第9話 赤い靴
白百合の匂いは、いつのまにか消えていた。
『こころ』の事件から三日。詞乃は図書室の奥で、見たことのない一角に気づいた。書架と書架のあいだに、これまでなかったはずの細い通路が口を開けている。床の木目が途中で途切れ、その先は冷たい石畳に変わっていた。
足を踏み入れると、空気が変わった。
古い紙の匂いではなかった。潮の匂いと、石畳に染みた雨の匂い。そして遠くから、油の燃える匂い。詞乃は天井を見上げた。さっきまで漆喰だった天井が、いつのまにか高い梁に変わり、その下にガス灯が並んでいた。炎が、ひとつ、またひとつと、ともっていく。
異国だった。
石畳の街路。両側に、石造りの建物が肩を寄せあっている。窓のひとつから、楽器を調律する音が漏れていた。坂の下に、円柱の並んだ建物が見える。劇場らしかった。明治の日本に、ヨーロッパの街角を切り取って継ぎ足したような、不思議な区画だった。
女学院の中に、こんな場所があるはずがない。
けれど詞乃には、もう分かっていた。ここはそういう世界だ。日本文学の悲劇を、少女たちに演じさせる世界。新しい区画が現れたなら、それは、新しい物語が始まる合図だった。
真白から渡された一冊が、まだ手の中にあった。革表紙に、箔押しの題字。指で背を撫でると、ざらりとした感触の下から、かすかに潮の匂いが立つ。
『舞姫』。
あの朝、唇を奪われたあとに握らされた本だ。
『いってらっしゃい、私の救い主さん』
――真白の声が、まだ耳の奥に残っている。表紙の海も、異国の文字も、こうして異国の区画に立ってみると、まるでこの場所を予告していたかのようだった。
ページのあいだに、一本のリボンが挟まっていた。舞踏靴の、足首を結ぶためのリボン。淡い色のはずのそれが、先のほうだけ、赤黒く染まっていた。乾いた血の色だった。
詞乃の指が、こわばった。
知っている話だ。異国に留学した才媛が、貧しい踊り子と恋に落ち、けれど国家と出世のために、その娘を置き去りにする。残された娘は、心を壊す。誰も救わなかった、あの結末。
坂の下の劇場から、音楽が聞こえてきた。
ピアノの旋律だった。ゆっくりとした、けれどどこか急きたてるような三拍子。こんな時刻に、誰が。詞乃は石畳を下りた。靴音が、夜の街路にやけに高く響いた。
劇場の扉は、半分開いていた。
中は暗かった。客席には誰もいない。ただ、正面の舞台の上だけが、青白い月のような光に照らされていた。光の輪の中に、ひとりの少女が立っていた。
踊っていた。
金色の髪が、回転のたびに尾を引いた。細い腕が、見えない誰かへ差し伸べられ、また胸へ引き戻される。儚げな顔立ちだった。けれど、その踊りには、儚さとは裏腹の、何かにすがりつくような必死さがあった。
きれいだ、と詞乃は思った。
そして次の瞬間、足元に目を奪われた。
踊り子の靴だけが、赤かった。
舞台の青白い光の中で、そこだけが、生々しく赤い。爪先が床を打つたびに、その赤が、わずかに濃さを増していくように見えた。詞乃は息を呑んだ。リボンに染みていた、あの血の色と同じだった。
ピアノが、止まった。
弾き手などいなかった。客席にも、舞台袖にも、誰も。それなのに、音楽だけが、確かに鳴っていた。
少女が、回転をやめた。肩で息をしながら、客席の暗がりに目を凝らす。そして、詞乃を見つけた。
「……どなた?」
鈴を転がすような声だった。けれど、どこか怯えていた。
「久遠詞乃といいます。あなたの踊りが、聞こえたから」
少女は、警戒を解かなかった。けれど、詞乃が舞台に近づくと、その顔に、ふいに別の色がさした。期待だった。
「あなた、豊乃さまの使いの方?」
詞乃は、答えられなかった。
「ちがうのね」
少女の肩が、わずかに落ちた。それでも、すぐに笑顔を作った。無理に明るくした、痛々しい笑顔だった。
「ごめんなさい。私、エリゼ・ヴァイス。この劇場で踊っているの」
エリゼ。
また、頭の奥で本のページがめくれた。置き去りにされる役。心を壊す役。詞乃の視線が、また、あの赤い靴に吸い寄せられた。
「その靴」
詞乃は、思わず聞いた。
「足、痛くないの」
エリゼは、不思議そうに自分の足を見おろした。そして、何でもないことのように微笑んだ。
「平気よ。これを履いていると、いくらでも踊れるの。豊乃さまが迎えに来てくださるまで、何日でも」
その言葉に、詞乃の胸が、ざわついた。
「豊乃さん、って」
「私の、大切な方。帝国から来た、それはお偉い方なの。私みたいな踊り子に、優しくしてくださって。一緒にいようって、約束してくださったの」
エリゼの頬が、ぽっと染まった。恋する少女の顔だった。けれど、その目の奥に、詞乃は別のものを見た。すがるような、必死なもの。
「今、少し遠くへ行っていらっしゃるけれど。お仕事が片づいたら、必ず迎えに来てくださるの。だから私、ここで待っているの。踊って、待っているの」
エリゼは、また、ゆっくりと踊りはじめた。
誰も弾いていないピアノが、また鳴りはじめた。赤い靴が、舞台を打つ。とん、とん、と。その音が、夜の劇場に、寂しく響いた。
「豊乃さまは、必ず私を迎えに来てくださいます」
くるりと回りながら、エリゼは言った。その声は、自分に言い聞かせるようだった。
「だって、そう約束してくださったんですから」
詞乃は、舞台の下に立ち尽くしていた。
手の中の本が、リボンが、赤く染まった先端を、月光に晒している。
迎えになど、来ない。
本の中では、その約束は破られる。この娘は、待ちつづけたまま、置き去りにされる。そして、足が血に染まっても止まらない踊りの中で、心を壊していく。
詞乃は、こぶしを握った。
させない。今度も、本の通りには、絶対にさせない。
舞台の上で、エリゼが笑っていた。誰もいない客席に向かって、来るはずのない人を待ちながら、赤い靴で、踊りつづけていた。




