第16話 告白は舞台の上で
劇場の扉を押し開けた瞬間、詞乃は立ちすくんだ。
無人だったはずの客席が、人で埋まっていた。
ガス灯がいつのまにか灯され、ざわめきが満ちている。帝国の徽章をつけた留学生たち。豪奢な洋装の貴族令嬢たち。そして最前列に、天方院眞璃が座っていた。扇を手に、舞台を冷ややかに眺めている。物語が観客を呼び寄せていた。最後の幕を見届けさせるために。
舞台の上では、エリゼがまだ踊っていた。
赤い靴が床に赤い円を描いている。その動きは、もう踊りというより痙攣に近かった。笑みを貼りつけたまま、息も絶え絶えに、それでも止まれない。観客たちは、その異様な美しさに声もなく見入っていた。
「エリゼ!」
豊乃が客席を駆け抜けた。裸足の足が絨毯を蹴る。観客がどよめいた。眞璃の扇が、ぴたりと止まった。
「豊乃。おやめなさい。みっともない」
眞璃の声が鋭く飛んだ。
「踊り子のために、帝国の令嬢が裸足で走るなど。あなた、自分が何をしているか分かっているのですか」
豊乃は足を止めなかった。舞台へ駆け上がり、踊るエリゼの前に立った。
「エリゼ。私を見て」
エリゼの目が豊乃を捉えた。けれど、その瞳には焦点がなかった。
「豊乃さま……? いいえ、ちがう。豊乃さまは、もう来ない。これは、まぼろし」
くるりと回って、エリゼは豊乃をすり抜けた。
「手紙をもらったの。過ちだったって。忘れてって。だからわたし、踊っているの。豊乃さまのことを忘れられるまで」
豊乃の顔が歪んだ。
「あの手紙は、私が書いたものじゃない。玲が、私の名で。私は、あんなこと思っていない」
「うそ」
「うそじゃない!」
豊乃の声が劇場に響きわたった。観客が息を呑む。眞璃の眉がつり上がった。
豊乃は、エリゼの前に膝をついた。帝国の令嬢が、衆人環視の中で、踊り子の前に跪いた。観客がいっせいにどよめいた。
「エリゼ。私は、あなたに謝らなければならない」
豊乃の声は震えていた。けれど、はっきりと劇場の隅々まで届いた。
「私はあなたを愛しています。ずっと愛していた。けれど、それ以上に、まず謝らせてください。私はあなたの人生を、私の覚悟のなさで壊そうとしました」
エリゼの足が、わずかに緩んだ。
「私は、帝国が怖かった。家が、世間が、玲の正しさが怖かった。あなたを選べば、すべてを失うと思った。だから逃げた。あなたを盾にされても、何も言い返せなかった。あなたを見捨てようとした」
豊乃の目から涙がこぼれた。
「ごめんなさい。あなたをこんなになるまで一人にして。ごめんなさい」
エリゼの動きが、止まりかけた。赤い靴が、それでもまだ足を引きずろうとする。とん、と弱く床を打った。
そのときだった。
「エリゼさん」
詞乃が舞台に上がった。エリゼと豊乃のあいだに立った。
観客が、見知らぬ少女の登場にざわめいた。眞璃が苛立たしげに扇を鳴らした。けれど詞乃は、誰も気にしなかった。エリゼだけを見ていた。
「豊乃さんを許すかどうか、この手を取るかどうか、あなたが決めていいんです」
エリゼの、焦点の合わない目が、詞乃を捉えた。
「わたしが……決める?」
「そう。今まであなたは、選ばれるのを待っていた。豊乃さんに選ばれたら、ここにいていい。選ばれなかったら、消えるしかない。そう思っていた。でも、ちがう」
詞乃は、エリゼの目をまっすぐに見た。
「許すのも許さないのも、あなたの自由。豊乃さんのもとへ行くのも行かないのも、あなたが選ぶこと。あなたが生きるかどうかを、豊乃さんにも、その靴にも決めさせないで」
エリゼの瞳に、初めて焦点が戻った。
貼りついていた笑みが、はがれ落ちた。かわりに、くしゃりと泣き顔になった。本物の、エリゼの顔だった。まぼろしの踊りの中から、彼女自身が戻ってきた。
「わたし」
エリゼの唇が震えた。
「わたし、ずっと待っていただけだった。選ばれるのを。誰かに、ここにいていいって言ってもらえるのを」
赤い靴が、なおも、とんと床を打った。最後の力で、エリゼを引きずろうとする。
けれどエリゼは、その足を、初めて自分の意思で止めようとしていた。
「でも、もう」
エリゼの目が、足元の赤い靴へ落ちた。
その瞳に、これまでなかった光が宿りはじめていた。




