第5話 見ているだけの人間
2027年6月20日。
この日の夜明けは、ひどく渋っているように見えた。
何度も洗われて黄ばんで硬くなった死体袋のような空が、窓枠にべったりと貼り付いている。
午前十一時。
建物全体が、巨大な密閉容器みたいだった。
音も、電波も、すべてが底に押し込められている。
ユ・モーランは窓際に立ち、腕を上げたままスマートフォンを掲げていた。
右上の電波表示が、時おり一瞬だけ息を吹き返す。
一本。
――消える。
彼は腕を持ち替える。
スマホケースがアルミの窓枠に当たり、小さく音を立てた。
カツ。
リビングでは、リ・ジーシーがソファに座り、シャオユイに本を読んでいた。
『ハリー・ポッターと死の秘宝』。
普段ならもう見向きもしないはずの物語だ。
だが、十歳のシャオユイはソファの隅に体を丸め、クッションを抱えたまま、じっと聞き入っている。
リ・ジーシーの読み方は遅かった。
抑揚のない声で、一文一文をなぞる。
ページをめくるたび、指先で紙の端を何度もこする。
その厚みが、何かを繋ぎ止めてくれるかのように。
物語が終わらなければ――
あの蛇の顔をした存在も、窓の外の濁った霧の中から現れない。
そんな錯覚。
そのとき――
スマートフォンが震えた。
一瞬だけ、電波が戻る。
ユ・モーランの親指が画面を叩く。
ブラウザは白い画面のまま、何度も読み込みを繰り返し――
やがて、途切れ途切れの情報を吐き出した。
「6・17……太平洋……深層異常通報」
「沿岸部通信全面遮断……住民は屋内待機……水源に近づくな……高所へ移動……」
彼はすぐにアプリを切り替える。
チャット画面。
会社のグループには、「無事です」のメッセージが整然と並んでいた。
数百件。
まるで墓標の列のように。
それ以降は、誰も発言していない。
家族のグループ。
母親からの音声メッセージが一件。
昨日の午後。
再生する。
ノイズ。
電流音。
言葉は崩れている。
「……モーラン……そっち……水は……絶対……家……気を……」
その後は、二十秒近い無音。
ユ・モーランは画面を見つめたまま、「無事」と打ち込む。
送信。
小さな円が回り続ける。
回り続けたまま――電波が消えた。
この二文字が届いたのか、それともどこかで消えたのかは分からない。
いつの間にか、リ・ジーシーが後ろに立っていた。
彼女の視線は、画面に表示された動画に向いている。
自動再生された、短い映像。
海沿いの道路は原形を失っていた。
アスファルトが裂け、地平線の向こうから黒い水が押し寄せる。
鉄錆の色。
濃い。
重い。
人々はパニックに陥り、互いにぶつかりながら逃げ惑う。
そして――
映像は唐突に途切れ、黒に沈んだ。
ユ・モーランの脳裏に、あの言葉が浮かぶ。
惑星規模の衝撃の前では、地球は液体になる。
「シャオユイに見せないで」
リ・ジーシーが静かにスマホを伏せた。
声は低い。だが、迷いはなかった。
「分かってる」
ユ・モーランはスマホをポケットに入れる。
キッチンへ向かう。
蛇口に手をかける前、一瞬だけ止まる。
そして、回す。
――スゥゥゥ……
水は出ない。
断水直前の振動すらない。
ただ、地の底から空気を吸い込むような音だけが続く。
負圧。
手のひらが吸い付く。
冷たい。
鉄の味。
完全に止まった。
彼は視線を横に向ける。
浴槽には、半分ほどの水。
表面には薄い膜が浮いている。
その隣に、満タンのペットボトルが三本。
「モーラン」
リ・ジーシーの声。
バルコニーの前。
振り返らないまま言う。
「下、見て」
ユ・モーランは裸足のまま近づき、カーテンの隙間から外を覗いた。
向かいの棟の入口。
一人の男がいた。
雨具は着ていない。
色の分からないジャケット。
男は膝をつき、溜まった水の中で何かを探している。
動きがおかしい。
ぎこちない。
激しい。
錆びた関節を無理やり動かす人形のようだ。
「何してるの……?」
リ・ジーシーが小さく呟く。
ユ・モーランは首を振る。
分からない。
ただ、その姿は――どこか祈りに似ていた。
そのとき。
入口のドアが開く。
黄色いデリバリー用のレインコートを着た若者が出てきた。
手には袋。
彼も男に気づく。
一瞬、足が止まる。
避けようとした、その瞬間。
男が跳ねた。
前触れはない。
声もない。
ただ、一直線にぶつかる。
激突。
水が跳ね上がる。
男は倒れたまま、若者の足にしがみついた。
顔を押し付ける。
ユ・モーランは、袋を奪うのだと思った。
だが――違った。
次の瞬間。
悲鳴が上がる。
引き裂くような、歪んだ声。
距離も高さも関係なく、鼓膜を刺す。
男は噛みついていた。
犬のように。
骨に食らいつくように、首を振る。
布が裂ける。
肉がちぎれる。
若者は叫びながら、手に持った袋で殴る。
もう片方の足で蹴る。
何度も。
鈍い音。
それでも――離さない。
やがて、若者は足を引き抜いた。
転びながら、逃げる。
鉄の扉を叩きつけるように閉めた。
男は追わない。
地面に伏せたまま、喉の奥で音を鳴らす。
ゆっくりと顔を上げる。
紫がかった皮膚。
崩れた顔。
濁った目。
その視線は――
何も見ていなかった。
「……っ」
後ろで、リ・ジーシーが嘔吐をこらえる。
ユ・モーランはカーテンを閉めようとする。
だが、目が離せない。
気づく。
店の奥。
向かいの二階。
隣のベランダ。
――視線。
無数の目。
誰も外に出ない。
誰も助けない。
ただ、見ている。
誰も下へは降りなかった。
助けようとする者はいない。
通報しようとする者もいない。
声を張り上げて制止する者すら、いなかった。
団地全体が、死んだように静まり返っている。
聞こえるのは――
泥水の中で、あの男が何かを咀嚼する音。
そして、浴室の奥から響く、リ・ジーシーの乾いた嘔吐。
その二つの音だけが、奇妙に重なっていた。
歪んだ共鳴。
やがて、十分ほどが過ぎた。
ユ・モーランはようやくカーテンを閉める。
部屋は再び、薄暗さに沈んだ。
彼は玄関へ向かう。
靴箱の横に置いていた剔骨刀を手に取り、さらに工具箱を引き寄せた。
中を探る。
取り出したのは、強力なガムテープ。
「……どうしたの?」
リ・ジーシーが浴室から出てくる。
顔色は悪く、目の端には涙の跡が残っていた。
ユ・モーランはすぐには答えなかった。
視線は、防盗ドアに向けられている。
彼の目は、これまでになく暗い。
「さっきの若い男……足はもう使えない」
静かに言う。
「この環境じゃ、三日も持たない。傷は確実に感染する」
一拍。
「病院に行けなければ、終わりだ」
リ・ジーシーの肩が震える。
ユ・モーランは刀の柄を握り直す。
強く。
映画で見たことはある。
だが――違う。
あれは、あんなものじゃない。
人間が、あそこまで壊れるのか。
理解が追いつかない。
いや。
理解したくないだけかもしれない。
彼は視線を落とす。
自分の手。
刃物。
テープ。
そして――ドア。
外には、いる。
あれは、病気なのか。
それとも。
別の何かに、なり始めているのか。
部屋は静かだ。
静かすぎる。
まるで――
何かを待っているみたいに。
ユ・モーランはドアに近づき、耳を寄せた。
音はない。
気配もない。
それでも。
そこに“何か”がいる気がした。
彼はガムテープを引き出す。
ベリ、と音が響く。
その瞬間――
ドアの向こうで、何かが止まった。
気づいたように。
中にいる“音”に。
そして。
――コツ。
今度は、叩いた。




