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第6話 あなたは卑怯でも、まだ生きていい


 その夜、私は舎監室の扉の前に立っていた。


 廊下の灯りが、低く落とされていた。寄宿舎は寝静まり、足音ひとつしない。扉の下から、細く、灯火の橙が漏れていた。まだ、起きている。


 私は、ノックをした。返事を待たずに、扉を押した。


 真白は、書き物机に向かっていた。手には、万年筆。その下に、白い便箋。


 私の心臓が、跳ねた。


 あの紙だ。胸の内に温めてきた、あの遺書と、同じ便箋。今まさに、この人は、それを書こうとしていた。


「久遠さん、こんな時間に。無作法ではないかしら」


 真白の声は、静かだった。けれど、その静けさが、かえって恐ろしかった。覚悟を決めた人間の、凪いだ声だった。


「先生。何を、書いていらっしゃるんですか」


 私は、机に近づいた。真白が、さりげなく便箋を伏せた。けれど遅かった。インクの、書きかけの一行が、見えてしまった。


『これを読むあなたへ』


 あの書き出しだった。


「先生」


 私は、伏せられた便箋に、自分の手を置いた。


「これを、書かないでください」


 真白の表情が、初めて、はっきりと崩れた。氷が、音を立てて割れた。


「あなたには、関係のないことよ」

「あります。私は、これを、もう読んでしまったから」


 私は、上衣の内側から、七日後の日付の便箋を取り出した。机の上に、そっと置いた。


 真白が、息を呑んだ。自分の筆跡を、自分のまだ書いていないはずの言葉を、目の前に突きつけられて。


「どうして、これを?」

「拾ったんです。あなたが、これを書く前に」


 真白の手が、震えていた。万年筆が、指から滑り落ちて、机を転がった。


「なら、知っているのでしょう? 私が、どれだけ醜いか。誰かを想って、その想いを認められなくて、別の子を騙して、盾にして、逃げて。そんな人間が、生きていていいはずがない」


「卑怯ですね」


 私は、言った。


 真白が、打たれたように顔を上げた。


「ええ。あなたは、卑怯です。自分の気持ちから逃げて、咲さんを巻きこんで、桂木さんを追い詰めた。全部、あなたの弱さのせいです」


 残酷な言葉だと、分かっていた。けれど、ここで優しい嘘を言ってはいけなかった。本の中で、誰も、この人に本当のことを言わなかった。だから、この人は、自分を責めることしか、できなくなった。


「そう。だから、私は……」


私は真白に続きの言葉を言わせなかった。


「でも」


 私は、真白の手を、両手で包んだ。冷たかった。氷のように。けれど、その下に、脈があった。


「卑怯でも、生きていいんです」


 真白の目が、見開かれた。


「人は、誰だって卑怯です。逃げるし、嫉妬するし、大切な人を傷つける。あなただけじゃない。それは、消えなければいけない罪なんかじゃ、ない」


「でも、私は、桂木さんを――」

「桂木さんは、生きています。今夜も、生きています。あなたが謝れば、まだ、間に合う。まだ何も、失ってなんかいない」


 真白の頬を、ひとすじ、涙が伝った。


 長いあいだ、堰き止めてきたものが、ついに溢れた。氷が溶けて、流れ出した。真白は、声を殺して、泣いた。肩を震わせて。子どものように。


「私は、ずっと」


 しゃくり上げながら、真白は言った。


「ずっと、この気持ちを、墨にするしかないと思っていた。誰にも言えないから。言えば、軽蔑されるから。だから、こうやって、紙に書いて、それで終わりにするしか」


「ちがいます」


 私は、机の上の、二枚の便箋を取った。書きかけの一枚と、七日後の一枚。両方を。


「罪悪感を、遺書になんて、しないでください。墨に託さないでください。届ける相手が、ちがう」


 私は、真白の濡れた目を、まっすぐ見た。


「本人に、言ってください。桂木さんに。墨にしか書けなかった言葉を、生きている本人の前で、あなたの声で」


 真白は、私を見つめた。涙でぬれた目が、灯火を映して、揺れていた。その奥で、長いあいだ凍りついていたものが、ゆっくりと、流れはじめていた。


「言って、いいの?」


 真白の声は、幼かった。


「私の、こんな気持ちを、本人に、ぶつけて、いいの?」


「いいんです。それが、生きるということです」


 窓の外で、夜風が、白百合を揺らしていた。匂いは、夜のほうが、濃かった。けれどそれは、もう、葬列の匂いではなかった。


 あと、三日。


 私は、二枚の便箋を、灯火にかざした。


「これは、もう、要りませんね」


 真白は、何も言わなかった。ただ、私の手を、震える指で、そっと握り返した。


 その手の温度が、少しずつ、上がっていくのが、分かった。

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