第1章 第2話「三人の写真」
写真のことは、頭のどこかに引っかかったまま、離れなかった。
作業に集中しようとすると、ふと浮かぶ。
三人。
俺と、修二と、あと一人。
その一人だけが、どうしても思い出せない。
“わからない”のではない。
思い出せない。
しかも、それを思い出そうとすると、どこかで止められる。
自分で、自分にブレーキをかけているような感覚。
それが、ひどく気持ち悪かった。
*
遺品の仕分けは、単調だった。
衣類、食器、書類。必要なものと不要なものを分けていくだけの作業。会話もほとんどない。修二は黙々と手を動かし、俺もそれに倣う。
それでも、意識はすぐに逸れた。
気づけば、あの写真のことを考えている。
「休憩するか」
修二が言った。
顔を上げると、いつの間にか日が傾いている。
「ああ……そうだな」
喉が乾いていた。
台所で湯を沸かし、インスタントのコーヒーを二つ作る。祖母の家の食器は使い込まれているはずなのに、妙に綺麗だった。
几帳面だったのかもしれない。
あるいは、誰かが整えたのか。
どちらでもいいはずのことが、やけに引っかかった。
*
居間に戻ると、修二はアルバムを開いていた。
「それ……」
「さっきのとは別。こっちは普通のやつ」
ページをめくる。
家族写真、行事、何気ない日常。
どれも見覚えがあるはずなのに、確信が持てない。
「なあ」
「ん?」
「俺たち、昔よくここ来てたよな」
「来てたな。夏休みとか」
「三人で?」
言った瞬間、自分でも違和感を覚えた。
“三人”という言い方。
まるで、それが前提みたいな。
修二は少しだけ考えて、曖昧に頷いた。
「……まあ、三人のときもあったな」
「“も”ってことは、違うときもあったのか」
「そりゃあるだろ」
もっともらしい。
だが、どこか噛み合っていない。
俺はアルバムを引き寄せた。
ページをめくる。
祖母、両親、修二、そして俺。
写っている人間は、ほとんど固定されている。
なのに。
「……いないな」
「何が?」
「いや……」
言葉が出てこない。
“あの一人”がいない。
そう言えば済むはずなのに、それができない。
いないのが普通なのか、それとも異常なのか。
判断がつかない。
*
「さっきの写真」
修二がぽつりと言った。
「気にしてるのか」
「……まあな」
「珍しいよな、ああいうの残ってるの」
「そういう問題か?」
「違うのか」
コーヒーを一口飲み、修二は視線を外した。
その態度が、妙に引っかかる。
「名前、覚えてるか?」
「誰の」
「真ん中のやつ」
修二は目を伏せた。
考える、というより、探しているような顔だった。
「……出てこないな」
「だよな」
「でも、知らないわけじゃない」
「ああ」
会話が、妙に一致する。
それが、余計に気持ち悪い。
「呼び方、なんて呼んでたっけ」
無意識に口にしていた。
名前じゃなく、呼び方。
何か一つでも引っかかれば、そこから辿れる気がした。
修二はわずかに眉をひそめる。
「……呼んでたか?」
「呼ぶだろ、普通」
「いや、そうだけど……」
言葉が続かない。
沈黙が長くなる。
喉の奥に、嫌な感覚が広がった。
思い出そうとするほど、遠ざかる。
*
「……書いてみるか」
気づけば、そう言っていた。
「は?」
「名前。紙に書けば、出てくるかもしれない」
理屈はない。
ただ、そうすれば思い出せる気がした。
メモ帳とペンを取る。
白い紙に、ペン先を落とす。
――思い出せ。
一画目を書く。
その瞬間、手が止まった。
「……なんだこれ」
線が、歪んでいる。
文字になっていない。
ただの線。
いや、線ですらない。
途中で、意味を失っている。
もう一度書こうとする。
そのとき、
一瞬だけ、線が“文字の形”になった気がした。
読めそうで、読めない。
次の瞬間には、ただの歪んだ線に戻っている。
――今、何を書こうとした?
思い出せない。
書こうとしたはずなのに。
「おい、大丈夫か」
修二の声が近い。
呼吸が浅い。
心臓の音がうるさい。
もう一度、書こうとする。
だが、ペンが動かない。
まるで、これ以上進むことを拒まれているみたいに。
「……っ」
ペンを放す。
カラン、と乾いた音。
紙の上には、意味のない線だけが残っていた。
読めない。
自分で書いたはずなのに。
「やめとけ」
修二が言った。
「無理に思い出す必要ないだろ」
「……そうか?」
「どうせ、そのうち思い出す」
軽い口調。
だが、“そのうち”という言い方が引っかかった。
まるで、決まっているみたいな。
*
メモ帳を閉じる。
視界の端に、さっきの線がちらつく。
見ていると、読めてしまいそうな気がした。
読めた瞬間、何かが決定的に変わる気がする。
だから、見ない。
そのとき、不意に思った。
――写真の裏。
さっき見た、何もなかったはずの白い面。
「なあ、修二」
「ん?」
「裏、何か書いてなかったか?」
「いや、なかったと思うけど」
即答だった。
迷いがない。
それが、少しだけ引っかかる。
*
奥の部屋へ向かう。
足音が、やけに響く。
廊下が、少しだけ長くなった気がした。
気のせいだ。
そう思いながらも、無視できない。
襖を開ける。
段ボールは、さっきと同じ場所にある。
新聞紙をめくる。
写真の束。
その中から、例の一枚を引き抜く。
裏返す。
白い面。
何もない。
――はずだった。
「……あれ」
うっすらと、何かが浮かんでいる。
文字のような、跡。
消えかけたインクみたいに、かすれている。
目を凝らす。
読めそうで、読めない。
だが、確かに“何か”がある。
名前のようにも見える。
息を止める。
視線を近づける。
その瞬間、
背後で、ぎ、と音がした。
振り返る。
誰もいない。
襖は開いたまま。
廊下の奥まで見える。
何も変わっていない。
もう一度、写真を見る。
――消えている。
さっきまであったはずの“跡”が、綺麗に消えていた。
真っ白なまま。
最初から何もなかったみたいに。
俺はしばらく、その白さを見ていた。
何かを見たはずなのに、思い出せない。
思い出そうとすると、また止められる。
頭の奥で、何かが拒んでいる。
ゆっくりと、写真を表に戻す。
三人の子供が並んでいる。
中央の“誰か”が、こちらを見ている。
その顔が、さっきよりも――
はっきりしている。
見覚えがある。
思い出せないはずなのに、
名前だけが、喉の奥まで上がってきている。
――俺は、こいつを知っている。
その確信だけが、残った。




