第10話 帝国の才媛、太田豊乃
翌朝、異国の区画は、夜とまるでちがう顔をしていた。
石畳に、朝の光が満ちていた。坂の上の鐘楼から、澄んだ鐘の音が転がり落ちてくる。パン屋の窓から、焼きたての匂いが流れ、行き交う人々が朝の挨拶を交わしていた。みな女性だった。詰襟の制服を着た留学生らしき娘たち、市場へ向かう籠を抱えた娘たち。誰もが、それぞれの物語の端役を、何も知らずに生きている。
詞乃は、坂の上の建物を目指していた。エリゼに聞いたのだ。豊乃さまは、あの丘の上の留学生寮にいらっしゃる、と。
寮は、石造りの厳めしい建物だった。鉄柵の門をくぐると、前庭で、ひとりの少女が本を読んでいた。
息を呑むほど、姿勢が美しかった。
背筋がまっすぐで、膝の上に開いた分厚い洋書を、微動だにせず読んでいる。黒髪をきっちりと結い上げ、後れ毛一本ない。詰襟の制服を一分の隙もなく着こなし、襟元には帝国の徽章が光っていた。完成された、という言葉が、詞乃の頭に浮かんだ。この人は、隅々まで作りこまれた人だ。
「太田豊乃さん、ですか」
少女が、顔を上げた。
切れ長の、聡明な目だった。詞乃を一瞥しただけで、値踏みを終えたような、そんな視線。
「いかにも。あなたは?」
「久遠詞乃です。編入してきました」
豊乃は、わずかに首を傾げた。
「編入。この区画に? 聞いていませんが」
「ええと、その、女学院のほうから、こちらへ」
苦しい答えだった。けれど豊乃は、それ以上追及しなかった。読みかけの本に、視線を戻す。会話を、ここで打ち切るという意思表示だった。
詞乃は、引き下がらなかった。
「エリゼさんを、ご存じですよね」
豊乃の指が、ページの上で、止まった。
ほんの一瞬だったが、詞乃は見逃さなかった。完璧に整えられたこの人の、たった一箇所、ほころびた縫い目。
「……劇場の踊り子のことですか」
豊乃の声は、注意深く平らだった。
「ええ。とても綺麗に踊る方でした。あなたのことを、待っていらっしゃいました」
豊乃は、本を閉じた。ぱたん、という音が、朝の前庭にやけに大きく響いた。
「待つ、とは。妙なことを」
「迎えに来てくださると、約束したと。だから、ずっと踊って待っているんだと、おっしゃっていました」
豊乃の喉が、わずかに動いた。唾を飲みこんだのだ、と詞乃は気づいた。この、表情を消すことに長けた人が、感情を喉の奥へ押し戻している。
「子どもの戯れ言です」
豊乃は、立ち上がった。詞乃より、頭ひとつ背が高かった。見おろす目に、もう、ほころびはなかった。完璧な令嬢の顔に、戻っていた。
「異国の踊り子に、一時の同情をかけたのは事実です。けれど、それだけのこと。私には、果たすべき責務があります」
「責務」
「私は、国から官費で送られた留学生です。法学を修め、帰国し、国のために働く。それが、私に許された唯一の道です」
豊乃は、自分に言い聞かせるように、言葉を継いだ。
「私は、私だけの人生を持ってはいけないのです。国から選ばれた者ですから。一個人の感情で、その道を曲げることは、許されません」
その言いかたを、詞乃はどこかで聞いた気がした。
ああ、と思い当たる。エリゼだ。
『豊乃さまに選ばれたから、私はここにいていい』。
選ばれることでしか自分を保てない踊り子と、選ばれた責務に縛られて自分を殺す令嬢。二人は、合わせ鏡だった。どちらも、自分の人生を、自分のものだと思えていない。
「あなたは」
詞乃は、静かに言った。
「エリゼさんを、愛していらっしゃいますね?」
豊乃の表情が、凍った。
「無礼な」
「無礼でも、聞きます。だって、さっきあなたは、エリゼさんの名前を私が出したとき、ページをめくる手を止めた。喉を鳴らした。それは、何でもない相手にする反応じゃない」
豊乃は、答えなかった。けれど、その沈黙が、何よりの答えだった。聡明なこの人は、嘘をつくことより、黙ることを選んだ。
「愛しています、と言ってしまえば」
豊乃の声が、初めて、かすれた。
「私は、すべてを失う。だから、言いません。言ってはいけないのです」
風が、前庭の木々を揺らした。葉ずれの音が、二人のあいだの沈黙を、わずかに埋めた。
そのとき、寮の扉が開いた。
別の少女が、まっすぐにこちらへ歩いてくる。豊乃と同じ詰襟の制服。けれど豊乃が完璧な静けさをまとっているのに対し、この少女には、刃物のような鋭さがあった。眼鏡の奥の目が、詞乃を、不審そうに射た。
「豊乃さま。こちらの方は」
「ただの、編入生です。玲」
玲、と呼ばれた少女は、詞乃を一瞥し、すぐに興味を失ったように豊乃へ向き直った。手には、一通の封書を握っていた。封蝋に、帝国の紋章が押されている。
その封書を見た瞬間、詞乃の背筋が冷えた。
知っている。この展開を、知っている。
「豊乃さま」
玲の声は、感情を排した事務的なものだった。けれど、その奥に隠しきれない切迫があった。
「本国より、帰国命令が出ました」
豊乃の顔から、すうっと血の気が引いていった。
朝の鐘が、また、坂の上から転がり落ちてきた。澄んだ、美しい音だった。その音の下で、詞乃は、破滅へ向かう物語の歯車が、確かに回りはじめたのを聞いた。




