第17話 舞姫は自分で踊る
エリゼは、足元の赤い靴を見おろしていた。
爪先から、点々と血がにじみ、舞台の板を濡らしている。けれど、もう、その靴は彼女を引きずれずにいた。エリゼの瞳に焦点が戻ったいま、靴を急きたてていた音楽が、少しずつ遠のいていく。
エリゼは、ゆっくりと、片足を持ち上げた。
靴に手をかける。きつく結ばれたリボンを、ほどく。指が血で滑った。それでも、ほどいた。片方を脱ぎ、もう片方を脱ぐ。脱いだ靴を、両手で、そっと持ち上げた。
劇場が、静まりかえっていた。
エリゼは、舞台の中央まで歩いた。裸足の足が、冷たい板を踏む。一歩ごとに、血の足跡が残った。けれど、その歩みには、もう、引きずられる者の痙攣はなかった。自分の意思で、自分の足で、歩いていた。
舞台の中央に、赤い靴を置いた。
血に染まった、二つの靴。それを、訣別するように見おろしてから、エリゼは、観客のほうへ向き直った。
そして、踊りはじめた。
音楽は、なかった。誰も弾いていない。ピアノも、何も。劇場は、しんと静まったまま。それなのに、エリゼは踊った。裸足で、血を流しながら、けれど、今までで、いちばん美しく。
くるり、と回る。腕を、宙へ差し伸べる。けれど、その腕は、もう誰かを待ってはいなかった。誰かに見つけてもらうための踊りでも、誰かに選ばれるための踊りでもなかった。
自分が、ここにいる。
ただ、それだけを刻む踊りだった。
観客が、息を呑んだ。前のめりになる者、目を見開く者。徽章をつけた留学生も、豪奢な令嬢も、誰もが、その裸足の踊りから目を離せなかった。赤い靴を履いていたときよりも、ずっと、彼女は輝いていた。
最前列の眞璃さえ、扇を持つ手を止めていた。
「ばかな」
眞璃が、掠れた声で呟いた。
「踊り子ごときが。あんな、卑しい生まれの娘が」
けれど、その声に、力はなかった。眞璃の目もまた、エリゼの踊りに捉えられていた。生まれだの家柄だのという物差しが、この踊りの前では、まるで意味をなさなかった。
豊乃が、立ち上がった。
裸足のまま、眞璃の前に進み出る。
「天方院さま」
豊乃の声は、もう震えていなかった。
「私は、帝国へは戻りません」
眞璃が、はじかれたように豊乃を見た。
「何ですって。あなた、自分が何を言っているか」
「分かっています」
豊乃は、まっすぐに、眞璃を見返した。熱で青ざめた顔に、けれど、揺るぎない光があった。
「私は、帝国を捨てるのではありません。恋を捨てなければ仕えられない帝国なら、その仕え方を、変えるだけです。私は、ここに残る。エリゼのような芸術家が、生まれだけで踏みにじられない場所を作ります」
「世迷い言を。あなたを帝国が許すとでも」
「許されなくても、やります」
豊乃の声が、劇場に響いた。
「私は、もう逃げません。選びます。自分の責任で、自分の未来を」
眞璃は、何か言い返そうとした。けれど、言葉が、出てこなかった。
観客の空気が、変わっていた。誰も、眞璃に味方しなかった。みな、舞台の上の裸足の踊り子に、心を奪われていた。眞璃がエリゼを「ただの踊り子」と切り捨てようとしても、もう、誰一人、その目で彼女を見られなくなっていた。
眞璃は、唇を噛んだ。扇を握りしめ、立ち上がる。
「……勝手になさい。帝国は、あなたを忘れます」
そう吐き捨てると、眞璃は、逃げるように劇場を出ていった。誰も、引き止めなかった。
舞台の上で、エリゼは、まだ踊っていた。
血の足跡が、舞台に、花の模様のように広がっている。けれど、その顔は、もう泣いていなかった。涙のかわりに、汗が光っていた。生きている者の、汗だった。
やがて、エリゼの踊りがゆっくりと終わった。
最後の一回転を終え、エリゼは、舞台の中央に、すっと立った。肩で息をしながら、まっすぐに、客席を見渡した。
一瞬の静寂。
それから、劇場が拍手で割れた。
留学生が、令嬢が、いっせいに立ち上がり、手を打ち鳴らした。万雷の拍手が、エリゼ一人へ、降りそそいだ。生まれも、家柄も、関係なかった。ただ、一人の舞姫の踊りに対する、まっすぐな喝采だった。
エリゼは、その拍手の中で、立ち尽くしていた。
信じられない、というように、客席を見渡す。それから、舞台の袖に立つ詞乃を見た。
詞乃は、ただ、頷いた。
エリゼの目から、また、涙がこぼれた。けれど、それは、もう、置き去りにされた者の涙ではなかった。自分の足で立った者の、誇らしい涙だった。
豊乃が、舞台へ駆け上がった。エリゼのもとへ。けれど、抱きしめる前に、足を止めた。そして、問いかけるように、手を差し出した。
選ぶのは、エリゼだった。
エリゼは、その手を見つめた。




