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《世界崩壊カウントダウン》通信断絶、物流停止――その日、日常は静かに死んだ  作者: リン・モ


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第7話 水の味――それでも、飲むしかなかった


2027年6月23日。


雨の音が、変わっていた。


叩きつけるような激しさは消え、

ただ粘つく舌のように、建物の外壁を舐め回している。


目が覚めた瞬間、ユ・モーランは喉に手を当てた。


乾いている。

いや――乾きすぎて、痛い。


喉の奥に、棘のある枯草を詰め込まれたような感覚。


反射的に、枕元へ手を伸ばす。


何もない。


昨日の午後、あの半分残っていた「農夫山泉」は飲み切った。

空のペットボトルは潰され、ベッドの下の備蓄袋に押し込まれている。


今日も一度、下に降りた。


小さなスーパーは閉まったまま。

自治会も、もう水を配らない。


扉を叩く音だけが増えた。


「水をくれ」


そう言う声。


だが、誰も応えない。


部屋の中。


棚の上には、口の開いたガラスのピッチャーが置かれている。


中の液体は――黒くはない。


一日かけて濾されたそれは、淡い琥珀色をしていた。

古い茶のようでもあり、どこか標本液にも似ている。


濁りはない。

底まで見える。


それが――今の水だった。


リビング。


リ・ジーシーは床に膝をついていた。


鍋、ボウル、洗面器。

様々な容器が並び、奇妙な実験室のような光景を作っている。


彼女の手には、白いシャツの切れ端。


ユ・モーランのものだ。

面接のときだけ着ていた、高密度のコットンシャツ。


それはもう、原型を留めていない。


布を漏斗に被せ、輪ゴムで固定する。

そこへ、墨を溶かしたような雨水を、ゆっくりと注ぐ。


「……何回目だ」


声が掠れる。


「四回目」


振り向かずに答える。


「ちゃんと濾せてる。ほら、泥は全部ここ」


彼女が指した布は、すでに黒く変色していた。

厚く、粘り気のある沈殿物が貼りついている。


下に落ちる水は、黄色がかっているが、透明だった。


滴る音だけが、やけに澄んでいる。


ユ・モーランは頷いた。


「……悪くない」


そう言いながらも、視線は外さない。


泥を取り除けても、

“何か”が残っている感覚は消えなかった。


部屋の隅から、黒いカセットコンロを引きずり出す。


テーブルに置く。


カチリ、と音がする。


残り少ないボンベ。

これで三本目。


火をつける。


青い炎が、鍋底を舐める。


やがて水が動き出す。


小さな気泡。

揺れ。


そして、沸騰。


その瞬間、匂いが広がった。


泥の臭いではない。


硫黄。

それに、腐った海産物のようなアンモニア臭。


狭い室内に、逃げ場はない。


表面に、膜が浮かぶ。


油のようでいて、違う。

割れて、また繋がる。


虹色の光を反射している。


「……油?」


リ・ジーシーが眉をひそめる。


「違うな」


ユ・モーランは目を離さない。


「……何かの“残り”だ」


生きていたものか。

死んだものか。


判別はつかない。


「飲めるの?」


「わからない」


短く答える。


「酸かもしれないし、重金属かもしれない」


一拍。


「でも、水はこれしかない」


「ガス、もうすぐ切れる」


小さな声。


「……あと十秒」


彼は火を止めない。


「濾過じゃ、生きてるものは残る」


そして。


十秒後、ノブをひねる。


炎が消える。


静寂。


鍋の中だけが、しばらく揺れている。


やがて落ち着き、底に薄い白い沈殿が現れた。


溶け込んでいた何かの残り。


朝食は、インスタント麺。


淡い黄色のスープ。

見た目は、悪くない。


匂いだけが、異質だった。


三人でテーブルを囲む。


シャオユイはソファに縮こまり、

汚れたウサギのぬいぐるみを抱えている。


視線は、碗に向かない。


「食べろ」


ユ・モーランは碗を持ち上げる。


「外よりはマシだ」


自分に言い聞かせるように。


一口、飲む。


止まる。


予想と違う。


砂もない。

苦味もない。


ただ――


滑る。


舌の上を、抵抗なく通り抜ける。

まるで、生の卵白。


あるいは、粘液。


喉へ落ちる。


遅れて、甘さが来る。


不自然な甘さ。

人工的で、金属的な後味。


硫黄と、調味料の匂いが混ざる。


まるで。


何かの体液。


胃が、わずかに収縮する。


拒絶反応。


だが、吐かない。


「……飲める」


碗を置く。


「問題ない」


嘘ではない。

だが、真実でもない。


リ・ジーシーは麺を取り、シャオユイの碗へ入れる。


「食べて」


少女は動かない。


碗に顔を近づける。


匂いを吸う。


眉が寄る。


「……死んだ魚の匂いがする」


小さな声。


「ペットボトルの水がいい」


ユ・モーランは立ち上がる。


部屋の隅へ行く。


空のボトルを持ち上げる。


逆さにする。


何も落ちない。


「見ろ」


静かな声。


「これで終わりだ」


少女は唇を噛む。


「……でも、気持ち悪い」


「わかってる」


彼は遮る。


「でも、お前はもう十歳だ」


視線を逸らさない。


「飲まなければ、死ぬ」


沈黙。


重い空気。


「嫌なら、いい」


声が冷える。


「そのまま座って、渇いて死ね」


リ・ジーシーが何か言いかける。


だが、視線ひとつで止まる。


シャオユイの肩が震える。


涙が落ちる。


やがて。


ゆっくりと、箸を取る。


一本だけ、持ち上げる。


目を閉じる。


口に入れる。


咳。


激しくむせる。


「吐くな」


低い声。


喉が動く。


無理やり、飲み込む。


箸が落ちる。


少女は机に伏し、声を殺して泣いた。


ユ・モーランは動かない。


拳の中に汗が溜まる。


それでも、手を伸ばさない。


――甘えは、死に直結する。


それを教えるしかなかった。


午後二時。


三人とも、まだ腹は壊していない。


ユ・モーランはカーテンの隙間に立つ。


安物の単眼鏡。


向こうの棟。


屋上に人影。


水を集めている。


巨大な容器へ、直接。


そのとき。


一人が滑る。


床には、透明な膜。


ゼリーのようなもの。


雨の中で増殖したそれが、地面を覆っている。


踏み外す。


支えが効かない。


二秒。


三秒。


消える。


数秒後。


鈍い音。


残った者たちは動けない。


一人が尻もちをつく。


もう一人は、下を見て――すぐに視線を逸らす。


命がひとつ、消えた。


あまりにも、簡単に。


ユ・モーランは望遠鏡を下ろす。


振り返る。


部屋の隅。


簡易トイレ代わりの密閉容器が、限界に近い。


リ・ジーシーは空のボトルを整理している。


「……これからは」


彼は言う。


「排泄は、袋に入れて外に捨てる」


手が止まる。


ボトルが転がる。


乾いた音。


彼女は顔を上げる。


化粧のない顔。

疲労。

乾いた皮膚。


「私たち……どうなるの?」


かすれた声。


「こんな臭い部屋で、こんな水を飲んで」


ユ・モーランは外を見る。


黒い雨。


そして、テーブルの上の液体。


透明で。

だが、どこか死んでいる。


「人でいられるなら」


彼は言う。


「どうなってもいい」

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