第4話 先生は嫉妬しているのに、嫉妬していないふりをする
翌朝、食堂は白い湯気と、焼きたてのパンの匂いで満ちていた。
長机に少女たちが並び、紅茶のカップが鳴る。
私は隅の席から、斜め向こうの一角を見ていた。
真白が、いつもの澄ました横顔で、紅茶に口をつけていた。
その視線の先を、私は追った。
桂木がいた。離れた席で、御影咲と、なにか言葉を交わしている。咲が笑い、桂木が困ったように眉を下げる。ありふれた、後輩と先輩の朝の風景だった。
けれど、真白のカップが、受け皿に戻る音が、わずかに鋭かった。
磁器の触れ合う、かちり、という音。ほんの少しだけ、強すぎた。
私は、見逃さなかった。
真白は、桂木と咲のほうを見ていた。見ていないふりをして、見ていた。視線は手元の紅茶に落としているのに、意識のすべてが、あの二人に向いている。そういう緊張が、白い首筋の、細い筋にあらわれていた。
咲が、桂木の袖に、軽く触れた。
その瞬間だった。
真白の指が、カップの取っ手を、きゅっと握った。関節が白くなるほど。火傷しそうなほど熱い紅茶を、それでも一息に飲み干した。喉が、こくりと動く。痛みをこらえるみたいに、目をわずかに伏せて。
嫉妬だ。
この女は、まぎれもなく嫉妬している。
桂木が、自分以外の誰かと笑っている。たったそれだけのことで、この人の内側は、こんなにも乱れている。氷の表面の下で、水が、激しく渦を巻いている。
けれど真白は、立ち上がると、何事もなかったように食堂を出ていった。乱れた裾を直し、背筋を伸ばし、誰にも気づかれないように。自分の感情に、自分で蓋をして。
私は、追いかけた。
回廊で追いついて、声をかけた。
「先生」
真白が振り返る。すでに、表情は氷に戻っていた。
「ご気分が、優れないように見えました」
「気のせいよ」
即答だった。あまりに早く、あまりに滑らかな否定。
私は、一歩踏みこんだ。
「桂木さんと御影さん、親しそうにされていましたね」
真白の睫毛が、ほんの一瞬、震えた。それから、ゆっくりと微笑んだ。冬の湖面のような、温度のない微笑みだった。
「二人が仲良くするのは、よいことでしょう。私には、関係のないことだわ」
関係のないこと。
その言葉を口にしたとき、真白の手が、自分の袖口を、きつく握っていた。言葉とは裏腹に、体は正直だった。指の白さが、すべてを語っていた。
「そうでしょうか?」
私は、静かに言った。
「先生は、さっき、とても辛そうに見えました。桂木さんから、目を逸らせないでいらした」
真白の微笑みが、凍りついた。
長い沈黙があった。回廊の窓から、白百合の庭が見えた。風が花を揺らし、甘い匂いが、ここまで届いてきた。
「……あなたは」
真白の声が、初めて、かすれた。
「あなたは、見すぎている。人の心を、土足で踏み荒らすような真似をしているわ」
「すみません」
「いいえ」
真白は、首を振った。そして、ひどく疲れたように、窓枠に手をついた。
さっき桂木がそうしていたのと、同じ仕草だった。血のつながらない二人が、同じ姿勢で、同じ場所に立っている。
「醜いでしょう」
真白が、ぽつりと言った。窓の外を見たまま。
「自分以外の誰かと笑っているのを見ただけで、こんなに胸が騒ぐなんて。あの子の幸福を、喜べないなんて。私は――私は、自分のこういうところが、いちばん許せない」
声が、震えていた。
それは、氷が、ほんの少しだけ溶けて、滴り落ちた音だった。私の前で、初めて。
「醜くなんて、ないです」
私は言った。けれど真白は、首を振った。
「いいえ。醜いの。この気持ちは、誰にも、見せてはいけないものよ。だから私は――」
そこで、言葉が途切れた。
だから私は。その先を、真白は言わなかった。けれど私は、知っている。胸の内側に、まだ温かく収まっている便箋が、その続きを告げていた。
だから私は、これを、墨で書くしかなかった。誰にも言えないから、遺書にするしかなかった。本人にぶつけるかわりに、死を選ぶことで、すべてを終わらせるしかなかった。
あと、五日。
時間が、確実に削られていく。
真白は、嫉妬を、嫉妬と認められない。認めてしまえば、自分が桂木を想っていることを、認めることになるから。その想いを認めることが、この人には、自分の醜さを直視することと同じになってしまっている。
だから、隠す。蓋をする。氷の下に沈める。
けれど、沈めた感情は、消えない。行き場を失って、内側で腐っていく。やがて、その重さに耐えきれなくなったとき――この人は、あの日付の紙に、すべてを託してしまう。
「先生」
私は、去ろうとする真白の背に、声を投げた。
「隠した気持ちは、消えません。蓋をしても、なくなりません。行き場をなくして、いつか、いちばん悪いかたちで、あふれ出します」
真白は、振り返らなかった。
けれど、その足が、一瞬、止まった。
止まって、それから、また歩き出した。何も答えずに、回廊の奥へ、白い影のように消えていった。
残された私は、窓の外の白百合を見ていた。
届いただろうか。ひとことでも、あの人の、凍った場所に。
風が吹いて、花がいっせいに揺れた。匂いが、強くなった。




