表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
《世界崩壊カウントダウン》通信断絶、物流停止――その日、日常は静かに死んだ  作者: リン・モ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/11

第6話 配給崩壊――列は、もう列の形をしていなかった



2027年6月21日、15時47分。


ユ・モーランは玄関に立ち、左手首にガムテープを巻きつけていた。

一周、また一周。


強く引く。

皮膚が引きつれ、内側で脈が鈍くなる。


それでも手を止めない。


――噛まれたら終わりだ。


誰に教えられたわけでもない。

だが、その考えだけが、やけに現実味を帯びていた。


ズボンの裾と靴の隙間も塞ぐ。

厚手のデニムジャケット。襟を立てる。

マスクとゴーグルを装着する。


寝室の前。

リ・ジーシーが濡れたタオルを握ったまま立っていた。


「行ってくる」


くぐもった声。


「“応急医療キット”って放送してた。シャオユイ、まだ熱が下がらない」


彼女は頷くだけだった。


「鍵は中から。ノックは“三長二短”。違ったら、開けるな」


「ああ」


ユ・モーランは袖の内側に仕込んだステンレスの麺棒を握り、ドアを開けた。


廊下は暗かった。


灯りは点いているのに、光が床まで落ちてこない。

湿った空気に、酸味の混じった臭いが漂っている。


一階降りるごとに、扉の向こうから音がする。

咳。

低い囁き。

押し殺した気配。


外に出ると、雨は一度止んでいた。


昨日、あの顔の崩れた男がぶつかった鉄扉は、固く閉じられている。

ドアノブには、血の滲んだ包帯。


中庭には人が集まっていた。


長い列。


――のはずだった。


だが、列は途切れている。

間隔が、不自然に広い。


二百人近い人間が、互いに距離を取り、周囲を窺っている。

防毒マスク。

ビニール袋を被った頭。

過剰なほどの防備。


昨日の出来事は、この場所だけのはずだった。

それでも、恐怖はもう全体に広がっている。


列の先頭。


折り畳み机の向こうに、自治会のワン主任が座っている。

体に合っていないレインコート。

顔色は悪く、唇が乾いている。


隣には若い警備員。

警棒を持つ手が、わずかに震えていた。


その背後。


積まれた物資は――少ない。


水の箱。

古い米袋。

そして、小さな段ボールが一つ。


赤十字の印。


ユ・モーランは視線を外した。


列は進まない。


前には、子供を抱えた女。

ぐったりとした幼い身体。

額に浮かぶ汗。


彼女は振り返り、ユ・モーランを見ると、わずかに距離を取った。


それが、今の正しい反応だった。


後ろで、咳の音がする。


「……ゴホッ……ゴホッ……」


一瞬で、空気が変わる。


人が離れる。

円を描くように、空間が空く。


「咳するな!」


誰かが叫ぶ。


「違う、ただの咽頭炎だ……」


言い訳は、誰にも届かない。


その場にいる全員が、同じことを考えている。


――もし違っていたら?


「静かにしてください!」


拡声器の音が割れる。


ワン主任の声は、かすれていた。


「世帯ごとに配給します。米五キロ、水一本。薬は重症者のみ――病院の証明が必要です」


ざわめき。


「病院なんて開いてないだろ」


「電話も繋がらねえのに」


不満は、抑えきれないほど膨らんでいた。


「規定です!」


警備員が声を張る。


その声が、逆に火をつけた。


「つまり、配る気がねえってことだろ」


列の横から、男が割り込んできた。

金髪。首に刺青。手には割れたレンガ。


「見ろよ、あれだけだ。後ろの奴ら、絶対もらえねえ」


笑っているが、目は笑っていない。


「上が隠してるんだろ。地下に運んでるの、見たぞ」


「デタラメを言うな!」


ワン主任が立ち上がる。


「だったら――奪えばいい」


誰かが、小さく言った。


次の瞬間、列は崩れた。


押す力。

押し返す力。


均衡は、簡単に壊れる。


「やめて、子供が――!」


前の女が叫ぶ。


ユ・モーランは反射的に腕を伸ばした。

倒れかけた身体を引き寄せる。


テープで巻いた腕に、重さがかかる。


背中に圧力。


息が詰まる。


「端に行け!」


低く言い、身体をずらす。


女は何も言わず、子供を抱えたまま外へ逃げた。


中央では、すでに殴り合いが始まっていた。


レンガが振り下ろされる。

警備員が倒れる。


机がひっくり返る。


米が、泥の中に散る。


誰かがそれを掴む。

別の誰かが奪う。


転ぶ。

踏まれる。


叫び声。


その中に、別の音が混じる。


――噛む音。


「噛んだぞ!」


「離せ!」


怒号が重なる。


赤十字の箱が破られる。


中身が落ちる。


絆創膏。

板藍根。

それだけだった。


ユ・モーランは理解する。


これは救援ではない。

ただの“配った形”だ。


そして、それすら維持できなかった。


彼は前に出ない。


一歩ずつ下がる。


花壇の縁に背をつける。


袖の中の鉄棒を握る。


視界の端で、人が倒れる。

誰も助けない。


見ないふりをする。


雨が、また降り始めた。


細く、油のような雨。


人の上に。

泥の中の米の上に。


ユ・モーランは一度だけ振り返る。


そして、走った。


家に戻ると、身体の震えが止まらなかった。


覗き穴は塞がれている。

光は入らない。


――三長二短。


ノック。


短い沈黙。


ドアが開く。


リ・ジーシーは包丁を握っていた。


彼の手を見て、何も持っていないことを確認する。

一瞬だけ、目が沈む。


だが、すぐに戻る。


「……薬は?」


「ない」


息を整えながら、テープを剥がす。


「嘘だった。物資はほとんどない。下は……もう駄目だ」


言葉を選ぶ。


「血が出てる」


それ以上は言わない。


彼女は何も聞かない。


上着を受け取り、袋に入れる。


ビニールの擦れる音。


寝室から、かすかな声。


シャオユイ。


ユ・モーランはベッドの横にしゃがむ。


顔が赤い。

汗。

浅い呼吸。


腕の中のぬいぐるみ。


「……パパ」


目を細く開ける。


「下……うるさい……」


小さな声。


「……野良犬が、たくさん……鳴いてるみたい……」


ユ・モーランの手が止まる。


野良犬。


さっき見た光景が、頭に浮かぶ。


噛みつく。

奪う。

倒れたものに群がる。


それはもう――人間ではなかった。


彼は手を引く。


布団を整える。


立ち上がる。


窓へ向かう。


隙間を、完全に塞ぐ。


雷鳴。


音が転がる。


下からの悲鳴を覆い隠す。


消す。


なかったことにする。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ