第101話 風の精霊
# 第101話 風の精霊
予定していた薬草の採取は、無事に終わった。
採取袋の中で、青風草と水晶花がかすかに触れ合っている。
風が吹くたび、青風草の葉裏が淡く光り、水晶花の花びらが小さな音を立てた。
薄い硝子を爪で弾くような、澄んだ音だった。
Mistに頼まれた分としては十分だろう。
次は二十五階層。
メタルリザードを討伐し、白銀輝鉱を持ち帰る。
それが今日の予定だった。
ただ、その前に。
Arcは滝の方へ視線を向けた。
採取中に感じた違和感。
鳥の声が消えたこと。
虫の音が途切れたこと。
そして、滝の奥から聞こえたような、説明のつかない低い響き。
大きな異変と断定するには弱い。
だが、無視して進むには気になる。
少し寄る、とArcが短く告げると、確認した方がいい、とSiaが先に頷いた。
Crowも滝の方を見たまま肩をすくめる。
「気のせいで済むなら、それでいい」
誰も反対しなかった。
一行は小川を離れ、滝へ向かって歩き始める。
近づくにつれて、水音が大きくなっていった。
最初は遠い地鳴りのようだった音が、やがて絶え間なく空気を震わせる轟音に変わる。
砕けた水が細かな霧になり、風に乗って頬を冷やした。
草の匂いに、水の匂いが混じる。
湿った岩。
濡れた土。
火山地帯とはまるで違う冷たさが、足元から上がってきた。
滝壺の前には淡い虹がかかっている。
近くで見ると、遠目よりもずっと大きかった。
岩壁の上から落ちる水は白く砕け、風に煽られて、時折こちらへ霧を投げかけてくる。
Rainが思わず足を止めた。
「近くで見ると、すごいね」
その声は水音に少しだけ飲まれた。
その時、Novaが足を止める。
彼女は滝そのものではなく、水煙の奥を見ていた。
「……あれ」
小さな声だった。
けれど、全員が反応した。
滝の近く。
水煙の向こう側で、小さな光がいくつも舞っている。
風に流されるように。
いや、風と一緒に遊ぶように。
淡い緑色の光が、空中を自由に飛び回っていた。
Rainが目を丸くする。
「蛍?」
Siaは静かに首を振る。
「違う。動きが風と同じ」
Crowも目を細めた。
「魔物か?」
Novaは光から目を離さない。
「敵意は薄い」
その声は、いつもより少し低かった。
「魔力反応。でも、魔物とは違う」
Cainは斧槌へ手を掛けたまま、眉をひそめる。
「じゃあ何だ」
Novaはすぐには答えなかった。
風の流れを読むように、ゆっくりと手を上げる。
指先に霧が触れ、細かな水滴が肌に乗った。
その水滴が、風に押されてすぐに流れていく。
Novaは目を細めた。
「……精霊」
Arcも光を見上げる。
ゲームでは、ここにこんな精霊はいなかった。
少なくとも、採取ポイントの近くで自然発生するイベントではなかった。
だが、目の前の光を見れば分かる。
これは通常の魔物ではない。
Arcが小さく呟く。
「風精霊か」
Novaはたぶん、と小さく頷いた。
風が吹いた。
光の粒が一斉に舞い上がる。
その中の一つだけが、流れに逆らうようにゆっくり降りてきた。
近くで見ると、小さな身体をしていた。
透き通る羽。
淡い緑色の髪。
身体の輪郭ははっきりせず、風が形を取っているようにも見える。
Rainが息を潜める。
「ちっちゃい……」
伸びかけた手は、Crowの低い声で止まった。
「触るな」
Rainは慌てて手を引っ込める。
Novaは動かない。
近づくでもなく、逃げるでもなく、ただ風精霊を見つめていた。
やがて、肩にいたサラマンダーが小さく火を揺らす。
風精霊も、サラマンダーを見る。
二体の精霊は、しばらく見つめ合っていた。
火と風。
本来なら相性が良いとも悪いとも言い切れない。
風は火を煽ることもあれば、消すこともある。
そのせいか、サラマンダーの炎はいつもより小さく揺れていた。
けれど、威嚇はしない。
風精霊も逃げない。
Novaはその反応を見て、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「大丈夫」
誰に向けた言葉かは分からない。
サラマンダーか。
風精霊か。
それとも自分自身か。
Novaはゆっくりと手を差し出した。
すぐには契約しない。
魔力を押し付けもしない。
ただ、風の流れに呼吸を合わせるように、静かに目を閉じた。
滝の音がある。
草を揺らす音がある。
水煙が肌に触れる感覚がある。
その中に、細い魔力の流れが混じっていた。
火精霊と契約した時とは違う。
サラマンダーは熱だった。
近づけば分かる、はっきりした力だった。
だが、目の前の風精霊は違う。
掴もうとすれば抜ける。
追えば遠ざかる。
ただ待つと、向こうから近づいてくる。
Novaは指先を動かさなかった。
風精霊が、ふわりとその指先へ降り立つ。
重さはほとんどない。
ただ、指先の水滴が一瞬だけ丸く浮いた。
Novaの足元に、淡い緑色の魔法陣が広がっていく。
円ではある。
だが、火の魔法陣のように熱を帯びてはいない。
線が風に流されるように揺れ、形を変えながら、それでも崩れずにNovaの周囲を巡った。
「《契約》」
小さな声だった。
滝の音に消えそうなほど静かだったのに、不思議と全員の耳に届いた。
風が渦を巻く。
草が伏せる。
滝から流れてくる霧が、一瞬だけNovaの周囲で輪を描いた。
光が強くなる。
眩しいほどではない。
優しく包み込むような光だった。
サラマンダーが肩の上で小さく火を揺らす。
風精霊はその火を見て、笑うように身体を震わせた。
次の瞬間、魔法陣が静かに消える。
風も、ゆっくりと元の流れへ戻っていった。
Novaは目を開ける。
肩には風精霊。
その隣ではサラマンダーが、小さく火を揺らしていた。
二体は少し距離を空けながらも、大人しく並んでいる。
待ちきれないRainが、少し身を乗り出した。
「どう?」
Novaは肩の風精霊を見つめる。
普段ほとんど表情を変えない彼女の口元が、ほんの少しだけ綻んだ。
「……できた」
その一言には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
Rainは両手を上げる。
「やったー!」
Cainも豪快に笑った。
「二体目か! すげぇじゃねぇか!」
Garmは静かに頷く。
「おめでとう」
Crowは肩の風精霊を見つめた。
「制御はできるのか」
祝いの空気を壊すようでいて、その問いは必要だった。
Novaは風精霊へ視線を向ける。
「少しだけ」
彼女が指を動かすと、足元の霧が小さく渦を巻いた。
水滴が一つ、空中に浮く。
それはNovaの手のひらの上でくるりと回り、すぐに弾けて消えた。
Rainが目を輝かせる。
「おお……」
Novaは首を横に振る。
「まだこれくらい」
Cainが笑う。
「十分すごいだろ」
Novaは少しだけ困ったように風精霊を見た。
「戦闘で使えるかは、別」
Arcは風精霊から視線を外した。
「無理に試す必要はない」
ゲーム知識で言えば、風精霊は機動補助と風属性魔法に関わる。
だが、現実で契約したばかりの精霊を、いきなり戦闘で酷使するべきではない。
契約はできた。
それで十分だった。
Arcが短く告げる。
「二十五階層へ向かう」
全員が動き出しかけた、その時だった。
Novaが足を止める。
肩の風精霊が、彼女の髪を揺らすように小さく羽を震わせていた。
その隣で、サラマンダーも火を細く揺らしている。
Novaは自分の手を見た。
指先にまとわりつく風。
さっきまでとは違う、身体の軽さ。
それを確かめるように一度だけ拳を握る。
「少し待って」
全員の足が止まった。
Novaは風精霊とサラマンダーを順に見てから、Arcへ視線を向ける。
「スキルの話をしたい」
滝の音が、短い沈黙を埋めた。




