第18話 赤い靴は恋文に変わる
舞踏会の喧騒が去って、数日が過ぎた。
異国の区画に、穏やかな朝が戻っていた。石畳に陽がさし、パン屋の窓から焼きたての匂いが流れる。けれど何かが、以前と変わっていた。劇場の前を通る人々が足を止め、貼り出された一枚の告知を見上げている。
エリゼ・ヴァイス、単独公演。
詞乃はその文字を見上げて、小さく微笑んだ。
劇場の中へ入ると、舞台でエリゼが稽古をしていた。裸足ではなかった。新しい白い舞踏靴を履いている。血の色とは無縁の、清潔な白だった。その足が軽やかに床を蹴る。誰に強いられるのでもなく、自分の意思で。
「久遠さん!」
エリゼが詞乃に気づいて駆け寄ってきた。頬に赤みがさし、目には生気が満ちていた。あのまぼろしの中で踊っていた少女とは、別人のようだった。
「足、もう大丈夫なの?」
「ええ。すっかり。先生がいいお医者さまを呼んでくださって」
先生、というのは豊乃のことだった。エリゼの顔が、その名を口にすると自然とやわらかくなる。
「豊乃さんとは」
「恋人になりました」
エリゼははにかんだ。けれど、その表情には以前のような、すがるものはなかった。
「でも、前とはちがうんです。前は、豊乃さまに選ばれた自分しかいなかった。今は、わたしにはわたしの舞台があります。豊乃さまは、わたしを愛してくれる人。でも、わたしを生かしてくれるのは、わたし自身の踊りなんです」
その言葉に、詞乃の胸が温かくなった。
救えた。今度も本の通りの結末を変えられた。捨てられて壊れるはずだった舞姫は、自分の足で立った。豊乃も、逃げるだけの令嬢ではなくなった。眞璃の帰国命令を破った豊乃は、帝国の出世ルートからは外れたけれど、行き場を失ったわけではなかった。この区画に残り、異国の芸術家を守る仕組みを作りはじめていた。
「これを」
エリゼが詞乃に、何かを差し出した。
一本のリボンだった。あの赤い靴を結んでいたリボン。けれど、もう血の色はどこにもなかった。きれいに洗われ、淡い色を取り戻している。
「あなたに、もらってほしくて」
「いいの? 大事なものでしょう」
「だからこそ、あなたに」
エリゼは詞乃の手に、リボンを握らせた。その手は温かかった。
「あなたが、わたしの足を返してくれました」
エリゼの目が潤んでいた。
「豊乃さまは、わたしを愛してくれた。でも詞乃さまは、わたしがわたしを愛せるようにしてくれた。それはちがうものだけど、どちらも同じくらい大切なんです」
詞乃はリボンを握りしめた。
その想いの重さが、手のひらから伝わってきた。感謝というだけでは片づかない何か。第1章の真白が向けてきたものと、同じ熱を持った何か。救った相手がまた一人、詞乃に消えない想いを残していく。
そのとき、劇場の入口に人影が立った。
真白だった。
いつのまにか女学院の区画から、ここまで来ていた。白百合のように静かな佇まいで、詞乃とエリゼのやりとりをじっと見ていた。
「真白さん」
詞乃が振り向くと、真白はゆっくりと近づいてきた。エリゼが不思議そうに、二人を見比べる。
真白の目が、詞乃の手の中のリボンに留まった。
「詞乃さん」
真白の声は穏やかだった。けれど、その奥にかすかな棘があった。
「あなたは、また誰かの恋文になったのですね」
詞乃はどきりとした。
「そういうわけじゃ」
「いいえ。分かります。私もそうでしたから」
真白は微笑んだ。けれど、その微笑みの裏で、白い指が自分の袖口をそっと握っていた。あの舎監室で見た仕草と、同じだった。
「あなたは、救った相手に心を残しすぎる。だからみんな、あなたを忘れられなくなる」
静かな嫉妬だった。
詞乃は何も言えなかった。真白の言うことは当たっていた。救えば救うほど、想いが降り積もっていく。それがこれから、自分にどんな重さでのしかかってくるのか、まだ詞乃には分からなかった。
エリゼが、二人のあいだの空気に気づいて、そっと身を引いた。
「あの、わたし、稽古に戻りますね」
軽やかに舞台へ駆けていくエリゼを見送って、詞乃は真白とともに劇場を出た。
女学院への帰り道、図書室に立ち寄った。
いつもの書架の前で、詞乃は足を止めた。
一冊の本に、見覚えのあるリボンが巻きついていた。エリゼからもらったものと同じ淡い色の。けれど、これは別のリボンだった。本の背に、そっと結ばれている。次の物語が、もう詞乃を呼んでいた。
本の題名を、詞乃は読んだ。
『たけくらべ』。
隣で、真白が静かに詞乃の手を取った。
「次は、どの子を救うの?」
その指は温かく、そして離さないという意思を込めて、詞乃の手を包んでいた。




