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第5話 原作通りなら、ここで告白が奪われる


 その日の午後から、空気が変わった。


 最初に気づいたのは、咲だった。昼下がりの廊下で、咲が私の袖を引いた。頬が、いつもより上気していた。


「久遠さん、聞いて。静宮先生が、わたしに、寄宿舎の自室を移らないかって。先生のお部屋の、すぐ隣に」


 私の心臓が、嫌な音を立てた。


「それは……いつ?」

「さっき。とても優しく言ってくださって。あなたを近くで見ていたいって。わたし、嬉しくて」


 咲は、夢心地で頬に手を当てた。憧れの人に、特別に望まれた喜びに、まるごと包まれていた。


 けれど私には、見えていた。


 これは、真白の先回りだ。桂木を想う気持ちを、認められない真白が、その想いから逃げるために、咲を自分の側に引き寄せようとしている。咲を盾にして、桂木との距離を、決定的に断とうとしている。


 本の中で、すべてが手遅れになった、あの分岐だった。


 想いを告げるかわりに、別の誰かを自分の側に置く。そうやって、いちばん大切な人との道を、自分の手で塞いでしまう。あとには、取り返しのつかない後悔だけが残る、あの選択。


「咲さん、待って」


 私は、咲の手を握った。


「先生は、あなたを、利用しようとしているのかもしれない」

「利用?」


 咲の顔から、笑みが消えた。傷ついた目だった。


「ひどいわ、久遠さん。先生は、わたしを必要としてくださっているのよ。それを、利用だなんて」


 言ってしまってから、後悔した。咲には、何も悪いところはない。ただ、好きな人に望まれて、嬉しかっただけだ。それを、こんなふうに踏みにじる権利は、私にはない。


「ごめんなさい。今のは、忘れて」


 咲は、悲しげに私を見て、行ってしまった。


 私は、走った。


 桂木を探した。渡り廊下に、中庭に、図書室に。けれど、どこにもいなかった。胸騒ぎが、足を速めさせた。間に合わなければ。二人のあいだの最後の糸が、切れてしまう前に。


 桂木は、礼拝堂の裏手にいた。


 石壁にもたれ、地面を見つめていた。手には、一枚の紙片。それを、握りつぶすように持っていた。


「桂木さん」


 桂木が、顔を上げた。眼鏡の奥の目が、赤かった。泣いたあとの目だった。


「……御影さんから、聞いたわ」


 桂木の声は、乾ききっていた。


「静宮先生が、御影さんを、お部屋の隣に。先生は、あの子を選んだのね。私ではなく」


 ちがう、と言いたかった。真白は咲を選んだのではない。桂木から、逃げただけだ。けれど、それを説明する言葉を、私はまだ持っていなかった。


「私は」


 桂木が、握りつぶした紙片を、見おろした。


「私は、ずっと、この気持ちを断とうとしてきた。修行の妨げだと。煩悩だと。捨てなければと。……でも、捨てられなかった。捨てられないまま、こんなことになった」


 紙片が、桂木の手の中で、くしゃりと音を立てた。


「もう、いいの。私が、身を引けばいいのよ。先生が、御影さんと幸福になれるなら。私がいなくなれば、すべて、丸くおさまる」


 その言葉に、私は凍りついた。


 いなくなれば。その言いかたが、ただ身を引くという意味ではないことを、私は知っていた。本の中の、あの人と、同じ目をしていた。自分を消すことで、もつれた糸を断ち切ろうとする、あの静かな決意の目を。


「だめ」


 気づけば、桂木の腕を、両手でつかんでいた。


「身を引くって、そういう意味でしょう? だめです。絶対に、だめ」


 桂木が、驚いたように私を見た。


「あなたに、何が分かるの?」

「分かります。あなたが、自分を消すことで、全部を終わらせようとしていること。それが、いちばん優しい解決だと、思いこんでいること」


 桂木の目が、揺れた。図星を突かれた者の、震えだった。


「でも、ちがう。あなたがいなくなって、丸くおさまるものなんて、ひとつもない。先生は、丸くおさまるどころか、あなたを失った罪を、一生、抱えこむことになる。それこそが、いちばん残酷な結末です」


「……どうして」


 桂木の声が、震えた。


「どうして、あなたが、そんなことを言うの? あなたは、何も知らないはずなのに」


 私は、答えられなかった。本の結末を知っている、とは言えない。


 けれど、握った腕は、離さなかった。桂木の手首は、細くて、冷たくて、けれど確かに脈打っていた。生きている熱が、私の手のひらに、とくとくと伝わってきた。


「お願いです」


 私は、声を絞り出した。


「まだ、何も終わっていません。先生の本当の気持ちも、あなたの本当の気持ちも、まだ、誰の口からも、語られていない。語られないまま、終わらせないで」


 桂木は、長いあいだ、黙っていた。


 やがて、握りしめていた紙片から、力が抜けた。くしゃくしゃになったそれが、地面に落ちた。


 風が、礼拝堂の裏の、名もない草を揺らした。白百合の匂いは、ここまでは届かなかった。かわりに、苔と、石の、湿った匂いがした。


 あと、四日。


 私は、桂木の腕を握ったまま、自分の心臓の音を聞いていた。


 間に合わせる。誰も、消えさせない。本の通りには、絶対にさせない。

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