第8話 先生の遺書は、恋文に変わる
約束の朝が来た。
遺書に記されていた、七日後の日付。本の通りならすべてが終わっていたはずの日。
私は夜が明ける前に目を覚まし、寄宿舎の窓から庭を見ていた。白百合が朝露に濡れて、ほのかに光っている。匂いはまだ薄い。眠っている花の、静かな呼吸のようだった。
昨夜、二枚の便箋は舎監室の暖炉で燃やした。火に近づけると紙は一瞬で縮れ、橙の炎をあげて灰になった。煙がわずかに墨の匂いを残した。真白はそれをじっと見届けていた。終わらせるべきものが確かに終わるのを。
朝の鐘が鳴った。
私は舎監室へ向かった。扉は半分開いていた。
中に真白がいた。書き物机に向かって、何かを書いている。
心臓がひやりとした。けれど近づいて分かった。手元の紙はあの白い便箋ではない。淡い桜色の便箋だった。
「先生」
真白が振り返った。
その顔を見て、私は息を呑んだ。
血の気のなかった頬に、ほのかな赤みがさしている。
氷でできていた表情が溶けて、やわらかくなっていた。目元はまだ少し腫れていたけれど、その奥にもう死の影はなかった。
生きている人の、迷いながらも前を向いたまなざしだった。
「久遠さん。おはよう」
声が温かかった。初めて聞く、温度のある声だった。
「何を、書いていらっしゃるんですか」
私はおそるおそる聞いた。
真白は少しはにかんだ。そして桜色の便箋を、私に見せた。
「恋文よ」
書き出しはこうだった。
拝啓、桂木薫子さま。
「墨で遺書を書くつもりだった手で」
真白は便箋を愛おしそうに見おろした。
「今は恋文を書いているの。おかしいでしょう? 同じ手で、同じ万年筆で。死ぬための言葉を書くはずだった紙が、生きるための言葉に変わってしまった」
私の目の奥が熱くなった。
救えた。本の通りの結末を変えられた。誰も消えなかった。誰も墨に最期を託さなかった。
窓から朝日が差しこんだ。桜色の便箋を、真白の頬を、その手の万年筆を、金色に照らす。白百合の匂いが朝の光とともに部屋に満ちてきた。それはもう葬列の匂いではない。祝福のような、生きている朝の匂いだった。
「ありがとう」
真白が言った。
万年筆を置いて立ち上がり、私のほうへ歩いてくる。
「あなたがいなければ。あなたがあの遺書を拾わなければ。私は今日、ここにいなかった」
真白の手が、私の手を取った。温かかった。あの氷のようだった手が、今は人の熱を確かに宿していた。
「久遠さん」
真白は私の目をじっと見た。
その目に、私はなにか見慣れないものを見た気がした。感謝とは少しちがう。もっと深くて、もっと逃げ場のないなにか。
「あなたは、私の罪を読んだわ」
真白の声が低くなった。指が私の手を、ほどけないほど強く握っている。
「誰にも見せなかった、私のいちばん醜い場所を。墨にするしかなかった私の死を。あなたは読んでしまった。誰よりも深く」
私の背筋を、ぞわりとなにかが這った。
それは恐怖ではなかった。けれど安心でもなかった。もっと名づけがたい、甘くて重たい予感だった。
「あの」
手を引こうとした。けれど真白は離さない。微笑んでいた。やわらかく、けれどどこか執着のにじむ微笑みで。
「ねえ、久遠さん」
真白が顔を近づけた。朝日が二人のあいだの埃の粒を、きらきらと光らせる。
「あなたは、私の罪を読んだ。なら次は」
真白の唇が囁くように動いた。
「私の恋も、読んでくださる?」
窓の外で、白百合がいっせいに朝風に揺れた。
甘い匂いが波のように押し寄せる。
私はこの人を救ったはずだった。
救ったはずなのに、その瞳の奥で、もっと深いものが私に向かってひらきはじめていた。
あとゼロ日。
遺書の日付は過ぎた。静宮真白は生きている。
けれど私はまだ知らなかった。
救った相手から向けられる愛が、これほどまでに重く、逃げ場のないものだということを。
真白が、その重い指で次の一冊を差し出してくる。表紙には見たことのない海と、異国の文字。沖を渡る船の影。指先で背を撫でると、潮の匂いがした。白百合の庭にあるはずのない、遠い異国の匂いだった。
「あなたなら、この子も読めるはず」
受け取ろうと伸ばした手を、真白がつかんだ。
「でも、覚えておいて」
声が、急に低くなった。
「あなたが次の子を救えば、その子もきっと、私と同じ目であなたを見るようになるわ。あなたに救われた女は、あなたから離れられなくなるの。私が、そうであるように」
顎に、冷たい指がかかった。
上向かされた、と気づいたときには、もう遅かった。
唇が、ふさがれていた。
やわらかく、けれど逃がさない口づけだった。
朝の冷気のなかで、そこだけが燃えるように熱い。
真白の指が私の後頭部に回り、髪を梳くように、けれど確かに、退路を断つように添えられる。潮の匂いと、白百合の匂いが、混ざって眩暈がした。
息ができない。けれど、振りほどく気力も、なぜか湧かなかった。
ようやく唇が離れたとき、真白は、満たされたように微笑んでいた。
「いってらっしゃい、私の救い主さん」
手の中で、箔押しの題字が、朝日に鈍く光る。
『舞姫』と、そこには記されていた。
次の物語の幕が、もう、上がろうとしていた。




