表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
《世界崩壊カウントダウン》通信断絶、物流停止――その日、日常は静かに死んだ  作者: リン・モ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/11

第8話 空腹――人はどこまで人でいられるか


2027年6月24日、午前二時半。


ユ・モーランは、空腹で目を覚ました。


それは飢えではない。

内側から削られていく感覚だった。


胃壁同士が擦れ合い、自分自身を食い潰していくような痛み。


血糖の低下で視界が揺れる。

完全な暗闇のはずなのに、存在しない光がちらつく。

金色の粒が、脳の奥で弾けていた。


しばらく横になったまま、眠りで誤魔化そうとした。

だが、無理だった。


喉の奥に残る硫黄の匂い。

嚥下のたびに、引っかかるような違和感がある。


彼はゆっくりと身体を起こした。

無駄な動きはしない。

この身体に残っているカロリーは、もう限られている。


床に足をつける。

湿気を含んだ冷気が、皮膚を通して染み込んでくる。

ぬめりを帯びた、不快な冷たさ。


キッチンは、さらに冷えていた。


手探りでシンクへ向かい、窓の外から差し込むわずかな灰色の光を頼りに、あのピッチャーを見つける。


中には、半分にも満たない量の液体。

昨日の――あの水。


淡い琥珀色。

そして、あの“滑り”。


コップは使わない。

そのまま口をつけ、一口。


舌に触れた瞬間、ぬめりが広がる。

生の卵白のような感触が、食道を滑り落ちていく。


だが、構わなかった。


これでも、胃酸を少しは和らげる。


二口で止める。

それ以上は危険だった。

量が少ないこともあるが、何より――あの感触が、胃を逆流させる。


冷蔵庫は、完全に死んでいた。


角に置かれたそれは、もはや食料を保存するものではない。

腐敗を閉じ込めるための鉄箱だ。


昨日、最後に残っていた冷凍肉。

加熱する前に異臭を放ち、灰緑色に変色していた。

そのまま捨てた。


今、この部屋にある食料は――


湿気を吸った米が半袋。

乾麺が、いくつか。


それだけだった。


リビングへ戻る。


リ・ジーシーは、ソファの縁に半分崩れるような姿勢で眠っていた。

無理な体勢のまま、限界で落ちたのだろう。


シャオユイはその内側。

あの汚れたウサギのぬいぐるみを、まだ抱えている。


熱はない。

だが、明らかに痩せていた。


頬が落ち、パジャマが身体に合っていない。

布が、余っている。


眠りも浅い。

眉間に皺を寄せたまま――夢の中でも、空腹に耐えている。


やがて、空が白み始める頃。


雨が止んだ。


ここ数日では、ほとんどあり得なかったことだ。


ユ・モーランはベランダの扉へ向かう。

テープで密閉された隙間に手をかけ、ゆっくりと引く。


――ベリッ。


鈍い裂ける音。


次の瞬間。


匂いが、押し寄せた。


腐敗。

湿気。

そして――説明のつかない“何か”。


地面の水は、わずかに引いていた。


だが、その下から現れたものは――

死んだ植物の残骸。


花壇は、すべて黒い泥へと変わっている。

その表面を覆うのは、光沢のある膜。


黒く。

油のように光る菌の層。


向かいの棟の外壁にも、それは広がっていた。

朝の弱い光を受け、ぬらりとした輝きを放っている。


「老刘――! 老刘――!」


突然、下から声が響いた。


かすれた叫び。

泣き声が混じっている。


ユ・モーランは身を乗り出す。


四号棟の女だ。


雨具も着ていない。

髪は顔に貼り付き、手には赤いバケツ。


中身は、空。


彼女はマンホールの前に立ち、叫び続けていた。


「返事してよ――!」


だが、応答はない。


ただ、音だけがあった。


ブン、ブン、と低く唸る羽音。


異様に大きなハエ。

緑色に光る体。


小型のドローンのように、頭上を旋回している。


やがて、女は声を止めた。


ゆっくりとしゃがみ込み、バケツを水に沈める。

黒い水を掬う。


何度か繰り返し――


持ち上げた。


そこにあったのは。


靴。


古い男物の靴だった。


彼女はそれを抱きしめるように持ち、泥水の中へ座り込む。


肩が震えている。


だが、声は出ない。


ユ・モーランは静かに扉を閉めた。

再びテープで封じる。


午前八時。


リ・ジーシーが起きる。

目の下は深く沈んでいた。


彼女はすぐに、部屋の隅へ向かう。

密閉容器。


排泄物を入れたものだ。


「……夜に、外へ捨てる」

小さな声。


「もう、限界」


朝食。


麺を、あの水で煮た。


淡い黄色の粥のようなもの。


「食え」


ユ・モーランは三つに分ける。

自分の分が一番少ない。


シャオユイは黙って見ていた。


泣かない。

拒まない。


ただ、機械のようにスプーンを動かす。


表情がない。


「……パパ」


ふいに手が止まる。


「お肉、食べたい」


ユ・モーランの手が、わずかに震えた。


「……そのうち、手に入る」


視線を落としたまま言う。


「雨が止んだら、取りに行く」


「おばあちゃんの家のお肉がいい」


スプーンを舐める。


「脂があるやつ」


沈黙。


そして、彼は言った。


「……行くか?」


シャオユイが顔を上げる。


「田舎の、おばあちゃんのところ」


目が、わずかに光る。


「行きたい!」


「犬もいるし、鶏もいる」


「うん!」


リ・ジーシーがこちらを見る。


ユ・モーランは目を合わせない。


「雨が止んだらな」


少女は頷いた。


午後。


手回し式のライト。


ギシ、ギシと乾いた音。


百回回す。

点灯。


一瞬、光る。

すぐ消える。


もう一度。


今度は、かろうじて維持された。


弱い光。


壁に掛けられたナイフを照らす。


古い折りたたみナイフ。

ほとんど使われていなかったもの。


刃を出す。


光が、細く反射する。


「……外、行くの?」


リ・ジーシーの声。


「ああ」


短く答える。


「何か残ってるか、見る」


午後二時。


完全装備。


袖口、裾。

すべてテープで封じる。


ゴーグル。

手には工具。


正面は使わない。

非常階段へ。


暗い。

臭い。

静かすぎる。


三階。


一つの扉が、わずかに開いている。


ユ・モーランは壁に沿って近づく。

呼吸を止める。


工具で、そっと押す。


――ギィ。


嫌な音。


中は荒れていた。


引き出し。

衣類。

割れた食器。


だが。


人はいない。

死体もない。


キッチン。


空。


米びつは倒れ、何も残っていない。


冷蔵庫。


黒い液体。


それだけ。


寝室。


すべて、持ち去られていた。


――誰かが来ている。


それも、最近。


ユ・モーランは即座に引き返す。

扉を閉める。


だが、鍵は壊れていた。


部屋へ戻る。


リ・ジーシーが待っている。


「どうだった?」


彼は首を振る。


「……始まってる」


工具を床へ落とす。


鈍い音。


「ドアをこじ開けてる」


窓の外を見る。


灰色の空。


「もう待てない」


テーブルの上の水を叩く。


「こっちも限界だ」


沈黙。


「……どうするの?」


「行く」


短く。


「スーパーだ」


遠くに煙が上がっている。


「あそこに、まだ残ってるはずだ」


振り向く。


壁の絵。


シャオユイが描いた家族。


笑っている三人。


大きな太陽。


蝋燭は五本。


灯さない。


闇の中、三人は寄り添う。


ナイフは枕の下。


手を伸ばせば、すぐ届く。


――足音。


外。


小さく。


扉の前で、一度止まる。


静止。


そして。


遠ざかる。


ユ・モーランの手は、強く柄を握っていた。


音が消えるまで。


完全に消えるまで。


ようやく、力を抜く。


ソファにもたれ、呼吸を整える。


外から、水の滴る音。


規則的に。


冷たく。


シャオユイの額に触れる。


冷たい汗。


思い出す。


あの靴。


あの女。


そして。


壊れた扉。


――もう、守られてはいない。


――奪うしかない。


生きるためなら。

人であることを捨てても。


目を閉じる。


脳裏に浮かぶのは。


あの粘つく食事。


そして。


窓の外を覆う、黒い膜。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ