第3話 Kは恋を修行で殺そうとしている
舎監室は、思っていたより簡素だった。
大きな窓から午後の光が斜めに差しこみ、書き物机の上の万年筆を白く光らせている。壁一面の書架。揺り椅子。そして窓辺に、ひとりの女性が立っていた。
逆光で、最初は影しか見えなかった。けれど一歩踏みこむと、その輪郭がほどけていった。
背が高く、姿勢が真っ直ぐだった。結い上げた黒髪に、後れ毛が一筋。横顔は、咲が言った通り、白百合みたいに綺麗で、けれど血の気が薄かった。陶器のような頬に、生きている人間の熱が、ほとんど感じられなかった。
静宮真白。
間違いなかった。胸の内側で、温まりきった便箋が、私の鼓動に合わせて存在を主張していた。
「あなたが、編入の?」
「久遠詞乃です。よろしくお願いします」
真白は、こちらを見なかった。窓の外の白百合に視線を置いたまま、机の上の万年筆を指先で、つ、と押した。インクの匂いが、かすかに立った。
「ここは静かよ。期待するものは、何もないけれど」
声は澄んでいたが、温度がなかった。氷をくぐらせた水のような声だった。私が何を言っても、この人の表面でつるりと滑り落ちていくのだろう。そういう拒み方を、この人は完成させていた。
扉が、また軋んだ。
「静宮先生。書類を――」
入ってきたのは、別の女性だった。
その瞬間、部屋の空気が、ぴんと張った。
彼女は、真白の姿を認めて、戸口で足を止めた。手にした書類の束を、胸に抱きしめるように持ちかえる。指の関節が、白くなるほど力がこもっていた。
「桂木さん。そこに置いて」
真白の声が、わずかに硬くなった。一度も、相手のほうを見ないまま。
桂木。
この人が、Kだ。
桂木と呼ばれた女性は、眼鏡をかけていた。前髪をきっちり分け、襟元のボタンを一番上まで留めている。隙のない、禁欲的な装い。けれどその指先だけが、抱えた書類を、痛いほど握りしめていた。
「失礼します」
桂木は、机の端に書類を置いた。置くとき、ほんの一瞬、真白の横顔を盗み見た。その視線を、私は見逃さなかった。
あれは、こらえている目だ。
言いたいことを、喉の奥に押し戻している目。手を伸ばしたいのに、伸ばすことを自分に禁じている目。ああいう目を本の中で何度も読んできた。けれど実物を見るのは、初めてだった。実物は、紙の上の言葉よりずっと、痛い。
桂木は、逃げるように部屋を出ていった。靴音が、回廊を遠ざかっていく。
真白は、何も言わなかった。ただ、桂木が触れた書類の束を、見もせずに机の引き出しへしまった。触れたものを、視界から消すように。
私は、思いきって踏みこんだ。
「あの方、桂木さんと、何かあったのですか?」
真白の指が、引き出しの取っ手の上で、止まった。
「……なぜ?」
「いえ。お二人とも、とても、お辛そうに見えたから」
しまった、と思った。踏みこみすぎた。けれど真白は、怒らなかった。ただ、初めてこちらを見た。
その目に、私は息を呑んだ。
冷たいのではなかった。
氷ではない。氷の下で、まだ流れることをやめられない水のように、その奥に、燃え尽きないなにかが揺れていた。苦しみだ。隠しきれていない、隠そうとして隠しきれない、生身の苦しみだった。
「あなたは、よく見る人ね」
真白は、静かにそう言った。咎める響きではなかった。むしろ、どこか諦めたような。
「でも、見えても、口にしないことね。世の中には、見て見ぬふりをするのが優しさになることもあるの」
その言葉が、胸に刺さった。
見て見ぬふり。
それこそが、本の中で、すべてを取り返しのつかないところまで運んでしまった態度ではなかったか。
誰も本音を口にしなかった。
だから、最も不器用な人が、最も極端な方法で、自分の恋を断ち切ってしまった。
私は、廊下へ出た。
桂木の靴音が消えた方向へ、足が勝手に向かっていた。
回廊の角を曲がると、中庭に面した渡り廊下の手すりに、桂木が一人で立っていた。
近づこうとして、足を止めた。
桂木は、手すりに置いた自分の手を、じっと見おろしていた。さっき真白の横顔に伸ばしかけて、伸ばせなかった手だ。その手を、まるで汚れたものを見るように、見つめていた。
そして、小さく、自分に言い聞かせるように呟いた。
「これは、修行の妨げだ」
風が、白百合の匂いを運んできた。甘くて、どこか、葬列を思わせる匂いだった。
「この気持ちは、捨てなければ。断たなければ。私が、私であるために」
桂木は、伸ばしかけた手を、固くこぶしに握った。
私には、分かってしまった。
この人は、恋を罪だと思っている。誰かを好きになる気持ちそのものを、自分の弱さだと、断ち切るべき煩悩だと信じこんでいる。だから、殺そうとしている。自分の中の、いちばん柔らかくて、いちばん生きているその部分を。
けれど人は、自分の心を殺そうとして、本当に心の在り処を見失ったとき、もっと取り返しのつかないところへ踏み出してしまう。
このままでは彼女は、桂木は壊れる。
本の中と同じだ。何も変えなければ、何も言わなければ、この人もまた、自分で自分を、断ってしまう。
あと、六日。
私は、こぶしを握る桂木の背中を見つめながら、思った。
間に合わせなければ。二人が、互いの本音を、ひとつも言えないまま、すれ違って終わってしまう前に。
風がやんだ。白百合の匂いだけが、まだ、残っていた。




