第107話 傷だらけの帰還
#第107話 傷だらけの帰還
洞窟を出る頃には、風の草原の匂いが戻っていた。
湿った石の冷気が背中から離れ、草を撫でる風が頬を抜けていく。それだけで、さっきまで全身に張り付いていた鉱石の匂いが少しずつ薄れていくようだった。
誰も、しばらく大きな声を出さなかった。
Cainは斧槌を肩に担いでいたが、いつものように雑に振り回す余裕はなく、数歩ごとに担ぐ肩を変えている。握る指は時折、小さく開いては閉じた。
まだ痺れが残っているのだろう。
Rainはその横を歩きながら、後ろを何度か振り返っていた。
「もう来ないよね、あの尻尾」
軽い声だった。けれど、足元の草を踏む歩幅は少しだけ狭く、途中で一度だけ足を止めて膝に手を置いた。すぐに笑って立ち上がったが、息はわずかに乱れている。
Arcはその様子を確認してから、前へ視線を戻した。
「追っては来ない」
短く返すと、Rainは肩の力を抜いた。
「ならよし」
Garmは盾を背負い直した。盾の縁には、メタルリザードの前脚を受けた跡が深く残っており、背負う時に金具がわずかに軋む。
Crowがそれを横目で見て、鼻で笑った。
「盾が先に悲鳴を上げそうだな」
Garmは怒らない。ただ、傷の入った盾を一度だけ見下ろし、背中へ馴染ませるように肩を回した。
「帰ったらDwalfに見てもらう」
その言葉に、Cainも斧槌を軽く掲げようとして、途中で腕を止めた。
「俺の斧槌もな。こいつがなかったら、あの外殻は割れてねぇ」
「その腕も見てもらった方がいいんじゃない?」
Rainがそう言うと、Cainは少しだけ顔をしかめた。
「腕は鍛冶師じゃ治せねぇだろ」
「Mistなら治せるかも」
「それは助かる」
いつもの調子が少しずつ戻ってくる。それでもArcは歩く速度を上げなかった。
戦闘は終わり、素材も回収した。だが、全員の消耗が消えたわけではない。
Novaの肩では、シルフが羽を畳んだまま大人しくしていた。サラマンダーも、いつものように跳ね回らない。補助契約の反動は精霊にも残っているらしく、二体とも小さく揺れるだけだった。
Nova自身も、無言で杖を握っている。
Arcが視線を向けると、Novaは少し遅れて頷いた。
「歩ける」
無理ではない。けれど、返事までのその間だけで、消耗の深さは十分に伝わった。
Arcは杖を軽く掲げる。
「《リフレッシュ》」
淡い光がNovaとCainの足元へ広がった。疲労そのものが消えるわけではないが、重くなっていた呼吸が少しだけ整い、Cainの肩から余計な力が抜ける。
「お、楽になった」
Rainがすぐ横から覗き込んだ。
「腕は?」
Cainは指を何度か握り、渋い顔で笑う。
「まだ笑ってる」
「腕って笑うんだ」
「今なら笑う」
そのやり取りを聞きながら、Siaは後方へ視線を向けていた。
洞窟の入口はもう遠い。それでも、彼女の目は岩山の奥を捉えたまま離れない。
Arcが足を止めるより先に、Siaは小さく口を開いた。
「奥、まだ続いてた」
全員の歩調がわずかに緩む。
Siaは振り返らないまま、記憶の中の景色をなぞるように続けた。
「メタルリザードがいた空洞の奥。細い通路があった。暗かったけど、風は流れてた」
Crowが面倒そうに息を吐く。
「今すぐ戻る、とは言うなよ」
Arcは一度だけ岩山を見る。
ゲームの記憶には、あの奥へ続く通路などなかった。だが、現実のダンジョンはすでに何度も記憶から外れている。
気にならないはずがない。それでも、今は違う。
「戻らない。装備を整えてからだ」
迷いのない即答だった。
その一言に、誰も異論は出さなかった。
マジックバッグの中では、回収した白い鉱石がかすかに触れ合っていた。
歩くたびに、硬い音が小さく鳴った。
シルヴァリアへ戻った時、風の都には夕方の光が差していた。
石畳の上を流れる風は、草原とは違う涼しさを運んでくる。ギルドホームの扉を開けると、真っ先にMistが顔を上げた。
机の上には薬瓶と乾かした薬草が並んでいる。
青風草と水晶花も、すでに整理され始めていた。
「おかえり」
Mistはそう言ってから、すぐに表情を変えた。
Cainの腕、Garmの盾、Rainの膝、Novaの顔色。順番に見て、彼女は薬瓶を一本手に取る。
「……大変だったね」
Rainが軽く手を振った。
「ちょっと硬いのと、ちょっと大きい尻尾がいたくらい」
「それ、だいたい大変って言うんだよ」
Mistは苦笑しながらCainへ近づく。
「腕、見せて」
「やっぱりバレるか」
Cainは斧槌を壁際へ預け、素直に腕を差し出した。
Mistの指が、手首から肘へゆっくり触れていく。腫れはない。骨も折れていない。だが、指先へ力を入れさせると、Cainの眉がわずかに動いた。
筋肉の奥に残った負荷は、見ただけでは分からない。
Mistは少し眉を寄せ、薬瓶の蓋を開ける。
「無茶したでしょ」
Cainは視線を逸らした。
「必要な無茶だ」
「そういう言い方、Arcに似てきたね」
Rainが噴き出した。
Arcは何も言わない。代わりに、マジックバッグを机の上へ置いた。
その音に、奥の部屋からDwalfが顔を出す。鍛冶場にいたのだろう。袖には煤が付き、手にはまだ熱を持った工具が握られていた。
「戻ったか」
それだけ言って、彼の視線は机上のバッグへ落ちる。
Cainが待ちきれないように笑った。
「土産だ」
机の上のマジックバッグへ、部屋中の視線が集まった。
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