのことが、紡の背中を静かに押した。

遠くへ行かないと書けないわけではない。

でも、遠くへ行きたい気持ちも消えていない。

むしろ、近くを見るようになったことで、遠くの町にももっと丁寧に向かいたくなっていた。

紡はノートを開き、新しいページに書いた。

「次の一泊旅」

書いた瞬間、胸が少し高鳴った。

小田原へ行く前とは違う高鳴りだった。

あのときは、不安の方が大きかった。

本当に行けるのか。

何も感じなかったらどうしよう。

夢が自分を動かさなかったらどうしよう。

でも今は、少し違う。

もう、小田原で確かめた。

自分は、立ち止まれる。

人の言葉を聞ける。

小さな光や湯気に心が動く。

だから次は、何を聞きに行きたいのか。

その問いの方が大きかった。

出勤の時間が近づいていた。

紡はノートを閉じ、バッグに入れた。

今日も会社へ行く。

次の町を探すのは夜になるだろう。

でも、ノートに「次の一泊旅」と書いただけで、一日が少しだけ違って見える気がした。

会社では、来期の役割についての調整が続いていた。

午前中、上司と短い確認をした。

資料確認の担当範囲は、全件ではなく重要案件を中心にすること。

後輩育成は、紡一人で抱えず、月に二回の相談時間を設けること。

真帆のフォローも、質問を受けるだけではなく、真帆自身が考える時間を持てるようにすること。

残業で吸収するのではなく、業務時間内に組み込むこと。

一つずつ決まっていくと、紡の中に少し安心が生まれた。

会社の役割を引き受けることは、自分の時間をすべて差し出すことではない。

そう思えるようになった。

もちろん、簡単ではない。

忙しい日はきっとある。

急な依頼もあるだろう。

疲れて帰ってきて、何も書けない夜もある。

それでも、最初から諦める必要はない。

守りたい時間があるなら、それを言葉にして、調整していく。

それも、自分の人生を選ぶ練習なのかもしれない。

打ち合わせの最後、上司が言った。

「じゃあ、この形で一度進めてみようか」

「はい。よろしくお願いします」

紡は頷いた。

完全に迷いが消えたわけではない。

でも、以前のようにただ流されて引き受けるのとは違う。

自分の条件を言葉にした。

自分の時間を守りたいと伝えた。

そのうえで、会社の役割も引き受ける。

その選び方なら、今の紡にはできる気がした。

席に戻ると、美咲が小声で聞いた。

「まとまった?」

「うん。一応」

「よかったじゃん」

「うん。まだ不安はあるけど」

「不安ない選択なんて、あんまりないよ」

美咲がそう言って、パソコンに視線を戻した。

その何気ない言葉が、紡には残った。

不安のない選択。

たしかに、そんなものはあまりないのかもしれない。

小田原へ行くときも不安だった。

上司に本音を少し話すときも不安だった。

母に小田原の話をするときも不安だった。

活動名をつけるときも不安だった。

でも、不安があるからやめる、というだけでは、何も始まらない。

怖さがあるということは、それだけ大切なものを手にしているということ。

セリの言葉が、また胸の奥で静かに響いた。

昼休み、紡は一人で外へ出た。

美咲は別部署の同期と予定があるらしかった。

会社近くの公園で、コンビニのおにぎりと味噌汁を食べる。

ベンチの木は少し冷たかったが、日差しはやわらかかった。

紡はおにぎりの包装を開きながら、次の旅先のことを考えた。

小田原の次。

どこへ行こう。

遠すぎない場所。

一泊で行ける場所。

暮らしの湯気を感じられる場所。

市場がある町。

古い商店街がある町。

その土地に残る食べものがある町。

人の言葉を聞ける可能性がある場所。

ただ有名だから行くのではない。

映える写真が撮れるからでもない。

自分が耳を澄ませたいと思える町。

紡はスマートフォンで地図を開いた。

候補をいくつか思い浮かべる。

三島。

前にも候補に入れていた、水の町。

湧き水。

川沿いの道。

古い街道。

うなぎ。

富士山の気配。

甲府。

盆地。

ワイン。

ほうとう。

古い街道。

朝の市場。

秩父。

山の空気。

味噌ポテト。

古い祭り。

商店街。

札所めぐり。

銚子。

港町。

醤油の歴史。

ローカル線。

海風。

魚の朝。

川越。

蔵造り。

菓子屋横丁。

うなぎ。

さつまいも。

古い商家。

どこも気になる。

でも、小田原とは違う何かを聞きたい。

紡はおにぎりを一口食べながら、少し考えた。

水の音が聞きたい。

ふいに、そう思った。

市場の声でも、海の波でも、惣菜屋の油の音でもなく、町の中を流れる水の音。

三島。

その名前が胸の中で少しだけ光った。

水の町。

湧き水が町の中を流れている場所。

そこには、どんな暮らしがあるのだろう。

水のそばで暮らす人たちは、その水をどんなふうに見ているのだろう。

当たり前すぎて、もう特別とは思っていないのだろうか。

それとも、今でも大切に手入れしているのだろうか。

水のある町の食べものは、どんな味がするのだろう。

紡はメモアプリに書いた。

「次候補:三島。水の町。暮らしの中の水音を聞きたい」

書いた瞬間、少しだけ心が決まった気がした。

もちろん、まだ決定ではない。

宿も調べていない。

日程も決めていない。

でも、町の名前が一つ、胸の中に残った。

午後は忙しかった。

打ち合わせが長引き、真帆の資料確認も予定より時間がかかった。

新しい案件のメールも届いた。

来期の役割が少しずつ始まっているような感覚があった。

紡は一つずつ対応しながら、以前よりも少し意識していた。

抱え込みすぎないこと。

すぐに「大丈夫です」と言わないこと。

真帆に答えを渡す前に、どう考えたかを聞くこと。

自分の時間を守ること。

小さなことばかりだった。

けれど、その小さなことが、これからの紡には必要だった。

仕事を終える頃、外はもう暗くなり始めていた。

紡はパソコンを閉じ、デスクの引き出しに書類をしまった。

帰り支度をしていると、真帆が声をかけてきた。

「藤沢さん、今日ありがとうございました」

「ううん。資料、かなりよくなってたよ」

「本当ですか?」

「うん。自分で理由を書けるようになってきてると思う」

真帆は少し嬉しそうに笑った。

「藤沢さんに見てもらうと、ただ直すだけじゃなくて、何でそうした方がいいのかわかるので助かります」

その言葉に、紡は胸が温かくなった。

自分の仕事が、誰かの中に少し残っている。

そう感じた。

「そう言ってもらえると嬉しい」

紡は素直に答えた。

会社の仕事にも、残せるものはある。

後輩の中に残る考え方。

資料を受け取る人に届く言葉。

チームの中で整っていく流れ。

それらを大切にしながら、別の場所へ向かう準備もしていく。

今の紡には、その両方が必要なのだと思った。

帰り道、紡は駅前の書店に寄った。

旅行ガイドの棚へ向かう。

以前なら、有名な観光地やモデルコースのページをなんとなく眺めていた。

今日は少し違った。

三島。

水。

暮らし。

食。

歴史。

その言葉を頭の中に置きながら、本を探した。

静岡の旅行ガイドを一冊手に取る。

三島のページを開く。

湧き水。

川沿いの散歩道。

神社。

うなぎ。

古い街道。

水辺のカフェ。

写真は美しい。

けれど紡が目で追ったのは、写真の隅に写る生活の気配だった。

川沿いを歩く人。

水辺に置かれた小さな椅子。

店先ののれん。

古い看板。

道端に並ぶ植木鉢。

この町にも、きっと誰かの朝がある。

誰かが水の音を聞きながら、何十年も同じ道を歩いているかもしれない。

紡はそのガイドブックを買うことにした。

レジへ向かう途中、地域文化の棚に、湧き水や街道について書かれた本を見つけた。

少し専門的で、すぐには読み切れなさそうだった。

でも、気になった。

手に取って目次を見る。

水と暮らし。

東海道。

宿場町。

川と信仰。

紡の胸が小さく高鳴った。

観光だけではなく、その土地の背景を少し知ってから歩きたい。

そう思った。

けれど、今日はまずガイドブックだけにした。

何でも一度に集めすぎると、歩く前に頭でいっぱいになってしまう。

今の自分には、余白も必要だ。

書店を出ると、外はすっかり夜だった。

ガイドブックの入った紙袋を持って、紡は駅へ向かった。

部屋に帰ってから、簡単な夕飯を作った。

冷蔵庫にあった野菜と卵で、雑炊にした。

湯気が上がる。

鍋の中で、卵がふわりと広がる。

紡はその湯気を見ながら、少し笑った。

暮らしの湯気。

自分の部屋にも、ちゃんとある。

夕飯を食べ終えると、テーブルにガイドブックと青いノートを並べた。

三島のページを開く。

写真。

地図。

店の紹介。

散策コース。

紡はモデルコースをそのままなぞる気にはなれなかった。

でも、地図を見ながら、町の流れを感じるのは好きだった。

駅。

川。

神社。

商店街。

うなぎの店。

湧き水の場所。

宿。

歩ける距離。

朝に行ける場所。

夜に静かそうな道。

ノートに書く。

「三島で聞きたいこと」

水のある暮らし。

湧き水は日常にどうあるのか。

うなぎは観光の味なのか、暮らしの味なのか。

古い街道の気配。

朝の川沿い。

地元の人が通う店。

水辺にある言葉。

続けて、

「旅の目的」

水の音を聞く。

町の中にある水の手入れを見る。

食べものと水の関係を感じる。

誰かにとっての三島の味を聞く。

書いているうちに、紡の中で少しずつ旅が形になっていった。

小田原のときより、目的が少しはっきりしている。

小田原は、自分が何に立ち止まるのかを見るための旅だった。

三島は、その次の旅になる。

自分が聞きたいものを少し持って向かう旅。

その違いに、紡は静かに胸が高鳴った。

日程を考える。

今月は、来期準備で仕事が少し忙しい。

無理に入れると疲れてしまう。

疲れたまま行くと、町に耳を澄ませる余裕がなくなるかもしれない。

来月の第二週。

土日で一泊。

金曜日に仕事を終えてから行くのではなく、土曜日の朝に出る。

宿は駅から近い場所。

食事はつけずに、朝は町で食べる。

小田原と同じように、詰め込みすぎない。

でも、今回は水辺の朝を必ず歩く。

紡はカレンダーを開いた。

来月の第二週の土曜日を見つめる。

まだ何も予定は入っていない。

その空白が、少し眩しく見えた。

予約ボタンを押すには、まだ早い気がした。

小田原のときは、勢いも必要だった。

今回は、もう少し計画してからでもいい。

けれど、日付に仮の予定を入れることはできる。

紡はカレンダーに入力した。

「三島 一泊旅候補」

候補。

まだ逃げ道のある言葉。

でも、空白だった日付に、町の名前が置かれた。

それだけで、未来に小さな窓が開いた気がした。

紡は深く息を吐いた。

青いノートの下に、もう一行書く。

「続けるための旅にする」

はじめて一人で宿を予約した海辺の町は、紡に「行ける」ということを教えてくれた。

次に向かう水の町では、「続ける」ということを確かめたいと思った。

無理をしない。

詰め込みすぎない。

仕事を投げ出すように行くのではなく、日常の中に旅の時間を作る。

旅先で受け取ったものを、帰ってから言葉にする余裕も残す。

そういう旅を重ねていきたい。

紡はガイドブックを閉じた。

部屋は静かだった。

テーブルの上には、青いノートと、三島のページに挟んだ付箋がある。

小田原のときよりも、少し落ち着いている。

けれど、胸の奥には確かな高鳴りがあった。

次の町が見えてきた。

水の音が、まだ行っていない町からかすかに聞こえるような気がした。

寝る前、紡は「足音を聴く」の投稿を作った。

写真は、ガイドブックの上に置いた青いノートの端だけを写した。

町の名前は、まだ出さなかった。

自分の中でもう少し温めたかったからだ。

文章を打つ。

「次の一泊旅を、少しずつ考え始めた。小田原は、自分が何に立ち止まるのかを知るための旅だった。次は、聞きたい音をひとつ持って町へ向かってみたい。無理に遠くへ行くのではなく、日常の中に旅の時間を作ること。続けるための旅を、ゆっくり探している」

読み返す。

今の自分に近い。

紡は投稿した。

画面に表示された言葉を見て、静かに頷いた。

続けるための旅。

それは、会社を辞めるまで何もしないのではなく、会社員である今の自分ができる形で少しずつ進むことだった。

今の暮らしを全部否定しなくてもいい。

でも、夢を先延ばしにし続けなくてもいい。

その間にある小さな道を、自分で作っていく。

寝室へ向かう前に、紡はカレンダーをもう一度見た。

来月の第二週。

三島 一泊旅候補。

その文字が、画面の中で静かに光っている。

まだ予約はしていない。

でも、心は少しだけその町へ向かい始めている。

水のある町。

暮らしの中の水音。

誰かにとっての味と言葉。

紡はスマートフォンを伏せ、部屋の明かりを消した。

暗くなった部屋の中で、今日決めたことが静かに残っていた。

次の町を探すこと。

続けるための旅にすること。

会社の役割も、自分の時間も、どちらかをすぐに捨てるのではなく、今の自分にできる形を探すこと。

すべてがまだ途中だった。

でも、途中であることが少しだけ怖くなくなっていた。

紡は布団の中で、まだ見ぬ水の町を思った。

朝の川沿いを歩く自分。

湧き水の音。

店先ののれん。

誰かが何気なく話してくれる言葉。

その想像は、派手な夢ではなかった。

けれど、確かに明日を支える小さな灯りになった。

紡はその灯りを胸の中に置いたまま、ゆっくり目を閉じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ