表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空白  作者: 伊原亜紀
1/18

空白-1

 目覚ましが鳴る。止める。寝返りを打つ。髪の毛が枕に擦れる音がする。鳴る。止める。鳴る。止める。鳴る。四度目の音で、ようやく目を覚ますことを決意する。

 バイト先である居酒屋で、遅くまでバイト仲間と飲んでいたせいで、頭がひどく痛む。鳩尾の部分にも不快感を感じる。最悪の気分だ。

 僕は痛む頭を持ち上げて体を起こした。同時に枕元に置かれていた漫画がベッドから落ちた。昨日の夕方、飲み会に出かける前に読んでいたものだ。ある日、主人公の平凡な日常が壊される、そんな典型的な設定に惹かれた。

 ベッドから立ち上がり、畳まずに捨てられている服を踏みながら、部屋の中央にある机まで歩いた。服の下に置かれた硬いボールペンのようなものを踏んでしまう。寝ぼけているせいか、頭痛のせいかはわからないが、ボールペンを踏んだ痛みを頭が正確に知覚しない。ぼんやりとした輪郭のない痛みを俯瞰的に感じる。

 机の上に置いてある小物入れとなったクッキーの空き缶から、頭痛薬を取り出す。部屋の扉を開けて、玄関と部屋をつなぐ狭い廊下に面したキッチンに移動し、蛇口を捻った。出てきた水がシンクを叩きはじめた。水の勢いが強く、シンクに当たった水が跳ね返ってくる。わざわざコップを出して水を汲むのも面倒なので、水を弱め、首と体を傾けて口に水を直接含んだ。効率悪く水が溜まった口の中に頭痛薬を入れ、水と一緒に飲み込む。水が乾いた喉を通っていくのを感じる。水が胃袋に到達した感覚を通して、俯瞰的な感覚が少し薄れてきた。それと同時に、こめかみを潰すような頭の痛さを、僕はより鮮明に感じた。

 タバコの匂いがついた服を脱いで洗濯機にいれ、浴室に移動する。昨日の飲み会の後、風呂に入る余力はなかった。右腕を上げ脇の辺りの匂いを嗅いでみる。匂いはない。出かける前に塗ったデオドラントが効いているのだろう。蛇口を捻り、シャワーから水を出す。浴室の床に当たって跳ね返ってきた水が冷たい。数秒ほど水がお湯に変わるのを待つ。熱くなったシャワーを頭から浴びる。まだほとんど眠っていた体が目覚めていく。冷凍肉が解凍されていくように、じわじわと。頭から流れていくお湯に、頭痛の痛みが溶け込んで消えていくような気がする。

 もしも明日世界が一変したら。この平坦で彩りのない日常が一変したら。そんな危険な希望を抱いてしまう。危機的状況に陥ったら、生きるということだけを一生懸命に努めれば良い。生きることだけに熱心に取り組みたい。きっと僕は恵まれ過ぎているのだろう。

 体を冷やしたくないので、シャワーを浴びながら歯磨きをする。鏡で顔を確認する。黒い髭が斑に生えていたが放って置く。

 風呂から上がり、バスタオルで体を包むようにして拭く。買った当時の弾力感のようなものはタオルからなくなり、ごわごわとした感覚が身体を包む。この不快に感じていた感覚もいつしか当たり前になり、買い替えようという気持ちはなくなっていた。

 下着だけ身につけ、ドライヤーで髪を乾かす。ドライヤーをしながら、昨日の飲み会のことを思い出す。賑やかなばかりで、退屈な飲み会だった。おそらくああゆう類の飲み会は、構成員が変わったとしても、大した変化はないだろう。タバコの煙の中で、どこかで聞いたような話が永遠と繰り返された。そんな話を飽きもせずに楽しそうにしている彼らを少し引いた目線で見ていた。一緒にいながら観察者の目線で彼らを見下す僕の後頭部を、誰かに灰皿で殴りつけて欲しかった。

 髪を乾かし終えて、下ろし立ての靴下と、着古したジーンズを履き、黒い半袖のシャツを着る。

 中学三年の時から使っているグレゴリーの黒いリュック。リュックの底は、端の部分が少しだけ切れてしまっている。そのリュックに中に今日の教材を詰め込む。床は多少散らかってはいるが、教材は机の上にある程度まとまっているので、準備にそれほど支障はない。

 教材が入り、重みが増したリュックを背負い玄関に向かう。背負ったリュックの重みで、頭痛の痛みが強くなった気がする。

 玄関を出て、温暖化した九月の朝の熱を感じる。自転車を漕いだら、すぐに汗をかくだろう。

 玄関のすぐ横に停めてある自転車。卒業したバイト先の先輩から譲り受けたものだ。スタンドを下ろし道路まで自転車を押す。少し坂になっている道。その坂の上に向かって自転車を漕ぎ出す。錆びたチェーンの音が鳴る。今日もまた一日が始まった。

 大学へ向かって自転車を漕ぐ。いつもの月曜日と全く同じ。変化のない凪のような日々。感情が大きく揺れ動くことはないが、霧のように捉えようのない不安が漂い続ける。

 日常のほんの隙をついて生まれた空白の中で、その霧は一層深さを増す。僕はその霧を追い出すために、必死に何かで空白を埋めようとする。SNS、飲み会、出会い系、勉強。けれど、それらは次の時間へ渡るためだけのその場しのぎでしかなかった。ただの逃避でしかなく、没頭はないし解決もなかった。そうやって時間を過ごしていくうちに、つぎはぎだらけの自分が完成した。そんな僕を、逃避により一層濃くなってしまった霧が蝕んでいった。精神を、生活を。

 大概にして、文系の大学生に与えられた時間はあまりにも長すぎるのだ。長すぎて、逃避するだけでは逃げきれない。僕に統制された義務を下さい。朝起きてから夜眠るまでの綿密な時間割があれば、僕はこの霧から解放されるかもしれない。

 大学に着き、指定された駐輪場に自転車を停める。清潔に濾過された特徴のない退屈な大学。僕にお似合いの大学だ。この大学に通っているほとんどの学生は、みんなが誰かによく似ていた。きっとここの人間のほとんどは、青春の大部分を勉強に捧げてきた誇りとコンプレックスを持っている。

 ジーンズのポケットに手を引っ掛け、講義室がある棟に向かって歩く。頭痛はいつの間にか消えていた。

 この大学に入学し、一人暮らしも始まった。新しい環境に強引に身を置くことになった時、僕の中で何かが変わる気がした。同じ日々の繰り返しだった、退屈で制限された高校までの人生からの解放は、僕に何かをもたらしてくれる予感があった。

 与えられた自由は僕を高揚させ、選択肢の多さが僕に時間の消費を促した。しかし、その自由も選択肢の多さも結局その場しのぎの連続でしかなかった。大学一年の秋には、供給過多の自由によって退屈な日常が完成していた。そして今となっては、高校までのような生活を望んでいる。もしかしたら、社会人になり統制された時間の中に身を任せることを、僕以外の多くの人も望んでいるのかもしれない。

 講義室に入り、窓際の後方の三人掛けの席の端に座る。その辺りが一番落ち着いて授業を受けられる。多くの後ろに座る生徒のように、授業へのやる気を特段に欠いているわけではない。かといって、特別やる気があるわけではない。単位だけ取れれば良いのだ。

 リュックから教科書とノートを出し、机の上に置く。この授業の教授は、二千円もする自分の本を買わせた。授業ではまだ使われていない。

 授業開始の2分前になったが、一緒に授業をとっている友人は現れないし、連絡もない。おそらく寝坊したのだろう。大学生にとって一限の授業ほど厄介なものはないだろう。そういえば彼は、昨日飲み会に行っていた気がする。彼がインスタに投稿した飲み会の様子を僕は見た気がする。しかしそれは、昨日だったかもしれないし、一昨日だったかもしれない。彼はよく飲み会に行くし、大抵の場合において、彼はそれをインスタに投稿する。そして僕は、毎日インスタを見ている。

 席を挟んで一つ隣に男が座った。黒く短い髪の毛。シンプルな装い。白いシャツの上に紺色のジャケットを着ており、おそらくそれとセットのズボンを履いている。足元では黒い革靴が光を放っていた。大学生なのに、社会人のような出立。都会のビル群の中にある喫茶店でパソコンを弄っていそうな男。俗にいう、意識高い系。彼がインスタに投稿していそうな内容が頭に浮かぶ。夜景。謎のアンケート。早朝ワーク。筋トレ。そして彼の仲間たち。

 僕は頬杖をつきながら、横目で彼の様子を見る。彼はバックから教科書でもノートでもなく、一冊の本を取り出した。手で隠れてしまいタイトルは見えない。しかし、彼の手の隙間から本の表紙に載っている中年の白人男性の姿が見えた。アメリカかどこかの大企業のお偉いさんだろう。どこかで見たことがあるような気がする。きっと自己啓発本のたぐいだろう。

 彼は少し前のめりになりながら、熱心に本を読み始めた。

 メガネをかけた痩せた教授が講義室に入ってきた。資源経済学の教授なのだが、典型的なマッドサイエンティストな見た目をしている。大概にして自分の作り出した怪物にやられる役だ。

 前からプリントが配られてくる。僕は前の席の茶色い髪の女から配られてきたプリントを隣の男に渡し、残りを後ろに回す。彼は顔をあげ、ありがとうございます、と言った。お礼を言うことの大切さがその本に書いてあったのだろうかと、少し意地悪なことを考えてしまう。僕は少し笑みを浮かべ会釈をする。笑顔の大切さも、啓発本には書いてありそうだ。

 授業が始まる。僕はノートを取る。教科書は開かれない。隣の男は本を読み続ける。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ