第15話 あなたは捨てた側です
詞乃はエリゼを舞台に残し、坂を駆け上がった。
息が切れた。夜気が冷たく喉を刺す。寮の扉を蹴破る勢いで開け、豊乃の自室へ走りこんだ。
豊乃は寝台に横たわっていた。額に濡れた手拭いが載っている。玲の姿はなかった。手紙を届けに行ったのだろう。詞乃の胸に、怒りに似た熱が突き上げた。
「豊乃さん。起きてください」
詞乃は豊乃の肩を揺さぶった。豊乃がうっすらと目を開ける。熱で潤んだ瞳が、ぼんやりと詞乃を映した。
「久遠、さん……」
「エリゼさんが踊りつづけています。赤い靴に呑まれて。あなたからの別れの手紙を信じて」
豊乃の目が見開かれた。
「手紙……? 私は、そんなもの」
「玲さんが、あなたの名前で書いたんです。あなたの筆跡を真似て。あなたが踊り子を切れないから、自分がやると」
豊乃は寝台から身を起こそうとした。けれど熱で力が入らず、また枕に沈んだ。
「私は知りません。私は、何も」
「知らなかったから、無罪なんですか?」
詞乃の声が鋭く飛んだ。
豊乃が息を呑んだ。熱に潤んだ目が、詞乃を見上げる。
「玲さんが書いた。あなたは知らなかった。それで、あなたの手はきれいなままですか? エリゼさんが今、血のにじむ靴で踊りつづけているのは、あなたのせいじゃないと?」
「私は、流されただけで」
「流されたから、傷つけていないことになるんですか」
詞乃は豊乃の襟元をつかんだ。熱い体だった。それでも容赦しなかった。ここで容赦すれば、この人は一生、自分を被害者の側に置きつづける。
「あなたはずっと言い訳してきた。帝国に選ばれたから、家のためだから、玲さんが正しいから。全部、誰かのせいにして、自分は何も選んでいないふりをしてきた」
豊乃の唇が震えた。
「だって、私は」
「エリゼさんを捨てたのは、玲さんじゃない」
詞乃はまっすぐに、豊乃の目を見た。
「彼女を選ぶ覚悟を最後まで持てなかった、あなたです」
部屋が静まりかえった。
豊乃の目から、ふいに涙が溢れた。熱のせいではなかった。長いあいだ自分でも目を逸らしてきたものを、初めて正面から突きつけられた者の涙だった。
「……そうです」
声が掠れていた。
「あなたの言うとおりです。私は選ばなかった。エリゼを愛していると認めるのが怖かった。認めてしまえば、私が積み上げてきたものが全部崩れる気がして。だから、玲が手を汚すのを止めなかった。心のどこかで、これで楽になれると思っていた」
豊乃は両手で顔を覆った。
「私は最低です。あの子を誰より傷つけたのは、私だ」
詞乃は、襟をつかんでいた手をゆるめた。
ここまでだ、と思った。この人を責めるのは、ここまででいい。豊乃はようやく、自分の弱さを直視した。それが救済の出発点だった。誰かのせいにしているうちは、何も始まらない。自分の罪を認めて初めて、人はやり直せる。
「なら」
詞乃は声を落とした。
「やり直してください。今からでも」
豊乃が顔を上げた。涙にぬれた目に、かすかな光が宿っていた。
「間に合い、ますか」
「分かりません。でも、まだエリゼさんは踊っています。生きて、踊っています。あなたの言葉を待ちながら」
豊乃は寝台から身を起こした。今度は力が入った。ふらつきながらも、足を床に下ろす。
「玲を止めなければ。そして、エリゼに、私自身の言葉で」
豊乃は寝間着のまま立ち上がった。裸足だった。靴を履く時間さえ惜しかった。
「待ってください。せめて靴を」
「いりません」
豊乃は首を振った。その目には、もう迷いがなかった。
「あの子は血のにじむ靴で踊っている。私だけが足を守るわけにはいかない」
豊乃は扉へ向かって走り出した。裸足の足が、冷たい廊下の石を蹴る。詞乃も、その後を追った。
夜の坂を、二人は駆け下りた。
月が雲から出ていた。劇場の輪郭が、青白く浮かんでいる。その中からかすかに、足音が聞こえてきた。とん、とんと。誰もいない舞台で、まだ踊りつづけるエリゼの足音だった。
豊乃の足が速くなった。裸足の足裏が石畳に擦れ、傷ついていく。それでも止まらなかった。初めて自分の意思で、自分の足で、愛する人のもとへ走っていた。
劇場の扉が、見えてきた。




