第13話 帰国命令と白い手紙
翌日の午後、留学生寮に一台の馬車が停まった。
黒塗りの立派な馬車だった。扉に金の紋章が刻まれている。御者が踏み台を下ろすと、中からひとりの婦人が降りてきた。
詞乃は寮の前庭で、その姿を見ていた。
婦人は見るからに高貴だった。豪奢な洋装に、首には宝石。年の頃は四十ほどか。きりりと結い上げた髪に白いものが混じっている。表情には、人を見下すことに慣れた者の揺るぎない傲慢があった。
「太田豊乃は、どこです?」
婦人の声はよく通った。命令することに慣れた声だった。
玲が寮から急いで出てきて、深々と頭を下げた。
「天方院さま。お待ちしておりました」
天方院眞璃。大臣の名代として、豊乃を帝国へ連れ戻すために遣わされた高官の令室。詞乃は、その名を頭の中で確かめた。この物語で最もヘイトを集めるべき役どころだった。
豊乃が寮から出てきた。顔色が悪い。けれど姿勢だけは、いつものように崩していなかった。
「天方院さま。遠路おそれいります」
「挨拶はよろしい」
眞璃は豊乃を上から下まで眺めた。値踏みする目だった。
「妙な噂を耳にしましたよ。あなたがこの異国で、踊り子と懇ろになっているとか。まさか事実ではありますまいね」
豊乃の頬がわずかにこわばった。
「それは」
「恥を知りなさい」
眞璃は豊乃の言葉を遮った。
「踊り子は舞台で花になればよろしいのです。帝国の家系図に咲く花ではありません。あなたは国が莫大な金をかけて育てた才媛。その将来を異国の踊り子ごときと引き換えにするなど、笑止千万」
ごとき。その一言に、詞乃の中で何かが熱くなった。
「踊り子ごとき、って」
気づけば、詞乃は前に出ていた。眞璃が初めて詞乃の存在に気づいたように、冷たい視線を向けた。
「何です、あなたは?」
「久遠詞乃です。エリゼさんは、ごとき、なんて呼ばれる人じゃありません。あの人の踊りを、一度でも見たことがあるんですか」
眞璃の眉が、不快そうにつり上がった。
「踊りなど見るまでもありません。生まれがすべてを語っています。卑しい生まれの者は卑しい。それだけのこと」
あまりの言いように、詞乃は言葉を失った。
この人は、人を生まれだけで値踏みする。中身を見ようともしない。エリゼがどんな思いで踊っているかも、豊乃がどれほど苦しんでいるかも、何ひとつ見ようとしない。
「豊乃。三日後に発ちます」
眞璃は詞乃を無視して、豊乃へ向き直った。
「それまでに身辺を整理なさい。踊り子との関係も、むろん、きれいに清算すること。よろしいですね」
豊乃は答えなかった。ただ青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「返事は?」
「……承知いたしました」
絞り出すような声だった。
詞乃は豊乃を見た。この人は今、自分の心を殺した。エリゼを愛していると認めれば、すべてを失う。だから認められない。眞璃の正しさの前で、自分の気持ちをまた暗いところへ押しこめた。
眞璃が馬車へ戻り、去っていったあとも、豊乃はしばらく動かなかった。
「豊乃さん」
詞乃が声をかけると、豊乃はゆっくりとこちらを向いた。
その顔はひどく白かった。額に脂汗が浮いている。様子がおかしかった。
「私は」
豊乃の声が揺れた。
「私は正しい選択をしているはずです。なのに、どうしてこんなに」
言葉の途中で、豊乃の体がぐらりと傾いた。
「豊乃さん!」
詞乃が駆け寄ったときには、豊乃はもう崩れ落ちていた。慌てて支える。腕の中の体は、燃えるように熱かった。高熱だった。心の重さに、体が耐えきれなくなったように。
「玲さん!豊乃さんが!」
玲が血相を変えて飛んできた。二人がかりで、豊乃を寮の自室へ運んだ。
寝台に横たえられた豊乃は、浅い息をしていた。うわごとのように何かを繰り返している。詞乃が耳を寄せると、それはひとつの名前だった。
「エリゼ……エリゼ……」
高熱に浮かされ、判断力を失った豊乃は、もう自分を取り繕えなかった。
心の奥に押しこめていた名前が、熱とともに口から溢れ出していた。
玲が、その枕元で唇を噛んでいた。
「……このままでは、いけない」
玲は低く呟いた。
そして机に向かい、一枚の白い便箋を取り出した。万年筆を握る。詞乃は、嫌な予感に息を呑んだ。
「玲さん。何を」
「豊乃さまに代わって、けじめをつけるのです」
玲の声は硬かった。
「豊乃さまは、ご自分では踊り子を切れない。情に流される。ならば私がやるしかない。豊乃さまの名で別れを告げます。それが、あの方のためです」
「待ってください。それは」
「これしか、ないのです」
玲の万年筆が、白い便箋の上を滑りはじめた。豊乃の筆跡を真似て、冷たい別れの言葉を綴っていく。
詞乃は止めようとした。けれど玲の目には、悲壮な決意があった。この人もまた、自分なりのやり方で豊乃を守ろうとしている。その必死さが、かえって最悪の結末へ向かっていた。
窓の外で、日が傾いていく。
その白い手紙がエリゼのもとへ届けば、本の通りの結末が動き出してしまう。置き去りにされたと信じたエリゼが、赤い靴にすべてを明け渡してしまう。
詞乃は、寝台の豊乃を見た。熱に浮かされ、エリゼの名を呼びつづける哀れな令嬢を。それから、便箋に走る玲の手を見た。
時間が、なかった。




