第91話 英雄扱いの危うさ
# 第91話 英雄扱いの危うさ
ギルドホームの扉が閉まった瞬間、外の騒ぎが少しだけ遠のいた。
完全に静かになったわけではない。
建物の外には、まだ人の気配がある。
協会職員が周囲を整理している声。
遠くから聞こえる記者らしき声。
そして、何度も繰り返されるカメラのシャッター音。
Aegisが帰ってきた。
それだけで、地上はもう静かではいられなくなっていた。
「……すごいことになってるね」
Rainが窓の外を見ながら呟いた。
いつもの軽い調子ではない。
本当に少しだけ、声が小さかった。
「協会が止めてなかったら、玄関前まで来てたな」
Cainが肩をすくめる。
「面倒な人気者になったものだ」
Crowは皮肉っぽく言ったが、その目は笑っていなかった。
冗談で済ませられる空気ではなかったからだ。
Arcは装備を外しながら、ギルドホームの中央へ視線を向けた。
そこにはMist、Luna、Dwalfがいた。
「お帰り、Arc!」
Mistが真っ先に声を上げた。
いつもの明るい声だった。
けれど、その表情には安心と心配が混じっている。
「みんなも、お帰り」
「大変だったね……」
Rainが小さく笑う。
「ただいま」
その一言を返しただけで、少しだけ肩の力が抜けた。
ここはダンジョンではない。
魔物もいない。
すぐ近くで誰かが倒れることもない。
そう思える場所へ、ようやく戻ってきたのだ。
LunaがArcたちを順番に見る。
「怪我は?」
「全員、動ける」
Arcが答える。
それを聞いて、Lunaは短く息を吐いた。
「なら、よかった」
Dwalfも腕を組んだまま頷く。
「無事に帰ったなら上等だ」
「詳しい話は後でいい」
「まず座れ」
Cainが苦笑する。
「親みたいなこと言うなよ」
「倒れられるよりはマシだ」
そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
三人とも、地上で配信と協会発表を見ていたらしい。
机の上には、すでに大量の通知が並んでいた。
企業からの連絡。
協会からの追加確認。
報道関係者からの取材依頼。
そして。
個人から届いた、無数のメッセージ。
「……これ、全部今日来たのか?」
Arcが尋ねると、Mistが気まずそうに頷いた。
「うん」
「協会が連絡先を止めてくれてるけど、それでもギルド宛に届いてる」
「まだ増えてる」
Lunaが端末を操作する。
画面には、短い文章が次々と流れていた。
《Arcさんに助けてほしいです》
《家族がダンジョン事故で意識不明です》
《どうか一度だけ診てください》
《妹を助けてください》
《お金なら払います》
《お願いします。もう他に頼れる人がいません》
Rainの表情が固まった。
Cainも、いつものように軽く笑わなかった。
その言葉の一つ一つが、ただの騒ぎではないと分かったからだ。
そこにあるのは、好奇心だけではなかった。
悪意だけでもなかった。
本当に助けを求めている声が混じっていた。
だからこそ、重かった。
Arcは黙って画面を見つめた。
指先が、少しだけ止まる。
Ariaを救った。
その事実は、たしかに希望になった。
だが、希望はいつも綺麗な形だけで届くわけではない。
誰かにとっての希望は、別の誰かにとっての重圧になる。
今、世界はArcを見ている。
奇跡を起こしたヒーラーとして。
死にかけた探索者を救った存在として。
そして。
自分たちの大切な人も救ってくれるかもしれない存在として。
「Arc」
Garmが低い声で呼んだ。
「全部見る必要はない」
「ああ」
Arcは短く答える。
だが、画面から目を逸らさなかった。
「分かってる」
分かっている。
全部に応えることはできない。
全員を救うことはできない。
それでも。
助けを求める声を、ただ数字として流すこともできなかった。
「これ、まずいよ」
Novaが静かに言った。
その声には、研究者としての冷静さと、仲間としての心配が混じっていた。
「世間は、今回のことをまだ正しく理解してない」
「Arcが何でも治せるって思い始めてる」
Mistが頷く。
「うん」
「SNSも、ニュースも、言葉がどんどん大きくなってる」
Lunaが別の画面を開いた。
そこには、いくつもの見出しが並んでいた。
【世界最強ヒーラー誕生】
【致命傷からの生還】
【医療の常識を変えるか】
【Aegis所属Arc、奇跡の救命】
【蘇生に近い現象か】
その最後の見出しを見た瞬間、Arcの眉がわずかに動いた。
「違う」
静かな声だった。
だが、その一言で部屋の空気が変わった。
「蘇生じゃない」
Arcは画面を見たまま言った。
「Ariaは死んでいなかった」
「間に合ったから、繋ぎ止められた」
「それだけだ」
誰も茶化さなかった。
その違いが、あまりにも大きいことを全員が理解していたからだ。
死んだ者は戻らない。
少なくとも、今のこの世界では。
今回Arcが覆したのは、死そのものではない。
死に向かって落ちていく命を、ぎりぎりのところで引き戻しただけだ。
それでも十分すぎるほど異常だった。
だが、世間から見れば、その境界は曖昧になる。
助かった。
奇跡が起きた。
なら、自分の家族も。
なら、自分の仲間も。
なら、もう助からないと言われた人も。
その期待は、簡単に膨れ上がる。
そして期待は、叶わなかった瞬間に別のものへ変わる。
「英雄って言葉は便利だな」
Crowが吐き捨てるように言った。
「持ち上げる時にも使える」
「縛る時にも使える」
Rainが小さく息を呑む。
「……縛る?」
「ああ」
Crowは窓の外へ視線を向けた。
「お前は英雄なんだから助けろ」
「お前ならできるはずだ」
「できないなんて言うな」
「そうやって、綺麗な言葉で逃げ道を塞ぐ」
部屋が静かになった。
それは、誰も言いたくなかったことだった。
だが、言わなければならないことでもあった。
Arcがどれだけ優秀でも、万能ではない。
魔力には限界がある。
時間にも限界がある。
距離にも、状況にも、条件にも限界がある。
そして何より。
Arc自身も、一人の人間だった。
「無理なもんは無理って言え」
Cainが短く言った。
いつもより乱暴な言い方だった。
だが、その分だけ本音だった。
「お前が黙って全部背負うと、周りが勝手に期待する」
「それで潰れたら意味ねぇだろ」
「Cainの言う通りだ」
Garmも頷く。
「お前が救おうとするなら、俺たちは止めない」
「だが、お前一人で行かせるつもりもない」
RainがArcの前へ回り込んだ。
その顔は、少し怒っているようにも見えた。
「Arc」
「全部見ちゃ駄目」
「全部聞いちゃ駄目」
「全部助けようとしちゃ駄目」
「そんなの、誰にもできないよ」
ArcはRainを見た。
Rainは目を逸らさなかった。
いつもの明るさはある。
けれど今は、その奥に真剣な強さがあった。
「私たちはArcのパーティでしょ」
「なら、Arcが危ない時は止める」
「それも役割だよ」
その言葉に、Mistが大きく頷いた。
「そうそう」
「Arcが倒れたら、ポーション何本あっても足りないし」
「いや、そこかよ」
Cainが思わず突っ込む。
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
Dwalfも腕を組んだまま、低く笑う。
「まあ、倒れる前提で設備を組む趣味はないな」
「必要なのは、倒れずに済む仕組みだ」
Lunaが静かに続ける。
「連絡は協会経由にする」
「個別依頼は受けない」
「医療目的の相談は、協会と医療機関で一次判断してもらう」
「Aegisへ直接届いたものは、こちらで分類して遮断する」
Rainがぱちぱちと瞬きをした。
「……もう考えてたの?」
Lunaは当然のように頷いた。
「こうなると思ってた」
その一言に、Arcは少しだけ目を細めた。
Lunaらしい。
感情で騒がず、起きることを先に読んで、必要な線を引く。
今のAegisには、そういう人間が必要だった。
「助かる」
Arcが言うと、Lunaは小さく頷いた。
「Arcが判断する前に、こっちで減らす」
「全部を見せない」
「それが一番いい」
その言葉は冷たく聞こえるかもしれない。
だが、実際には逆だった。
全部を見せれば、Arcは必ず考える。
迷う。
自分なら何かできたかもしれないと、余計な責任まで背負う。
だから、届く前に止める。
それはArcを守るための判断だった。
「……分かった」
Arcはゆっくり息を吐いた。
「任せる」
その返事を聞いて、Rainがほんの少し安心したように笑った。
だが、Arcはそこで終わらせなかった。
「ただし」
全員の視線がArcへ集まる。
「目の前で死にかけている人間がいるなら、俺は助ける」
静かな声だった。
迷いはない。
「それが探索中だろうと、他ギルドだろうと関係ない」
「間に合うなら、手を伸ばす」
「そこだけは変えない」
Rainは困ったように笑った。
「そう言うと思った」
Cainも鼻で笑う。
「だろうな」
Crowが肩をすくめた。
「だから面倒なんだよ、お前は」
Garmは短く頷く。
「なら、俺たちも変えない」
「お前が助けるなら、俺たちは守る」
「行くなら全員で行く」
Novaが続けた。
「必要なら、私たちが条件を整える」
「魔力、距離、敵の排除、退路」
「Arcが救える状況を作る」
Siaも弓を抱えたまま頷いた。
「索敵は任せて」
「救助中に敵を近づけさせない」
Mistが手を挙げる。
「回復補助アイテムも増やす」
「万能じゃなくても、繋ぐための道具は作れる」
Dwalfも口を開いた。
「運搬用の装備も考える」
「担架より安定する背負い具が必要だ」
「走っても揺れにくいものがいい」
Arcは仲間たちを見た。
誰一人として、Arcを一人で立たせようとしていなかった。
救うのはArcかもしれない。
だが、その場を作るのはAegis全員だ。
命を繋ぐという行為は、一人の力だけで完結するものではない。
あの時もそうだった。
Ariaを救えたのは、Arcだけの力ではない。
白銀の翼が諦めずに繋いでいた。
Aegisが敵を止めていた。
Rainたちが撤退路を開いた。
Siaが先を見た。
Garmが背負った。
全員が動いたから、間に合った。
それを、Arcは分かっている。
だからこそ、静かに頷いた。
「ああ」
「次も、全員で動く」
その時。
端末に新しい通知が届いた。
全員の視線が自然とそちらへ向かう。
Lunaが差出人を確認した。
「白銀の翼から」
部屋の空気が、また少し変わった。
Arcが画面を見る。
そこには、Aliciaからの短いメッセージが表示されていた。
《Ariaの容体は安定しています》
《まだ意識は戻っていません》
《ですが、呼吸は続いています》
《本当に、ありがとうございました》
《落ち着いたら、直接お礼を言わせてください》
Arcはしばらく、その文面を見つめていた。
短い文章だった。
だが、その中にある重さは十分すぎるほど伝わってきた。
生きている。
まだ危険が完全に消えたわけではない。
それでも、生きている。
その事実だけで、Arcの胸の奥にあった硬いものが少しだけ緩んだ。
「……よかった」
誰にも聞かせるつもりのない声だった。
だが、Rainには聞こえていた。
彼女は何も言わず、ただ小さく笑った。
その笑みを見て、Arcもほんの少しだけ表情を緩める。
しかし、端末の別の画面では、まだ通知が増え続けていた。
賞賛。
期待。
救助要請。
取材依頼。
批判。
疑問。
そして、祈りのような言葉。
世界はもう、Arcをただの攻略者として見ていない。
Aegisのヒーラーとしても。
サービス終了したゲームの知識を持つ探索者としても。
それだけではない。
命を繋ぐ者として、見始めていた。
「英雄扱い、か」
Arcは小さく呟いた。
その言葉には、喜びはなかった。
重さだけがあった。
英雄と呼ばれることは、強くなることではない。
誰かの期待を背負わされることだ。
誰かの絶望の出口にされることだ。
そして、救えなかった時に、その失望すら受け止める場所になることだ。
Arcはそれを理解していた。
理解したうえで、画面を閉じる。
「今日は休む」
その言葉に、Rainが少し驚いた顔をした。
「ほんとに?」
「ああ」
Arcは短く答える。
「明日からまた動く」
「なら、今日は休むべきだ」
Cainがにやりと笑った。
「珍しくまともな判断だな」
「殴るぞ」
「回復役が暴力に訴えるな」
ようやく、いつもの空気が少しだけ戻った。
笑い声は小さい。
だが、それでよかった。
大きな勝利の後ではない。
誰かの命を背負った後なのだ。
騒ぐより、静かに息を整える時間が必要だった。
Arcは仲間たちを見渡した。
Aegisはまだ進む。
シルヴァリア。
イグニシア。
そして、深層へと続く未知の領域。
やるべきことは増えていく。
背負うものも、きっと増えていく。
だが、一人で背負う必要はない。
そのことだけは、今日ここで確かめられた。
だからArcは、静かに椅子へ腰を下ろした。
世界は騒いでいる。
英雄を求めている。
奇跡を求めている。
それでも、今この場所にいるのは、ただの一つのパーティだった。
互いの役割を知り。
互いの限界を知り。
それでも前へ進むために集まった、固定パーティ。
Arcは目を閉じる。
次の戦いは、もう始まっている。
敵は魔物だけではない。
期待。
称賛。
救えない命。
そして、自分自身の限界。
そのすべてと向き合いながら、それでも進むしかない。
Aegisは、止まれない。
だが今だけは。
ほんの少しだけ、休むことを選んだ。




