第68話 湖畔の休息
# 第68話 湖畔の休息
翌朝、十分な休息を終えたAegisは探索を再開した。
風狼王を討伐した影響なのか、二十一階層はこれまでが嘘のように静まり返っていた。
森を包んでいた異様な緊張感は消え去り、魔物たちの動きにも変化が見られる。
「本当に終わったんだな」
周囲を見回したGarmの言葉に、Arcは静かに頷いた。
「ああ。異変の原因は風狼王だったんだろう」
風狼王は群れを統率し、本来ならあり得ない行動を魔物たちに取らせていた存在だった。
その王が消えたことで、森はようやく本来の姿を取り戻したのだ。
異変が収束した二十一階層の探索は驚くほど順調に進み、
Aegisはほどなくして二十二階層へと到達する。
そこでは、これまでとは異なる新たな魔物たちが待ち受けていた。
ワイルドエイプ。
猿に似た魔物で、異様に発達した長い腕を持つ。
木々の上を飛び回りながら獲物を襲う集団型の魔物だった。
「また群れかよ」
Rainが嫌そうな顔をする。
だが。
風狼王率いる群れとは違った。
統率がない。
連携もない。
統率もなく、連携もない。
猿型魔物たちは各々が好き勝手に木々の間を飛び回り、思い思いに襲い掛かってくるだけだった。
「右から三体!」
「任せろ!」
仲間の声に応じ、Cainが大斧を振るう。
豪快な一撃を受けた猿型魔物はまとめて吹き飛ばされた。
さらにNovaの《フレア》が炸裂し、群れを散らす。
逃れた個体も、Siaの放つ矢によって次々と急所を射抜かれていった。
戦況は終始Aegis優勢だった。
風狼王との死闘を乗り越えた彼らにとって、この程度の魔物は脅威にならない。
「弱いな」
戦闘を終えたCrowがぽつりと呟く。
「風狼王の後だと余計にな」
Garmも苦笑しながら頷いた。
風狼王との戦いを乗り越えた今、二十二階層の魔物たちはAegisの脅威にはならなかった。
探索は順調に進み、一行はほどなくして二十二階層を突破する。
そして辿り着いたのは、二十三階層へと続く巨大な石造りの門だった。
Aegisは警戒を怠らず、慎重に門へ近づいていく。
先頭を歩くArcがゆっくりと門を潜る。
その瞬間、それまで森に遮られていた視界が一気に開けた。
「……おお」
思わず声が漏れた。
そこに広がっていたのは、これまでの階層とはまるで異なる光景だった。
静かな自然に包まれた空間。穏やかな風が吹き抜け、頭上には青く澄んだ空が広がっている。
そして何より目を引いたのは、視界の先まで続く巨大な湖だった。
湖面は鏡のように輝き、周囲の森や空の景色を美しく映し出している。
そこには戦いの気配も、魔物の気配も感じられない。
張り詰めていた緊張が自然とほどけていくような、穏やかな場所だった。
そんな景色を目にした瞬間、真っ先に歓声を上げたのはRainだった。
「うわぁぁぁ!!」
「湖だー!!」
Rainは勢いよく駆け出していく。
「おい!」
Crowが慌てて声をかけるが、止めるより早くRainは湖畔まで走り抜けていた。
そして振り返る。
「Arc!」
「水浴びしていい!?」
その顔には、まるで子供のような無邪気な笑顔が浮かんでいた。
Arcは周囲を見回しながら慎重に気配を探った。
今のところ魔物の気配は感じられない。
だが、ここがゲームと同じ世界とは限らない以上、油断はできなかった。
ゲーム時代の記憶では、この階層は魔物が出現しない安全階層だった。
しかし、その知識を鵜呑みにするつもりはない。
「少し周囲を確認しよう」
Arcの提案に仲間たちも頷く。
しばらく周辺を調べた結果、危険な気配は見つからなかった。
「問題なさそうなら、ここで休憩だ」
その言葉を聞いた瞬間、仲間たちの表情がぱっと明るくなった。
「マジか!」
Arcの言葉に、メンバーたちから安堵の声が上がった。
「助かった……」
Novaはその場に座り込み、大きく息を吐く。
Garmも肩の力を抜き、ようやく緊張から解放されたような表情を浮かべていた。
するとGarmがふと思い出したように口を開く。
「そういえばさ、水浴びするならダンジョンカメラとか大丈夫なのか?」
「あー」
Cainが苦笑する。
「確かに。今まで戦闘ばっかだったから気にしてなかったけど、映ってたりしないよな?」
その言葉に何人かが顔を見合わせた。
ダンジョンカメラ。
探索者たちの様子を映し出し、外部へ配信する不思議な機能だ。
だが、この世界に来てからは誰も詳しく確認していなかった。
「それなんだが」
Arcが口を開く。
「ゲームではダンジョンカメラの設定を色々いじれただろ?」
「ああ、視点変更とか表示設定とかあったな」
Crowが頷く。
「ちょっと試してみたんだけどな」
Arcはそう言って右手を軽く上げた。
「魔力を使えば、ゲームの時みたいに設定を変更できることが分かった」
「え?」
Rainが目を丸くする。
「マジで?」
「ああ。配信範囲や映像の公開設定みたいな項目もあった」
正確にはゲームと完全に同じではない。
Arcはすでに、魔力を流し込むことでダンジョンカメラへ干渉できることを確認していた。
その説明を聞き、Novaが首を傾げる。
「つまり?」
Arcは淡々と答えた。
「今は俺たち以外に映像が見えない状態にしてある」
その言葉に、一同の間へ一瞬の沈黙が落ちる。
次の瞬間だった。
「よっしゃあああ!」
Rainが勢いよく両手を突き上げる。
「じゃあ気兼ねなく飛び込めるじゃん!」
歓声を上げるRainを見て、Crowは呆れたようにため息をついた。
「お前はそれしか考えてないのか」
Crowの呆れたようなツッコミに、仲間たちから小さな笑いが漏れる。
張り詰めていた空気は一気に和らぎ、湖畔には穏やかな空気が広がった。
Arcは静かに湖へ視線を向ける。
澄み切った水面は陽光を受けてきらめき、心地よい風が湖畔を吹き抜けていた。
これまでの階層とはまるで別世界のような光景だった。
周囲に危険な気配はない。
Arcは仲間たちを見回し、落ち着いた声で告げた。
「ここで一旦休息を取ろう。次の攻略はその後だ」
その提案に異論を唱える者はいなかった。
風狼王との死闘を乗り越え、さらに階層を突破してようやく辿り着いた安全階層。
連日の戦いで蓄積していた疲労も緊張も、今は少しずつ解けていく。
Rainは湖畔まで駆けていくと、くるりと振り返った。
「よーし! ここで先に私たち女子組が入るから、あんたたちは周囲で警戒でもしてなさい!」
そう言ってNovaとSiaの腕を引っ張る。
「ちょ、ちょっとRain!?」
「えっ、私も!?」
「当然でしょ!」
Rainは胸を張った。
「あと覗くのはやめなさいよ? 見つけたら湖に沈めるからね!」
その言葉にCrowが即座に眉をひそめる。
「誰が覗くか。馬鹿か」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
RainはじっとCrowを見つめたあと、ふんっと鼻を鳴らした。
「ならよし!」
Rainは満足そうに笑うと、そのまま湖へ向かって駆け出した。
「冷たっ! でも気持ちいい!」
はしゃぐRainを見て、Novaも思わず笑う。
「そんなに慌てなくても湖は逃げないわよ」
「だって久しぶりの安全階層だよ? しかもこんな綺麗な湖なんて!」
Rainは振り返りながら両手を広げた。
「最近ずっとタオルで体を拭くだけだったんだよ!?
ちゃんと水浴びできるのなんていつぶりだと思ってるの!」
「言われてみればそうだな……」
Novaが苦笑する。
迷宮探索中は水の確保も簡単ではない。
飲み水や調理用を優先するため、体を洗う余裕などほとんどなかった。
「私も正直ありがたいわ」
Siaは自分の髪を指先で軽く弄りながら、小さく呟いた。
「髪も砂埃だらけだったし」
その言葉に、Rainは待っていましたと言わんばかりに何度も頷く。
「でしょ! でしょ!」
嬉しさを隠しきれない様子に、Arcたちは思わず苦笑した。
長い探索と激しい戦闘を乗り越えてきたのだ。
少しくらい羽を伸ばしたくなる気持ちは、誰もが理解できた。
そんな仲間たちの様子を見渡しながら、Arcは口を開く。
「周囲の警戒は続けるが、しばらく自由時間にしよう」
その言葉を聞いた瞬間、Rainの表情はさらに明るく輝いた。
「俺たちは焚き火でもして飯の用意をしておくか」
Arcの提案に、Garmたちも素直に頷いた。
女性陣が湖へ向かうのを見送り、男性陣は少し離れた場所へ移動する。
こういう時は女子優先。それが自然な流れだった。
Garmは肩をすくめながら苦笑する。
Crowも念のため鋭い視線を向けたが、Cainは慌てて首を横に振った。
もちろん覗くつもりなどない。
男性陣は焚き火の準備を始める一方、その頃――。
RainとNova、そしてSiaは湖畔で靴を脱ぎ、浅瀬に足を浸していた。
透き通った湖の水が足元を優しく撫でるように揺れている。
長く続いた探索と戦闘の日々。
特に風狼王との激戦を乗り越えたばかりの彼女たちにとって、
その冷たく心地よい感触は何よりの癒やしだった。
Rainは満足そうに息を吐きながら湖面を眺める。
Novaも穏やかな表情で水面に視線を向けていた。
最近は休む間もなく戦い続けてきた。
だからこそ、この安全階層で過ごす束の間の平穏がより一層ありがたく感じられる。
湖畔には、戦いの緊張とは無縁の穏やかな時間が流れていた。
風狼王との激闘を乗り越えた三人は、湖を眺めながら静かに言葉を交わす。
「あの時は本当に死ぬかと思った」
「でも勝てた」
「うん」
短いやり取りの後、三人はしばらく黙って湖面を見つめた。
澄んだ水面を渡る風が、心地よく頬を撫でていく。
やがてRainがふと思い出したように口を開いた。
「ねぇNova」
「なに?」
「Novaってさ、最初よりよく笑うようになったよね」
「……そうかしら?」
「うん」
Rainは迷うことなく頷いた。
「最初はもっと近寄りがたい感じだった」
「失礼ね」
Rainの言葉を聞いたNovaは、思わず苦笑を漏らした。
最初は利害の一致で集まっただけの関係だった。
だが、幾度もの戦いを乗り越えた今では、確かに仲間と呼べる存在になっている。
そのことを改めて実感しながら、Novaは静かに目を細めた。
隣にいたSiaもまた、同じ思いを抱いているのか、小さく頷いている。
湖の向こうには、深い森が広がっていた。
その奥には、さらに先へと続く探索路が見えている。
二十三階層――そこは、まだ誰も足を踏み入れたことのない未知の領域だった。
だが、その挑戦はまた次の機会だ。
今だけは、Aegisの面々も束の間の平穏を楽しんでいた。




