空白-2
授業が終わり講義室を後にする。結局隣の彼は、授業中本を読み続けていた。まさに一心不乱にといった感じで、人がそれほど何かに熱中している姿を見るのは新鮮だった。
二限と三限の授業に出席し、最低限のノートを取り、僕は家に帰った。大したこともしていないのに、疲労を感じる。しかし、往復30分の自転車通学は、そこそこに体力を浪費するものと言っても良いかも知れない。
自転車を玄関の横に停め、鍵をかける。玄関の鍵を開け、散らかった部屋が目に入る。この部屋を見るたびに、片付けなければと思う。そう誰かが命令してくれれば良いのだが。高校まではそうやって生きてきたのだ。部活と勉強に取り組めと、僕の手綱を握った彼らは言った。時に彼らは教員であり、両親であった。その言葉に従った僕の成績はそこそこに優秀だったし、部活でも主力だったと言って良いだろう。絵に描いたような文武両道の優等生。模範的という言葉は、僕に非常に似合っている。教員も両親も親戚も同級生も僕を褒めた。僕の人生は店頭に人気商品として陳列されてもおかしくはない。
しかし、僕から見れば、他人の意思で生産された僕よりも、自らの意志で怠惰と快楽に飛び込んだ一部の同級生たちの方がよっぽど人間らしく、自由で、個性的で、楽しそうに見えた。僕の指導者たちが軽蔑していた彼らに、僕は羨望と嫉妬を抱いていた。高校、大学と偏差値によって環境が輪切りにされていくにつれて、僕のような人間がたくさんいることが分かった。僕らの中には、アイデンティティーと呼ばれるような崇高なものは、存在していないように感じられた。
安定した退屈なレールから外れることができる人を羨ましく思う。僕は自分の意思では、怠惰にすらなりきることが出来ないのだ。
リュックをベッドの脇に置き、ジーンズだけ脱いで、ベッドの上に横になる。背中の裏で掛け布団が捩れているのが鬱陶しい。スマホを取り出し、インスタを開く。スマホは退屈を埋める発明だ。こんなにつまらないものが僕を含め大多数の人の人生よりも面白い。この事実はかなり悲惨なものだと思うのだが、気にしない。僕は多数が正しいと思うほど馬鹿ではないが、多数の中に居心地の良さを覚える凡人だ。僕の実感を欠いた人生は、多数の中にいるからこそ成立している。
ネット上の友人のストーリーを適当に眺める。写真と動画が次々と流れてくる。それを見て、一年生の時に一度だけ行った派遣バイトのことを思い出す。ベルトコンベアーに乗る商品の検品をひたすら行なった。その時と同じような感覚で、それらの投稿に視線を向ける。
似通ってしまった投稿の数々によって、彼らが同じ場所に行き、同じ事をしているような錯覚に陥る。飲み会の乾杯。フラペチーノ。カフェ。高そうな料理。夜景。意識高い系。カップル。テーマパーク。散髪後の髪型。投稿者にしか需要のないそれらは、彼らの切り取られた強烈な自意識を発している。投稿者たちはお互いの自意識を舐め合って生きている。自分の自意識を受容してもらうために、他人の自意識を許容する。そういう気持ちの悪い惨めな空間が、ネットの中にも出来上がっている。しかし、その空間の中にいて、観察者の目線でこき下ろしながら彼らの自意識を一方的に摂取し続けている僕が、一番気持ち悪い。
いつの間にかストーリーも見るものがなくなってしまった。今日はバイトもないし、飲み会の予定もない。授業の課題も特にない。就活でも始めれば良いのだろうが、自発的な行動をするための意欲はどこかに捨ててしまっている。僕に行動を促してくれる外部からの刺激が、今日は一段と不在している。




