第五話 イレギュラーエンカウント
#第五話 イレギュラーエンカウント
低い唸り声が、暗闇の奥から響いた。
それまで聞こえていたゴブリンの鳴き声が、ぴたりと止まる。
通路の空気が変わった。
湿った冷気が、
ゆっくりと肌を撫でていく。
誰も喋らない。
石壁から滴る水音だけが、
静かな通路へ響いていた。
その時だった。
通路奥にいたゴブリンの一体が、
突然後ろを振り返る。
「……?」
Rainが目を細めた。
ゴブリンが怯えている。
いや。
逃げようとしていた。
ギィ、と掠れた鳴き声を漏らしながら、
暗闇から距離を取っていく。
別の個体まで後退を始める。
本来、
プレイヤーへ向かってくるはずのモンスターが。
まるで、
“何か”から逃げていた。
その様子を見た瞬間。
悠真の背筋を、
嫌な感覚が走った。
ゴブリンが、
別のモンスターを恐れている。
本来、一階層で起きる光景じゃない。
暗闇の奥から、
重い足音が響く。
ゴブリンとは違う。
軽くない。
一歩ごとに、
空気が揺れる。
ゴッ。
ゴッ。
湿った石床を踏む音が、
ゆっくり近付いてくる。
その度に、
通路の圧迫感が強くなっていった。
一般探索者たちも異変に気付き始める。
「お、おい……」
「なんか来るぞ……」
「待てよ、これ普通じゃなくないか?」
誰かが後ずさる。
別の探索者が慌てて武器を構えた。
だが。
構え方すら分かっていない。
剣先が震えている。
後衛の女は、
詠唱もせず杖を握り締めていた。
恐怖で、
頭が真っ白になっているのだ。
Garmが無言で盾を持ち上げた。
重心を落とす。
左足を半歩前へ出し、
盾を斜めに構えた。
それだけで、
《Aegis》の空気が切り替わる。
Rainが腰を落とす。
Novaは詠唱を止め、
静かに後方へ下がった。
Crowだけが、
音も無く暗闇を見据えている。
誰も騒がない。
無駄な声を出さない。
長年組み続けた固定PT特有の静けさだった。
その時。
風が吹いた。
生臭い匂い。
獣臭。
血と泥が混ざったみたいな臭気が、
暗闇の奥から流れてくる。
一般探索者の一人が顔をしかめた。
「くっさ……」
次の瞬間。
闇の中で、
複数の赤い瞳が揺れた。
低い唸り声。
爪が石床を引っ掻く音。
そして。
ゆっくりと姿を現した。
黒灰色の毛並み。
鋭い牙。
ゴブリンより遥かに大きい獣型モンスター。
《牙狼》
それを見た瞬間。
誰も、
すぐには動けなかった。
圧が違う。
ゴブリンみたいな雑魚モンスターとは、
明らかに空気が違っていた。
Novaが目を見開く。
「は?」
Rainも思わず声を上げた。
「ちょ、待って。なんでこいつが一階層にいるの?」
本来、《牙狼》は十階層付近で出現するモンスターだ。
序盤探索者が戦う相手じゃない。
少なくとも。
《デプクロ》では。
しかも。
目の前の牙狼は、
通常個体より明らかに大きい。
肩の高さだけで、
ゴブリンを超えている。
牙から滴る唾液が、
石床へ落ちた。
ぴちゃり、と嫌な音が響く。
一般探索者たちが一斉にざわつく。
「お、おい待てよ……」
「こんなの聞いてねぇぞ!」
「軍でも苦戦してたやつじゃ……」
後ろへ下がる者。
今にも逃げ出しそうな者。
隊列が崩れ始める。
恐怖が伝染していた。
「イレギュラーか……!」
悠真は小さく舌打ちした。
完全一致ではない。
その予感が、
最悪の形で的中していた。
怖い。
だが。
恐怖より先に、
頭が動いてしまう。
数。
距離。
退路。
射線。
回復の優先順位。
昨日までは、
ただのゲームだった。
それなのに。
懐かしい、と。
ほんの一瞬だけ思ってしまった。
その感情に気付いた瞬間、
悠真は自分の異常さを理解した。
だが。
考えるより先に、
牙狼の後ろ脚が沈む。
筋肉が膨らむ。
次の瞬間。
石床が砕けた。
「――っ!?」
風が吹き抜ける。
一瞬だった。
気付いた時には、
牙狼は一般探索者の目前まで迫っている。
「ひっ――!?」
後衛の男が悲鳴を上げた。
慌てて杖を構える。
そのせいで、
前衛との距離が崩れた。
前衛も動揺して後ろへ下がる。
結果、
隊列の中央へ穴が空いた。
ヘイト管理も、
立ち位置も何も無い。
初心者PT特有の崩れ方だった。
もしGarmが止めなければ、
そのまま後衛まで一直線に抜かれる。
「Garm!」
「おう!!」
Garmが半歩踏み込む。
盾を低く構えた。
直後。
牙狼が激突する。
鈍い衝突音。
盾が軋む。
「っ……!」
重い。
ゴブリンとは比べ物にならない。
牙狼が押し込む度、
Garmの身体が僅かに後ろへ滑る。
石床へ靴底が擦れる音。
それでも。
Garmは下がらない。
足へ力を込め、
無理やり踏み止まる。
「っ……重っ!!」
Garmが盾を叩き付ける。
鈍い音が響いた。
牙狼の赤い瞳が、
完全にGarmへ固定される。
ヘイトが向いた。
その瞬間。
《Aegis》が動く。
「Crow、右!」
「了解」
Crowは前へ出ない。
ヘイトが散るからだ。
低い姿勢のまま、
牙狼の死角へ滑り込んでいく。
音が無い。
気付けば、
もう側面にいた。
斬撃。
赤い線が走る。
牙狼が唸った。
赤い瞳が、
一瞬だけCrowへ向く。
ヘイトが揺れる。
だが。
Garmが再び盾を打ち鳴らした。
視線が戻る。
固定。
Rainが壁際を蹴った。
低い姿勢のまま、
牙狼の視界から消える。
一瞬。
本当に姿が消えたように見えた。
次の瞬間には背後。
「はっ!」
短剣が首筋へ突き刺さる。
だが。
浅い。
「っ、この硬さ反則でしょ……!」
Rainが舌打ちする。
牙狼の肩が動いた。
筋肉が膨らむ。
爪が振り抜かれる。
「っ!?」
Rainが身体を捻る。
だが避け切れない。
鋭い爪が迫る。
Rainは振り返らない。
Crowがカバーへ入ると、
分かっているからだ。
「Crow!」
黒い影が横から滑り込んだ。
金属音。
Crowの剣が爪を弾き飛ばす。
火花が散る。
一瞬、
視界が白く染まった。
「下がれ」
「……助かった!」
Rainが即座に後退する。
その間にも。
Novaの指先へ、
青白い魔力が集まっていた。
だが撃たない。
Rainがまだ射線上にいる。
半歩待つ。
Rainが外れた瞬間。
Novaの指先から、
冷気が解き放たれた。
《アイスボルト》
氷弾が牙狼の脚を撃ち抜く。
氷が弾ける音。
牙狼の動きが止まる。
ほんの一瞬。
だが、
《Aegis》には十分だった。
「Nova、足止め優先!」
「分かってる!」
Novaはファイアボルトを使わない。
今必要なのは火力ではなく、
制御だ。
詠唱の短いアイスボルトを優先する。
それが最適解だった。
Garmが押し込む。
Crowが回る。
Rainが刺す。
Novaが止める。
誰も無駄に動かない。
誰も余計な声を出さない。
指示は短い。
それだけで通じる。
悠真は全体を見る。
Garmの呼吸はまだ安定している。
盾を持つ腕も下がっていない。
Rainは少し速い。
だが、
まだ動ける。
Novaの詠唱速度も落ちていない。
Crowも問題無し。
まだ崩れない。
なら回復は温存。
Garmはまだ耐える。
今ヒールを切れば、
次で魔力が足りなくなる。
無駄に魔力を使わない。
長期戦を見越しているからだ。
それも攻略だった。
一般探索者たちは、
ただ戦っている。
だが《Aegis》は違う。
攻略していた。
周囲の探索者たちは、
完全に息を呑んでいた。
「なんだあいつら……」
「動きが違いすぎる……」
「同じ探索者だろ……?」
その声には、
恐怖よりも困惑が滲んでいた。
当然だった。
《Aegis》は。
世界で唯一、《デプクロ》百階層を踏破したギルドなのだから。
「Garm、左壁!」
「了解!」
Garmが盾で押し込む。
牙狼の身体が僅かに傾いた。
壁際。
逃げ場が消える。
牙狼の動きが制限された瞬間。
Novaの視線がRainを追った。
射線が空く。
指先へ集まった魔力が、
一気に膨れ上がった。
「――《ファイアボルト》!」
火球。
閃光。
爆炎。
熱風が通路を吹き抜ける。
牙狼が怯む。
その一瞬。
Rainが低く潜り込んだ。
短剣が、
下から喉元へ滑り込む。
「終わり」
血飛沫。
牙狼の脚が崩れる。
重い身体が石床へ倒れ込んだ。
鈍い音が通路へ響く。
静寂。
誰も、
すぐには喋らなかった。
血の匂いだけが、
静かな通路へ広がっていく。
「……っはぁ」
Rainが小さく息を吐いた。
短剣を握る手が、
少しだけ震えている。
緊張が切れた瞬間、
足から少し力が抜けた。
Garmも盾を下ろす。
額から汗が流れていた。
「マジで重かったぞこいつ……」
握っていた盾の柄には、
強く力を入れていた跡が残っている。
Crowは無言で剣の血を払った。
Novaは静かに牙狼を見下ろしている。
だが、
眼鏡の奥の視線は鋭いままだ。
完全には気を抜いていない。
悠真は全員を見る。
呼吸。
疲労。
立ち位置。
まだ誰も崩れていない。
そこでようやく、
少しだけ肩の力を抜いた。
怖い。
だが。
懐かしいとも思ってしまった。
それが何より嫌だった。
昨日まで、
ここはゲームの中だった。
自分たちの居場所だった。
その居場所が。
今は人を殺す場所になっている。
だが。
一般探索者たちは違った。
腰を抜かしている者。
座り込んでいる者。
泣きそうな顔で牙狼の死体を見ている者。
血臭に耐え切れず、
壁際で吐いている男までいた。
ゴブリンとは、
圧が違った。
初心者が戦う相手じゃない。
それを全員理解してしまったのだ。
その時。
《レベルアップ》
半透明ウィンドウが浮かび上がった。
「……マジでゲームだな」
Garmが息を吐く。
だが悠真は、
倒れた牙狼を見つめていた。
「Arc?」
「……ドロップが違う」
牙狼の死体が淡く光る。
光の粒が浮かび上がり、
ゆっくり地面へ落ちていく。
《魔石》
《牙狼の鋭牙》
《劣化魔晶》
最後のアイテムを見た瞬間。
Novaが眉をひそめた。
「そんな素材、デプクロに無かったわよね」
「ああ」
悠真は静かに頷く。
つまり。
この世界は完全再現ではない。
変化している。
デプクロの知識に無い。
それだけで十分、
嫌な予感がした。
その時だった。
突然。
空に浮かぶ巨大ウィンドウが変化する。
《CURRENT DEEPEST FLOOR》
《Depth:3》
Party:
《Aegis》
世界中へ。
その名が映し出された。
直後。
探索者たちのスマホが一斉に鳴り始める。
『《Aegis》って誰だ!?』
『もう三階層!?』
『攻略速度おかしいだろ!』
『海外でも話題になってるぞ!』
SNS通知。
ニュース速報。
配信コメント。
世界中の視線が、
一気に《Aegis》へ集まり始めていた。
海外掲示板では、
既にスレッドが乱立している。
『Aegisは元トップギルド?』
『攻略速度が異常』
『軍より強くないか?』
『あの連携、完全にプロだろ』
動画切り抜きも、
凄まじい勢いで拡散されていた。
『【速報】謎の日本人PT、牙狼を瞬殺』
『軍隊より強い探索者集団現る』
『Aegisのヒーラー、指示が上手すぎる』
トレンド欄にも、
既に《Aegis》の名前が浮上している。
一つのギルド名が、
世界中で一気に広がり始めていた。
そして。
別の場所。
別のダンジョン。
巨大な戦斧を肩へ担いだ男が、
静かに空を見上げていた。
Fenの視線が、
空へ映る《Aegis》を追う。
口元が、
僅かに吊り上がった。
その背後では、
Fenrirメンバーたちが静かに武器を整えている。
誰一人として無駄口を叩かない。
乱れない隊列。
洗練された空気。
世界第二位攻略ギルド。
《Fenrir》
そのリーダー。
真田恒星――《Fen》。
「……やっぱり来たな、Arc」
懐かしさ。
高揚。
そして、競争心。
それらが混ざった目で、
Fenは黒い塔を見据える。
「なら、こっちも遅れるわけにはいかない」
背後のメンバーたちが、
無言で武器を構え直した。
Fenrirの隊列は、
一切乱れていなかった。
読んでいただきありがとうございます。
次回から、他ギルドや世界の探索者たちも少しずつ動き始めます。
《デプクロ》経験者たちによる“現実ダンジョン攻略”を楽しんでいただけたら嬉しいです。




