第86話 命を背負う帰還
# 第86話 命を背負う帰還
地上へ続く出口が見えた瞬間、誰も声を上げなかった。
歓声もない。
安堵もない。
その余裕がないことを、全員が理解していた。
Ariaの傷は、もう開いていない。
腹部の穴も塞がっている。
裂けかけていた左腕も、Arcの回復魔法によって繋ぎ止められていた。
だが、それで全てが終わったわけではない。
失った血は戻っていない。
体力も、魔力も、ほとんど底をついている。
今のAriaは、助かったというより、死の淵から引き上げられたばかりの状態だった。
Garmは、そのAriaを背負っていた。
大盾を背板代わりにし、外套とベルトで身体を固定している。
左腕はAliciaが横から支え、白銀の翼のヒーラーが《リジェネ》を薄く流し続けていた。
その《リジェネ》も、傷を治すためのものではない。
体力がこれ以上落ちないようにするための、ほんの小さな支えだ。
強くかければいいわけではない。
今のAriaに必要なのは、無理に元気にすることではなく、地上の医療班へ渡すまで静かに保たせることだった。
「出力はそのまま」
Arcが言う。
「治そうとするな。維持だけでいい」
「は、はい……!」
白銀の翼のヒーラーは頷く。
その顔は青ざめていた。
自分の魔法がAriaを救っているわけではない。
それでも、途切れさせれば負担が増える。
そう理解しているからこそ、彼女は一瞬も集中を切らさなかった。
「Garm、速度は落とすな。ただし跳ねるな」
「分かってる」
Garmの返事は短い。
だが、その足取りは異様なほど安定していた。
走っている。
それなのに、背中が揺れない。
足を踏み出すたびに、膝と腰で衝撃を殺している。
まるで攻撃を盾で受け流す時のように、地面から返ってくる振動を身体の中で逃がしていた。
白銀の翼の一人が、思わず呟く。
「背負って走ってるのに……揺れてない」
普通なら、重傷者を背負って走るだけで精一杯だ。
だがGarmは違った。
Ariaを運んでいるのではない。
守っている。
その背中全体で、盾のように。
「Sia」
Arcが短く呼ぶ。
「前方、右通路に反応二。左はなし」
「左」
「了解」
隊列が滑るように左へ曲がる。
誰も迷わない。
誰も立ち止まらない。
Aegisの外周に、白銀の翼が守られる形で進む。
その中央で、GarmがAriaを背負っている。
CainとRainは前方の小型魔物だけを即座に落とし、深追いしない。
Crowは背後から近づく影を潰す。
Novaは熱気の強い通路を避けるため、魔力の流れを見ていた。
それぞれが、自分の役割だけをこなしている。
だから速い。
無理に急いでいるのではない。
止まる理由を一つずつ消しているのだ。
「次、段差」
Siaが言う。
「Garm、歩幅を落とせ」
「おう」
Garmは速度を大きく落とさない。
ただ、一歩だけ深く沈む。
Ariaの身体が揺れないように、段差の衝撃を膝で吸収した。
Aliciaが左腕を支えたまま、息を呑む。
「こんな運び方……」
「盾役だからな」
Garmが前を向いたまま言う。
「守るのが仕事だ」
その言葉に、Aliciaは唇を噛み締めた。
泣きそうになる。
だが、泣くのはまだ早い。
Ariaは生きている。
だからこそ、地上まで連れて帰らなければならない。
『速い』
『でも雑じゃない』
『背負ってるのに全然揺れてないぞ』
『Garmやばい』
『Aegis全員、動きが救助用になってる』
『これ戦闘じゃなくて搬送レイドだろ』
配信コメントが流れる。
だが、Arcは見ていない。
彼が見ているのは、Ariaの呼吸と、Garmの足取りと、前方のルートだけだった。
「あと三分」
Arcが言う。
「このまま行く」
「三分……」
Aliciaが小さく繰り返す。
地上まで、あと三分。
たったそれだけ。
だが、その三分が異様に長い。
Ariaの指先は冷たい。
呼吸も浅い。
それでも、Aliciaの手の中で、わずかに温もりが残っている。
「Aria」
Aliciaが声をかける。
「もう少しだから」
「地上に戻るよ」
「だから、もう少しだけ頑張って」
返事はない。
だが、Ariaの胸は小さく上下している。
それだけで十分だった。
「前方、出口」
Siaの声が響いた。
視界の先に、地上施設の白い光が見える。
熱を含んだ十六階層の空気が薄れ、人工照明の冷たい明るさが混ざっていく。
探索者協会の帰還区画。
救護班が待機する場所。
そこまで、あとわずか。
「Sia、連絡」
「了解」
Siaが通信を入れる。
「重傷者搬送中! 進路確保お願いします! 医療班は出口正面で待機!」
返答より早く、地上側が動き出した。
柵が開く。
待機していた探索者たちが左右へ下がる。
医療班の搬送台が前へ出る。
「Garm」
Arcが言う。
「止まるな。出口を抜けてから下ろす」
「了解」
Garmは最後まで速度を崩さなかった。
背中にAriaを背負ったまま、地上の光の中へ踏み込む。
その瞬間、帰還区画全体が静まり返った。
血の跡が残る装備。
蒼白なAria。
彼女を背負ったGarm。
周囲を固めるAegisと白銀の翼。
そして、先頭で全てを見ているArc。
誰も、すぐには声を出せなかった。
Arcだけが止まらない。
「医療班」
短い声が、帰還区画に響く。
「引き渡す。場所を空けろ」




