第11話 相沢玲は恋を切り捨てる
帰国命令の封書が、豊乃の手の中で震えていた。
玲は、その様子をじっと見ていた。眼鏡の奥の目には、心配とそれを上回る決意があった。
「豊乃さま。大臣がお呼びです」
玲の声は淀みなかった。
「今お戻りになれば将来は保証されます。法学校の首席、帝国初の女性高官。あなたが何年もかけて積み上げてきたものが、すべて約束どおりに手に入ります」
豊乃は答えなかった。封書に目を落としたまま、石像のように立ち尽くしていた。
玲が一歩近づいた。
「踊り子との噂は私が消します。誰の耳にも入らないように、すべてなかったことにできます。今ならまだ」
詞乃はたまらず割って入った。
「なかったことに、って」
玲が初めて詞乃をまっすぐ見た。冷たい目だった。
「部外者はお引き取りを」
「エリゼさんは人です。なかったことにできる噂なんかじゃない」
玲の眉がわずかに動いた。苛立ちではなかった。もっと静かな、確信のようなものだった。
「あなたは何も分かっていない」
玲は詞乃に向き直った。
「豊乃さまがどれほどのものを背負っているか。帝国は彼女に莫大な金をかけて学ばせた。故郷の家は、彼女の出世だけを支えに貧しさへ耐えている。彼女が帰らなければ、何人もの人間の人生が崩れる。それでも踊り子一人のために、すべてを捨てろと?」
詞乃は言葉に詰まった。
玲の言うことは間違っていなかった。これはただの恋の話ではない。一人の少女の選択に、いくつもの人生がぶら下がっている。簡単に殴れる悪役ではなかった。
「恋は美しいでしょう」
玲は静かに言った。
「けれど恋で国は動きません。恋で誰かの腹が満たされるわけでもない。私は豊乃さまを守りたいのです。彼女が一時の感情で、すべてを棒に振らないように」
守りたい。その言葉に嘘はなかった。
詞乃には分かった。この人は本気で豊乃を大切に思っている。ただ、その守り方がエリゼを切り捨てることに重なっているだけだ。
「玲」
豊乃がようやく口を開いた。声はひどく疲れていた。
「少し、一人にしてくれませんか」
玲は何か言いかけてやめた。一礼し、寮の中へ戻っていく。けれどその背中には、まだ言い足りないことがいくつも残っているように見えた。
残された豊乃は、封書を握りしめたまま長いこと黙っていた。
「あの人の言うことは、正しいのです」
やがて豊乃はぽつりと言った。
「私が帰れば、すべて丸くおさまる。家も、国も、私の未来も。失われるのはただ一つ」
「エリゼさんですね」
豊乃は答えなかった。けれど、その沈黙が肯定だった。
「私は弱いのです」
豊乃の声が震えた。
「正しさを並べられると抗えない。あの人の正論の前で、私の気持ちはいつもちっぽけに見えてしまう。恋などより国のほうが大きい、家のほうが重い。そう言われると何も言い返せなくなる」
詞乃は何か言おうとした。けれど、その前に豊乃は背を向けた。
「あなたには関係のないことです。お引き取りを」
拒絶だった。けれど、その拒絶は詞乃へ向けたものではなかった。豊乃は自分の心へ蓋をしようとしていた。エリゼへの気持ちごと、暗いところへ押しこもうとしていた。
詞乃は引き下がるしかなかった。
寮を出て坂を下りながら、詞乃は思った。豊乃を責めるのは簡単だ。けれど、この人もまた何かに縛られて、自分の心を殺そうとしている。
この本『舞姫』を渡してくれた、真白がそうだったように。
坂の途中で、詞乃は足を止めた。
劇場のほうへ玲が歩いていく。さっき寮へ戻ったはずの玲が、いつのまにか裏口から回り、エリゼのいる劇場へ向かっていた。
嫌な予感がした。詞乃は後を追った。
玲は劇場の楽屋口で、エリゼと向き合っていた。詞乃は物陰から、その様子をうかがった。
「あなたが、エリゼさんですね」
玲の声は丁寧だった。だからこそ冷たかった。
「はい。あの、豊乃さまの?」
「豊乃さまの使いで参りました」
エリゼの顔がぱっと明るくなった。迎えの知らせだと思ったのだ。詞乃の胸が締めつけられた。
玲は懐から、革袋と一枚の紙を取り出した。革袋はずしりと重そうだった。紙は切符だった。
「これを」
玲はそれをエリゼに差し出した。
「お金と、故郷へ帰る切符です。片道の」
エリゼの笑顔が固まった。
「片道」
「豊乃さまは帝国へお帰りになります。あなたとのことは、ここまでです」
エリゼは、革袋を受け取らなかった。その手は、受け取ろうと伸ばしかけたまま、行き場をなくして震えていた。
「そんな、嘘です! 豊乃さまは迎えに来てくださると」
「来ません」
玲ははっきりと言った。残酷なほどはっきりと。
「あなたといては、あの方は道を失う。あなたがあの方を本当に想うなら、分かるはずです。身を引くべきだと」
エリゼの目から大粒の涙がこぼれた。それでも彼女は首を振りつづけた。
「いやです。私、待ちます。豊乃さまがご自分の口でおっしゃるまで」
玲はため息をついた。そして革袋と切符を、楽屋口の框に置いた。
「豊乃さまの未来から、消えてください」
それだけ言うと、玲は背を向けた。
詞乃の脇を玲が通り過ぎていく。その横顔は苦しげだった。やりたくないことをやり遂げた者の顔だった。
楽屋口に、エリゼがひとり残された。
框に置かれた革袋を、切符を、エリゼは見つめていた。やがて、その足元で、かたん、と音がした。
脱いだはずの赤い靴だった。それが誰も触れていないのに、ひとりでに床を打ちはじめた。とん、とん、と。まるで舞台へ来いとエリゼを呼ぶように。




