第14話 舞姫は捨てられた
白い手紙は、その日の夕暮れに届けられた。
劇場の楽屋で、エリゼはそれを受け取った。差出人の名を見て頬がぱっと輝いた。豊乃の名だった。待ち焦がれた人の筆跡だった。
震える指で封を切る。封蝋の欠片が膝に落ちた。
窓から差しこむ西日が、便箋を橙に染めていた。エリゼはその光に紙をかざし、一文字ずつ舐めるように読んでいった。
最初の数行で、その笑みが固まった。
『あなたとのことは過ちでした。』
文字が目の中で滑った。エリゼはもう一度、頭から読み返した。読みまちがいだと思った。けれど何度読んでも、墨で書かれた文字は同じことを告げていた。
『私は帝国へ帰ります。どうか私を忘れてください。』
手紙が指から滑り落ちた。
ひらりと床に舞った紙を、エリゼはただ見おろしていた。理解が追いつかないようだった。西日がその白い紙を、血のような色に染めていた。
「うそ」
声が掠れた。
「うそよ。豊乃さまが、こんなこと書くわけない」
けれど筆跡は、確かに豊乃のものだった。玲が心を込めて真似た、完璧な偽物。エリゼには、それを見抜く術はなかった。
楽屋が静まりかえっていた。
化粧前の鏡に、自分の顔が映っていた。血の気の引いた、幽霊のような顔。その頬をつうと一筋、涙が伝った。鏡の中の自分が泣いていた。それをどこか他人事のように、エリゼは見ていた。
遠くで鐘が鳴った。
その音を合図にしたように、足元でかたんと音がした。
赤い靴だった。
脱いで隅に置いたはずのそれが、ひとりでにこちらへ近づいてくる。とん、とんと床を打ちながら。慰めるように、あるいは誘うように。エリゼのすぐ足元まで。
エリゼはその靴を見おろした。
涙でぬれた目に、赤がにじんで映った。
「そうね」
エリゼは呟いた。声に力がなかった。
「もう待たなくていいのね。迎えは来ないのね」
靴に足を入れた。吸いつくように靴が足を包んだ。その瞬間、体の奥から音楽が湧き上がってきた。誰も弾いていないピアノの旋律。三拍子の、急きたてるような調べ。
エリゼの足が、ひとりでに動きはじめた。
楽屋を出る。暗い廊下を抜け、舞台へ。誰もいない客席に向かって、エリゼは踊りはじめた。
くるりと回る。腕を、誰もいない宙へ差し伸べる。豊乃がいるはずの場所へ。けれど、そこには誰もいない。空っぽの闇があるだけ。それでもエリゼは、その闇に向かって微笑みかけていた。
「豊乃さま。見ていてくださいね。わたしの踊り」
とんと爪先が床を打つ。
「上手に踊れているでしょう?」
くるりと回る。金色の髪が尾を引いた。
その踊りは美しかった。ぞっとするほど美しかった。けれど、どこにも行き先がなかった。誰のためでもなく、ただ止まれないから踊っている。止まったら自分が消えてしまうと信じているから。
ちょうどそのとき、詞乃が劇場へ駆けこんできた。
玲の手から手紙を奪い取れなかった。寮を飛び出すのが一歩遅かった。息を切らして扉を押した詞乃の目に、舞台の上の光景が飛びこんできた。
エリゼが踊っていた。
笑いながら。涙を流しながら。誰もいない客席に向かって、来るはずのない人の名を呼びながら。
「エリゼさん!」
詞乃は叫んだ。客席を駆け抜け、舞台へ走る。けれどエリゼには、その声が届いていないようだった。靴の音楽に、すべてを明け渡してしまっていた。
舞台に駆け上がり、詞乃はその光景に息を呑んだ。
音楽など鳴っていなかった。
ピアノの音も、何も。劇場はしんと静まりかえっていた。それなのにエリゼは、聞こえない音楽に合わせて、笑いながら踊っていた。空っぽの客席に向かって。空っぽの約束を信じたまま。
そして、足元。
赤い靴の赤が、少しずつ濃くなっていた。爪先が床を打つたびに、その色が生々しさを増していく。床に点々と、赤い跡が残りはじめていた。
「エリゼさん、やめて。止まって!」
詞乃はその腕をつかもうとした。けれど、踊るエリゼの体はつかみどころがなかった。くるくると回り、するりと詞乃の手をすり抜ける。靴が彼女を操っていた。
「久遠さん」
回りながら、エリゼがこちらを見た。
涙にぬれた顔で、それでも幸せそうに微笑んでいた。その微笑みが、何より恐ろしかった。
「わたし、もう何も怖くないの。豊乃さまのことだけ考えて踊っていれば、何も考えなくていいんだもの」
とんと爪先が床を打つ。赤がまた濃くなった。
「ずっとこうして踊っていたい。豊乃さまがいなくても。わたしが消えても」
詞乃の背筋を、冷たいものが走った。
間に合わなかった。本の通りの結末が、もう始まってしまっていた。置き去りにされたと信じたエリゼが、赤い靴に心を明け渡してしまった。
舞台の上で、少女が笑いながら踊っている。
誰も弾いていない音楽に合わせて。靴の赤だけが、ゆっくりと濃くなっていく。




