第12話 選ばれるだけの恋
夜の劇場に、また音楽が鳴っていた。
詞乃が扉を押すと、舞台の上でエリゼが踊っていた。けれど昼間のあの必死さとは、何かがちがった。動きがぎこちない。赤い靴が、彼女の意思とは無関係に勝手に床を蹴っているように見えた。
「エリゼさん」
詞乃が呼ぶと、エリゼはやっと足を止めた。肩で息をしている。額に汗が浮き、頬は青白かった。
「久遠さん。来てくれたのね」
エリゼは力なく微笑んだ。框に置かれた革袋と切符は、まだそこにあった。手をつけられないまま、夜の冷気に晒されていた。
「あの切符、受け取らなかったんですね」
「受け取れないわ」
エリゼは舞台の端に腰を下ろした。赤い靴の爪先が、わずかに床を打ちつづけている。とん、とん、と。意思に反した小さな音だった。
「だって受け取ったら、本当になってしまう。豊乃さまがもう来ないって」
詞乃は舞台に上がり、エリゼの隣に座った。間近で見ると、エリゼの足元の赤は昼間よりも濃くなっていた。
「足、見せてください」
「だめ」
エリゼは足を引いた。
「これを脱いだら踊れなくなる。踊れなくなったら、豊乃さまが帰ってきたとき何も見せられない。私には踊ることしかないもの」
その言葉に、詞乃は胸を突かれた。
「踊ることしか、ない?」
「そうよ」
エリゼは自分の手を見おろした。細い、踊り子の手だった。
「私、貧しい劇場の踊り子なの。家もお金も学もない。何も持っていない。そんな私を豊乃さまだけが見つけてくださった。綺麗だと言ってくださった。豊乃さまに選ばれたから、私はここにいていいの」
詞乃は黙って聞いていた。
これだ、と思った。
この子の根っこにある、いちばん危ういもの。
エリゼは豊乃を愛している。それは本当だ。
けれど同じくらい、豊乃に選ばれることで、ようやく自分の存在を許せている。
選ばれなければ、自分には何の価値もない。そう信じこんでいる。
だから捨てられることが、ただ恋を失う以上の意味を持ってしまう。
選ばれなくなった自分は、もう何者でもなくなる。
その恐怖が、この子を赤い靴へ縛りつけている。
「エリゼさん。ひとつ、聞いていい?」
詞乃は静かに問いかけた。
「あなたは豊乃さんの恋人だから踊っているの? それとも、踊るあなたを豊乃さんが好きになったの?」
エリゼの動きが止まった。
長い沈黙があった。エリゼは、その問いの意味を必死に手繰り寄せようとしているようだった。
「……どういう、こと?」
「順番の話だよ。あなたが踊る人だったから、豊乃さんはあなたを見つけた。ちがいますか? あなたの踊りが先にあって、その踊りを見て豊乃さんが惹かれた。だとしたら、あなたの踊りは豊乃さんに選ばれたからじゃない。あなたがもともと持っていたもの。そうじゃない?」
エリゼは答えられなかった。
その目が揺れていた。今まで一度も考えたことのない問いを突きつけられた者の、戸惑いだった。
「私、分からない」
エリゼの声は消え入りそうだった。
「踊りが先だったのか、豊乃さまが先だったのか。もう分からないの。豊乃さまがいない私が踊って、何の意味があるのか。誰も見ていない舞台で踊って」
その瞬間、赤い靴がひときわ強く床を打った。
とん!
エリゼの体がびくりと跳ねた。彼女の意思とは関係なく、足が立ち上がろうとしていた。舞台の中央へ、引きずられるように。
「エリゼさん!」
詞乃はとっさにその腕をつかんだ。
エリゼの体は震えていた。
靴が踊れと急きたてている。
誰もいない客席へ向かって、来るはずのない人を待って、踊りつづけろと。
「いや」
エリゼが呟いた。涙が頬を伝った。
「私、止まれない。豊乃さまが来るまで止まっちゃいけない気がするの。止まったら自分が消えてしまう気がするの」
詞乃は、エリゼの腕を両手で強く握った。靴の力に必死に抗いながら。
「消えないよ。あなたは消えない」
けれど赤い靴は止まらなかった。エリゼの足を、じりじりと舞台の中央へ引いていく。詞乃の力だけでは抑えきれなかった。
その夜、詞乃は夜明け近くまでエリゼのそばにいた。
靴の発作が収まり、エリゼがようやく眠りに落ちたのを見届けて、詞乃は劇場を出た。空が白みはじめていた。
このままでは間に合わない。エリゼの心が「豊乃に置き去りにされた」と信じきってしまう前に、何とかしなければ。靴の赤が彼女の足を、すべてを食い尽くしてしまう前に。
けれど、と詞乃は思った。
豊乃を連れてくるだけでは足りない。それではエリゼはまた「選ばれた」だけになる。
この子が本当に立ち直るには、豊乃に選ばれるからではなく、自分で自分の舞台を選べるようにならなければ。
坂の上の寮を見上げる。あの完璧な令嬢も、今ごろ自分の心と戦っているはずだった。
夜が明けていく。残された時間は、多くなかった。




