第98話 風の都への帰還
# 第98話 風の都への帰還
火山地帯の熱が、少しずつ遠ざかっていった。
背後には、灼熱廃都イグニシアの黒い輪郭がある。
崩れた塔。
焼け落ちた街路。
岩肌の奥に隠されていた、巨大な転移魔法陣。
その記録を抱えたまま、Aegisは二十三階層へ向かって進んでいた。
道中に派手な戦闘はない。
十七階層から二十二階層までのルートは、すでにArcの頭に入っている。
どこを通れば魔物との接触を減らせるか。
どの広間を避ければ消耗しないか。
どの分岐で足を止めるべきではないか。
Arcが一度視線を動かすだけで、Siaが前方を確認し、Garmが隊列の速度を整え、Rainが側面へ滑る。
その流れに、無駄はなかった。
生産組を連れているからこそ、いつも以上に無理をしない。
戦えるから戦うのではない。
戦わずに進めるなら、それが最善だった。
二十階層のボス部屋も、静まり返っていた。
以前Aegisが突破した時の痕跡だけが、黒く焼けた床に残っている。
フロアボスの再出現までは、まだ時間がある。
Arcは足を止めない。
Cainが部屋の奥を一瞥し、少しだけ肩を回した。
「静かなのは助かるけどよ、ここまで何もないと逆に気味悪いな」
「何かあった方が困る」
Crowの返しに、Rainが小さく笑う。
けれど、その笑いも長くは続かなかった。
誰もが、Lunaの腕の中にある端末を意識していた。
あの記録は、ただの戦利品ではない。
持ち帰るべき謎だった。
やがて、熱を含んだ空気の中に、違う匂いが混じり始めた。
乾いた石と煤の匂いではない。
風だ。
冷たく、軽く、肺の奥へ滑り込んでくる空気。
Mistが最初に顔を上げた。
「……涼しい」
その声は、思わずこぼれたものだった。
火山地帯を抜けた先で、視界が開ける。
そこに、風の都シルヴァリアがあった。
白い石造りの街並みが、階層の中に広がっている。
崩れた建物も多い。
人の気配は薄い。
それでも、イグニシアのような死んだ熱ではない。
高い塔の間を風が抜け、遠くの橋がかすかに軋む。
百年眠っていた都市が、まだ呼吸しているようだった。
Dwalfは足を止め、街の外壁を見上げた。
「こいつは……見事だな」
大きな声ではない。
鍛冶師が、よく出来た道具を見た時の声だった。
「石材の組み方が違う。風を逃がす造りになってる」
Mistは道端に残った小さな草へ目を向けていた。
火山地帯では見なかった淡い緑が、割れた石畳の隙間から伸びている。
「こんな場所にも、薬草になりそうなものがあるんだ」
指を伸ばしかけて、すぐに引っ込める。
勝手に採らない。
ここはもう、ただのダンジョンではないと分かっているからだ。
Lunaだけは、街並みより先に通信塔を見ていた。
視線が塔の上部へ吸い寄せられている。
風を受けるように立つその塔は、以前Aegisが起動した魔法通信塔だ。
「あれが、通信塔」
呟きは小さかった。
だが、その声には明らかな熱がある。
Rainが横から覗き込む。
「Luna、顔が研究者になってる」
「最初から研究者」
即答だった。
そのやり取りにMistが笑い、Cainも少しだけ口元を緩める。
張り詰めていた空気が、風にほどけていった。
だが、Arcはすぐに目的を思い出させる。
「先にレオニスへ報告する」
短い指示に、全員の表情が切り替わった。
シルヴァリアの中央区画へ進むと、レオニスはすでに待っていた。
高い石段の上。
風に揺れる外套を押さえながら、彼はAegisの到着を見ていた。
その目が、Arcの後ろにいる三人へ移る。
Mist。
Luna。
Dwalf。
戦闘職ではない。
けれど、ただの同行者でもない。
レオニスは少しだけ目を細めた。
「戻ったか、Arc」
「ああ」
Arcは一歩前へ出る。
「紹介する。Aegisの生産組だ」
Mistは胸元で手を揃え、少し緊張した様子で頭を下げた。
「Mistです。薬品と回復補助を担当しています」
Lunaは端末を抱えたまま、視線だけを上げる。
「Luna。解析担当」
必要最低限の自己紹介だった。
Dwalfは背負った工具袋を軽く叩く。
「Dwalfだ。鍛冶と修理なら任せろ」
レオニスは三人を順に見た。
そして、静かに頷く。
「よく来てくれた」
その言葉に、Mistの肩からわずかに力が抜けた。
歓迎されている。
少なくとも、拒まれてはいない。
だが、Lunaはすぐに通信塔へ視線を戻していた。
それに気付いたレオニスが、わずかに眉を上げる。
「そなたは、あれが気になるか」
Lunaは少しだけ間を置く。
塔を見て、端末を見て、それから答えた。
「かなり」
Rainが小さく吹き出しかける。
Arcはそれを横目で止めた。
今は報告が先だ。
「イグニシアを調査した」
その一言で、空気が変わった。
レオニスの表情から、歓迎の柔らかさが消える。
風の音だけが、石段の間を抜けていった。
「何か、見つけたのだな」
Arcは頷く。
「隠し空間があった。街の後方、崖の岩肌の奥だ」
Lunaが端末を開く。
表示されたのは、灼熱廃都の奥で記録した巨大な魔法陣だった。
焼け焦げた外周。
欠けた文字列。
中心に残る空白。
そして、壁際へ伸びる供給路。
レオニスは最初、黙って見ていた。
だが、画像が中心部へ切り替わった瞬間、彼の目がわずかに揺れる。
ほんの一瞬だった。
それでもArcは見逃さなかった。
「知っているのか」
レオニスはすぐには答えない。
画面へ顔を近づけ、焦げた文字列を追う。
指先が空中で止まった。
触れられない記録の上を、記憶の中の文字と照らし合わせているようだった。
「……古い書物で見たことがある」
その声は低かった。
Mistが息を呑む。
Lunaの指が端末の端を強く掴んだ。
「転移魔法陣、か」
レオニスの言葉に、Lunaは小さく頷く。
「可能性は高い」
断定しない。
それでも、彼女の目はもう答えを掴んでいる。
レオニスはしばらく記録を見つめていた。
風に揺れる外套の音だけが、静かに鳴る。
「昔、都と都を繋ぐ転移魔法陣があったと伝えられている」
レオニスの言葉が、石段の上に落ちた。
誰も声を挟まない。
石畳を渡る風だけが、足元の砂を薄くさらっていく。
レオニスの言葉を待つ。
「シルヴァリア、イグニシア、他の都市。安全階層の都は、本来、完全に孤立していたわけではなかったらしい」
Arcの中で、いくつかの点が動いた。
通信塔。
転移魔法陣。
安全階層の都市。
どれも別々の施設だと思っていた。
だが、違う。
通信塔は情報を繋ぐ。
転移魔法陣は場所を繋ぐ。
安全階層の都市は、その両方を受け止める拠点だったのかもしれない。
もしそうなら、ダンジョンの中に点在する都市は、最初から孤立した避難場所ではなかった。
一つの網の目として作られていた。
「ただし」
レオニスは目を伏せる。
「それは、とっくの昔に使えなくなったものだと聞いていた」
「百年前より前からか」
Arcの問いに、レオニスはゆっくり頷いた。
「そう伝わっている」
Lunaが端末へ視線を落とす。
記録に映る魔法陣の外周は、ひどく損傷していた。
だが、完全に朽ちていたわけではない。
供給路も、中心部も、欠けてはいる。
Lunaが画像を拡大すると、焼けた線の下に、別の細い線が浮かび上がった。
元からある刻印とは、わずかに深さが違う。
焼けた石の下に、別の時期に入れられた補強線が残っている。
現地では断定しなかった部分だ。
だが、シルヴァリアの記録と並べた今、その違和感は少し形になっていた。
「最初から壊れていたものを、そのまま放置していた感じじゃない」
端末を見つめたまま、Lunaが呟く。
「どこかを直そうとしている」
Dwalfも画面を覗き込んだ。
鍛冶師の目は、魔法陣の意味よりも、刻まれた線の作り方を追っている。
「補修だな」
短い言葉だった。
「元の線と、後から足した線で深さが違う。道具も違う」
レオニスの顔が険しくなる。
「つまり、イグニシアの者たちは……」
そこで言葉が止まった。
続きを口にする前に、誰もが同じ可能性へ辿り着いていた。
使えなくなったはずの転移魔法陣。
都市の奥に隠された空間。
崩壊した火の都。
その中で、誰かが魔法陣を修復しようとしていた。
「利用しようとしていたのかもしれぬ」
レオニスの声は、風に紛れるほど静かだった。
「失われた転移魔法陣を、もう一度」
誰も返事をしなかった。
風だけが石畳を渡る。
その沈黙の中で、端末に映る魔法陣の中心だけが、妙にはっきりと見えた。
Mistが両手を握る。
「それって……逃げるため、ですか」
その問いに、すぐ答える者はいなかった。
Mistの言葉は、誰の中にも同じ形では落ちなかった。
逃げるため。
助けを呼ぶため。
どこかへ繋ぐため。
目的は分からない。
ただ、百年前のイグニシアが何かを試みていた痕跡だけは、そこに残っていた。
Crowが低く息を吐く。
「もし本当に逃げ道だったなら、問題は二つだ」
Arcは視線だけを向ける。
「一つは、誰かが逃げられたのか」
Crowはそこで一度、端末の中心部を見る。
「もう一つは、逃げた先がどこなのか」
空気が重くなる。
Rainは魔法陣の記録から目を離せなかった。
「もし、生き残りがいたら……」
言いかけて、そこで止まる。
簡単に言える話ではなかった。
百年。
人がそのまま生きているには長すぎる。
けれど、この世界にはダンジョンがあり、魔法があり、百年前の都市が今も残っている。
常識だけで否定できるほど、簡単な謎ではない。
Arcは端末に映る魔法陣を見つめた。
行き先は分からない。
供給路も壊れている。
中心部の固定印も欠けている。
今すぐ使えるものではない。
それでも、この魔法陣は確かに存在した。
そして、誰かが直そうとしていた。
「レオニス」
Arcの声に、レオニスが顔を上げる。
「シルヴァリアに、転移魔法陣の記録は残っているか」
レオニスはしばらく沈黙した。
風が、石段の上を抜けていく。
「探す」
短い返答だった。
だが、その声には重さがあった。
「古い書庫に、断片なら残っているかもしれぬ」
Lunaの目がわずかに動く。
「見たい」
即答に近かった。
レオニスはその反応を見て、かすかに笑う。
「だろうな」
Mistが少しだけ緊張を緩める。
Dwalfは工具袋の紐を握り直していた。
「修復するかどうかはともかく、構造は見ておきてぇな」
「修復はまだだ」
Arcの返答は早かった。
「今は調べるだけだ」
その言葉に、Dwalfは不満を見せるどころか、むしろ満足そうに頷いた。
「それでいい。壊れた道具ほど、最初に触り方を間違えると終わる」
Novaも通信塔の方へ視線を向ける。
「通信塔の記録と、魔法陣の流路を比べたい」
「同じ都市間ネットワークなら、どこかに共通点があるはず」
Lunaが端末を抱え直した。
「通信と転移。目的は違う。でも、接続先を指定する考え方は似ているかもしれない」
Rainが二人を見比べる。
「研究組、もう止まらなそう」
「止める必要はない」
Arcは短く返す。
「ただし、順番は守る」
レオニスが深く頷いた。
「まずは書庫だ」
その言葉で、一行の次の行き先は決まった。
レオニスが石段の奥へ向かって歩き出す。
Lunaは端末を抱え直し、Mistはその横に並んだ。
Dwalfは工具袋の紐を締め直し、Novaは通信塔を一度だけ振り返る。
風の都は静かだった。
だが、その静けさは先ほどまでとは違っていた。
Arcは記録に映る魔法陣をもう一度見る。
百年前の崩壊。
灼熱廃都イグニシア。
使えなくなったはずの転移魔法陣。
そして、シルヴァリアの未登録通信反応。
まだ答えは出ない。
百年前の文明は、ただ滅びを待っていたわけではない。
その痕跡だけが、静かな風の都に残っていた。




