第二話_呪縛と夜這い
あの騒動のあと、私は実家であるレガレイア公爵邸へと帰宅した。
レイドが先に執務室に行き話をしてくる、といい、私は応接間で待つことにした。
(お兄様はなんていうのかしら……)
すると、人影が応接間に増える。
「……すまなかったね、エリノア。王太子側が我が家の資産や兵站ルートを法的に狙ってくる手は全て検知し、防衛線を強いていたのだが……」
現れたのは、現当主であり、鬼の実務家と呼ばれるお兄様だ。レイドも隣にいる。
「まさか、何の後ろ盾も利害計算もなく、公衆の面前で君個人を罪人扱いするような『ただの暴走』をしてくるとは、私の予測を超えていた。君に余計な精神的負荷を払わせた」
「いえ、お兄様にお手を煩わせる結果になって、申し訳ございませんでした」
腕を組んでいるレイドの顔つきが少し険しくなったような気がした。
「しかし、お前が現場で確定させた証言は、先ほどこちらで精査した。これだけの不祥事の記録があれば王太子側の過失として、法的にも経済的にもこちらが優位をとることができる。我が公爵家の対応としては、これ以上ない完璧な顛末だ」
お兄様はいつものように冷徹に、私の「能力」を絶賛する。
「ありがとうございます、お兄様。公爵令嬢として、当然の処理をいたしましたわ」
(早く、レイドから逃げないと)
笑顔を貼り付けたまま一礼し、自室へと戻る。
バタン、と重い扉を閉め、鍵をかけた瞬間、誰もいない空気に触れたその刹那。
「さっきまで、なんともなかったのに……」
わたしは、馬車に乗る前に握った、あの骨ばった、あたたかく、どこかやわらかい、あの手の感触に頭の中を占領されてしまった。
(レイドの……人の……手のぬくもりがあんなに心地いいなんて……)
私の身体は、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
「――う、く……っ」
冷たい床にへたり込み、自分の肩を抱く。
小刻みに。身体が震えていることに気づく。
お兄様は褒めてくれた。公爵家は守られた。法的には全面的に私が正しい。
それなのに、胸の奥が冷え切った拒絶反応を吐き出し続けている。
脳内に走り続けるのは、幼い頃に亡くした両親の、あの冷徹な教え。
「教えなんて、そんな生易しいものじゃない……」
『エリノア。完璧でありなさい』
『エリノア、隙を見せるな』
『エリノア、役に立たない無能な令嬢に、この家に残る価値などないのだから』
(私は完璧に適応した。だからお兄様にも必要とされている)
「とても冷たいけれど……冷たい世界にいたいのに……それだけがわたしの灯なのに……」
(もしも私が、あの理不尽な感情論に負けていたら?)
(完璧な論理を組めなくなったら、私はまた、あの暗闇に捨てられる――)
自覚しないようにしてきた、孤独。麻酔をかけていた恐怖。張りつめすぎた鎧の重さに、生身の心は押しつぶされそうになる。
膝を抱え、暗く冷たい部屋の隅で、ただ一人で震えることしかできない。
(もうこれ以上、気づきたくない。私はただの歯車でいい……)
その時だった。
コン、と軽い音がしたかと思うと、ガサリと、ベランダの窓が外側から乱暴に押し開けられた。
吹き込んでくる夜風と共に、夜の闇をまとった男が、信じられない軽さで部屋へと滑り込んでくる。
「――っ!?」
その人影はレイドだった。
思わず肩を抱えてうずくまっていたところから、跳ね起き、反射的に鉄仮面をかぶり直して叫ぶ。
「不敬ですわよ!王弟殿下!事前の約束もなく、扉以外から入室するのは礼儀違反です。速やかに退出を――」
いつも通り、完璧な冷徹さで論理の盾を構えた……はずだった。
しかし、レイドはその盾を鼻で笑って、一歩、不可侵領域を容赦なく踏み荒らしてくる。
「やれやれ、相変わらず四角四面なルールが好きだねえ、お嬢さん」
(近い――)
そう認識した時は、もう逃げ場はなかった。
ガシッ、と、骨張った大きな両手が私の両肩を掴む。
いつも飄々とした笑みなのに、碧の双眸だけが、絶対に逃がさないとばかりにギラリと据わっていた。、
「一人で、そんな死にそうな顔してんじゃねえよ」
「死にそうな顔などしていませんわ!私は完璧な公爵令嬢ですもの!我が家は法的に絶対的に正しい!泣く理由なんて――」
必死に早口で正論をまくしたてる。
だけど、レイドの低い声が、私の防壁を容赦なく内側から震わせた。
「嘘つけ。正しければ傷つかないのかよ、エリス」
心臓が跳ねた。
何年ぶりに呼ばれたのだろう。最後に読んだのは誰だったのだろう。その、かつての愛称。
「……っ!」
「あの時、王族の重圧に迷って腐ってた俺の背中を、お前の正論が俺の背中を叩いて前向かせてくれたんだろ。『縮こまってる時間が無駄だ』ってさ」
レイドの手が、肩から滑り、私のガタガタと震える指先を乱暴に、だけど包み込むように掴んだ。
その時の体温が、痛いくらいに熱い。
「救われた、感謝してる。でも、当のお前があんな公衆の面前で立派に立ち振る舞えるのに、一人でこんなにガタガタ震えているのを放っておけるわけないだろ」
レイドの体温が痛いくらい熱い。
「あの時からお前を……震えているお前をずっと見てきた。自分の心をガチガチに縛って、一人でボロボロになりながら戦ってきた」
「やめてください……」
(私の心を締め付けるのをやめたら……)
胸の奥の、一番深い、深い、心の鎖が、みしりと音を立てて軋む気がした。
お兄様すら気づかない、「完璧でなければ捨てられる」という冷たい呪い。
「お前の兄貴は優秀な為政者だろうよ。だがな傷ひとつない完璧な人形じゃなきゃ愛せないってなら、そんなしがらみごと、俺の総力でまるごと買い取る。だから、完璧な公爵令嬢なんて手を放していいんだ」
レイドの、この理不尽なまでの引力を前に、ボロボロと剥がれ落ちていく。
(完璧な公爵令嬢を手放したら……)
「っ!……だったらどうしろと言うのです……っ。私は、こうして完璧に役に立っていなければ、誰にも必要とされない……!私はこの生き方しか知らない!この生き方を手放したらバラバラになってしまう!その私に価値なんて……っ」
言いかけた唇は、熱い胸板に塞がれた。
反論も、規律も、全てをすっ飛ばして、レイドに私は腕の中で力強く抱きつぶされていく。
「価値だの何だの、そんな決まりは俺が今、全部書き換えてやる。もうその生き方じゃなくていい」
「なっ……離して……っ、醜聞になりますわ、我が家の汚点に――」
私の最後の抵抗すら、レイドは不敵に、そして絶対に折れない強靭な意思で笑い飛ばした。
「世間の醜聞?国王の目の届かない夜這いに、男女の二人での密会?――あはは、そんなもん、俺を信じてついてきてくれた仲間全員で、世界の方を力技でねじ伏せてやる。これからは俺が全部背負う!」
耳元で、確信に満ちた不敵な息が落ちる。
「俺が望むのは、お前がカッコつけずに、本当に心から笑うことだ!」
「……っ、そんなの……」
視界が、一瞬で歪んだ。
私の生き方のどこにも、こんなに無茶苦茶で、理不尽で、あたたかい救済なんて、記載されていなかったのに。
「そんな無茶苦茶な規則、私の人生のどこにも記載されていませんわよ……っ、馬鹿レイド……っ!」
鉄仮面が、バリンと完全に砕け散った。
レイドの胸の中で堰を切ったようにあふれ出した涙は、もう止まらなかった。
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